広い邸の傍にある、使用人たちの暮らす住み込みの宿舎は仄かに賑わいを見せていた。留学先から本当に数年ぶりに戻ってきた私は、明るいうちに大まかな手続きをとってくれた旦那様へ挨拶に行くのと共に久方ぶりに話をした。とはいうのも、私はこの家に勤めている使用人ではなく、あくまで使用人の娘だという立場なので、今後どう生活を立てるのかという話だった。私に枷など初めから何一つなかったということを思い知らされたようで、旦那様の前では酷く喉が乾いて緊張したけれど、出来ることならば、自分でやることは自分で決めたいという意思をはっきりと彼に伝えることができた。そして、この邸で働く意思がないということも。私の話を聞いて、旦那様は最初驚いたように目を開いたけれども、それでもいつものように笑いながら、そういうことなら、とただ暖かく後押ししてくれた。この職は世襲制ではないから、君が無理をしているんじゃないかと心配だった、とまるで以前の私の心を見透かしたかのように彼は言ったけれど、私は何一つ気付かないふりをして笑いながら、旦那様の部屋を後にして久しぶりに歩く広い廊下を曲がり階段を下る。行く先々でこの邸の中では誰かとすれ違うけれど、殆どが顔を知っている人ばかりだ。そして、階を下りたところで、私は会いたくなくてけれどもいつかは会いたかった人がこちらを見ていることに気づいた。
「よお、」
「景吾、くん・・・」
私はこの時、彼をなんと呼べばいいのかまるでわからなかった。けれども、唇から飛び出したのは以前に呼んでいた呼び名だ。目の前の彼は以前の私と手をつないで庭を駆けた彼でもなければ、テニスに夢中になっていた頃の彼でもないような気がした。ただ面影は変わっていない。私の感じ方が変わった、ただそれだけのことなのかもしれないけれど、私は握りしめていた掌の力を緩めて、彼に向きなおった。そうすれば、彼はゆっくりと歩んで私との距離を縮める。そうすれば私は喉を張っても話さなくてよくなる。けれども、よくわからない焦燥感だけが私の心をうずめていく。言葉を選ぼうとした矢先に、彼の方が私に話を投げてよこした。
「留学してたんだってな、お前の親父から聞いたぜ」
「うん、そうなの。さっき、旦那さまにお礼を言ってきたところ」
「・・・なぁ、少し歩かないか?」
そう言って彼はかつて私が彼にしたように、私を庭へと連れ出した。いつだったか、彼の手を引いて歩いた英国の邸と少しも変わりなく、まるで敢えて記憶を閉じ込めるようにして姿を変えることはない。アーチを潜り抜け、迷路のように切り抜かれた垣根の中を歩めばそこは手入れの生き届いた庭園が広がっている。私はいつもここを眺めるたびに、彼の生きている世界を象徴するかのように豪奢で、抗い難い力を感じるのだ。
「これから、どうすんだ?」
「どうって?」
「勤め先とか、色々あるだろうが・・・」
先ほどまで、旦那さまに対してはするすると出てきた言葉が、彼を前にするとどうしても喉に引っかかったようで上手く言葉にならない。緊張しているわけでもないのに、何でもないのに喉の奥が不思議と疼いた。本当は側にいたいけれど、現実が邪魔をする。彼にとって私といることは気まぐれで、ただ過去の中にある一点を見つめているにすぎないのかもしれない。むしろそうなのだろう。けれども、私にとっては鮮やかに切り取った一枚のポートレイトのようにして煌めいている美しい思い出なのだ。離れがたい。彼の艶やかな青い瞳を見つめながら私はゆっくりと心の中の台本を捲る。
「私、たぶんここを出ていくことになると思うの」
「・・・そうか」
「景吾くんは、どうなの? これから・・・」
「さぁな」
「自分のことなのに、他人事ね」
「他人事ならよかったけどな・・・まぁ俺だっていろいろあるんだよ」
「そうね」
これ以上、見つめていることが息苦しくて、私は彼から視線を逸らす。婚約者のこと、家のこと、これから生きる未来のこと。思い浮かんだことは幾らでもあった。けれどもそのどれもが現実味を帯びすぎていて私に考えることをやめさせてしまう。まるで逃げるように彼に先んじて、芝生の上を歩きながら華やかな花々に指先を滑らせる。言うなればそれは私の恋という棺を埋め尽くす花束であったかもしれない。
「なぁ、。俺は・・・お前にどこにも行って欲しくない。そう言ったら笑うか?」
本当ならば、嬉しいと喜ぶべき心はいつの間にか凍てついて、信じ難いほどに醒めきってしまう。そして、唇から飛び出すのはあまりにもあっさりとした言葉だった。
「無理よ」
「何故」
「あなたにはもう婚約者がいて、私にはこの場所は不釣り合いすぎる」
「そんなことどうにでもなる、俺が今知りたいのはお前が・・・」
珍しく舌打ちをするという育ちには到底合わない悪態をつきながら、彼は私のことを睨むようにして見つめてくる。それすらも心地よいなんて、今の私はきっとどうかしているのかもしれない。心の中におかしなものが孕んでいる。
「私が?」
「お前が今、俺をどう思っているかってことだけだ。他のことなんてどうだっていい」
「私だって、他のことなんてどうだっていい。けど、現実はそうはいかないのよ」
まるで、私がイエスと言いさえすれば、彼はなんでもすると言いたげに私に語りかけてくる。だけど、私はここで朽ち果てる花じゃない。好きなところへ飛び立って好きに生きていきたい。その世界にあなたがいてくれたらどんなにいいだろう。けれどもあなたは、私にここにいろとせがんでいるから、私は宙に浮いたままどうしようもなくなってしまう。視線すら合わせることなく立ち去ろうとする私の背から気持ちごと掻き抱くようにして滑らせてくる腕を撥ね退けようともがくけれど、その抵抗が、彼の前ではあまりにも無意味だということを私はもう気づいている。あまりにも乱暴な抱擁と首筋に張りつく強い息遣いと、ただ低く。と私の名前を呼ぶ声が甘く耳朶を打つ。指先が頬と唇をなぞり、私は身を震わせる。出かかった言葉すら呑み込んで、今にも泣きたい気持ちでいっぱいだった。でも泣いたら負けだ。彼を唆したと罵られようとも―。そして、何も解決しないと知っていても今はただ、長年の隔たりを埋めるようにして互いの存在を確かめあうように、ただ羽をもがれるような、互いに消えない疵をつけあうような抱擁を味わうことしかできない。
麗しのサブリナ
( 檻の中で咲き乱れ 枯れ朽ち果てる前に )
20090509@原稿完成