闇の彼方に虚ろな影を見ていた。緊張のためか、微かに痛むこめかみを押さえて、私は足元に広がるこの濃紺の絨毯のような宇宙に拡がる気配に気を取られている。地球から来た人たちは宇宙を恐ろしい場所だというけれども、決してそうは思わない。宇宙は人は独りになることを教えてくれる場所、けれど同時に独りでは生きていけない私たちを受け止めてくれる場所。この世界の法則を形態にしたどんな数式でも求めることが出来ない意識。人の中に内包された思惟を本当に正確に示す方法なんてきっとない。できるだけ他の事を考えて、逸る気持ちを押さえつけるようにいつもよりも速く脈打っている胸元を押さえる。ふいに、胸を力任せに突かれるような衝撃が体中に広がって、直感のように閃いた世界には彼だけがいる。冷えた心を暖めるような幻が吸い込んだ息の中から総てを満たして、目の前にある世界がその姿を変えていく。私の総てが彼に流れ込むように、彼の総てが私の中に居場所を求めているのがわかる。これは共振とでもいうのかしら。あなたの事をもっと知りたくて、触れたくて、でももどかしくて、意識はこの身体を突き破って宇宙の彼方へと飛んでいく。確かにわかる。戦闘という状況が生み出した、極限まで研ぎ澄まされた意識の中で私はあなたをはっきりと視ることができる。あなたは私に総てを教えてくれて、見せてくれているつもりでも、心のどこかでは拒んでいる。人はこんなにも自由だわ、なのにどうしてあなたはずっとそこにいるの。そこで燻っているの。立ちすくんだまま動かないの。動こうとしなければ、前へは進めないのを知っているくせに、十年以上も前から、あなたの時間は止まったままで動こうとしないでいる。幾度も終わらせようとしているのに、続けたいと思っているのね。そうなんでしょう。抱きしめた心から伝うたったひとりだという孤独と私に誰かを重ねている現実に私はもう決めている。
「? こんなところにいたのか」
「アムロさん・・・もしかして私、探させてしまいました?」
私の心を彼方から現実へと意識を引き戻したのは、紛れもなくアムロ・レイの声だった。私の問いかけに、いや、と嘘をついているのがすぐにわかる硬い声音に頬が緩む。彼はとても優しい人だから、私に気を使わせないようにしているのだろう。
「個人的な理由だから、新しいシステムのことを話したいと思っていたし」
「だったら、通信でもしてくれればよかったのに」
「そうはいかないさ、さっきも言ったろう。個人的な理由だって」
軍の通信を使うわけにはいかないだろ、と小さく笑って彼は私の隣に自然に腰を下ろす。月面都市からはそう遠くない場所に軍需施設は設けられているために、私はこの街でひっそりと暮らしている。勿論彼も、と言いたいところだけれども、アムロさんは技術者の私と違って実戦の世界に生きているパイロットだから、一つの場所に悠々とは留まっていられない。家と呼べる場所は殆どないんだと苦笑して話してくれたけれど、その台詞がどうしようもない寂しさを伴って私の心に波紋のように拡がった。
「いつも、ここにいるのかい?」
「ええ、こうやって空を見ながら宇宙ってどういう場所だったのか思い返すんです」
「あいつを、思い出しているのか?」
「え?」
鋭く問いかけられた言葉に、私は一瞬声を詰まらせてしまったから、彼は慌てたように瞳を逸らす。私よりも年上で、色々な事を見てきているくせにこういう所はすごく子供っぽく見える。彼らしいといえば彼らしいけど、英雄が形無しだ。あぁ、でもこういうふうに言われるのは大切に思われているんだろうなと実感できて思わず口元がほころぶ。
「全部を忘れるっていうのは、難しいと思いませんか?」
「・・・そうだな」
「あの人の存在の総てが重すぎて、あの頃の私は受け止めるだけで精一杯だったのかもしれません」
支給された制服だけではなくて、女性として身の回りに気を使うようになった私を彼は想像できないだろう。もう二度と、会う事はないということを私は予感している。否、会うことがあっても彼は私をわからないだろう。忘れるというのは無理でも、単なる思い出として記憶の中に畳んでおくことはできそうだった。
「じゃあ、俺のことも、重いと感じるかい?」
「大丈夫。重くても、今度はちゃんと受け止めて、受け入れることができますよ」
「それを聞いて安心したよ」
冗談っぽく言っているくせに、本当に安堵したように笑む。たったそれだけの仕草でアムロさんがわかる。そう、私はこの人を愛しはじめている。彼はどうしてこうもあいつと同じ趣味をしているんだろうかと冗談めかして笑っていたけど、きっと隅々まで判りあえる人を探しているんだろう。ニュータイプはどうしてこうも寂しがり屋で繊細にできているのか不思議でたまらないけれど、それは人としてまっとうなことなのかもしれない。誰かとわかりあいたくて、わかってほしくて、愛してほしくて、愛したくて、そういう生き物だ。私だって、そう思っているもの。とりあえずと計画性もなく立ち上がって服についた埃を払うと隣にいるアムロさんを振り返る。
「これからお仕事は?」
「いや、今日は何もないけど・・・」
「じゃあ、私の家でコーヒーでもどうですか?」
とびきりの笑顔を浮かべて誘いかければ、彼は今度こそ破顔して立ち上がる。ごく自然に私の隣に並んで、ジャケットの襟を正しながら私の手を優しく取る。
「ついでにデザートもつけてくれるかい?」
「考えておきます」
暖めあうように繋いだ指先から、私はアムロさんといるという現実を実感する。眩しく光る空がやがて暮れなずむのを予感して、私はもう一度空を見る。否、宙の奥の闇に潜む彼の―クワトロ大尉の意識を。今日でここに来るのはやめにしようと思う。私の決心はそういうことだった。あれからもう三年以上経っていて、もう振り返ることをやめにしなければ、前に進めないのだ。あなたとしてしまったように逸れたくないの。逸れていってしまわないように今の私はただアムロさんの手を握ることしかできないけれど、見つめあえば意識が繋がる、唇に触れれば込み上げる愛しさを伝えることができる、互いに忘れられない記憶を持っていても、相手を労わって、新しい愛を育てることはできるはず。私とあなたはただ単にニュータイプということに甘んじていたのかもしれない。互いに寄りかかっていただけなのかも。考えさせられる事は多かったけれど、あなたにはできなかった関係を彼と築くことができるもの。だから、あなたの意識を受け止めるのは今日で最後にするわ。クワトロ大尉。いいえ、シャア・アズナブル。
彼の痕が消えるまで
( 人は独りではいられない 寂しさの星座から零れた花弁だからね )
20080420@原稿完成