“What about us?”
“We'll always have Paris.”
が三本目のシガレットを吸い終わる頃に、シャルル・ド・ゴールの到着ゲートは賑わいはじめる。
人込み特有の喧噪が聞こえ始めれば、は指に挟んだシガレットを灰皿にねじ込む。空港に併設されている小さなカフェで薄味のコーヒーを身体の中に流し込みながら、バッグの中からつい最近届いたエアメールの封筒を取り出す。宛名と差出人は見知ったものだが、残念なことにその手紙に添えられた一枚の写真の人物はに自己紹介すらしてくれない。つまり全くの見知らぬ他人なのであった。写真の人物を割り当てるように窓の外の光景と見比べながら、彼女は途方に暮れたように溜息を漏らす。
あたかも探偵気取りだが、そこまで人探しの眼力が優れている方ではない。残念なことにツーリストの中からその姿を探せという方が不可能なようであった。いい加減諦めて、四本目の煙草に火をつけようとしたその時、カフェに男が現れた。東洋人の若い男だ。
だが、東洋人にしてはいささか骨太で、近頃の日本人の男の線の細さに飽き飽きしていたにとっては心惹かれる造形である。上等な素材のコートを腕に引っかけて、スーツケースを転がす姿はビジネスマン然りだが何より気品があった。そこらの若い男とは違う。人探しは苦手なくせに、人の観察だけには発揮するの眼力が言うのだから、恐らく間違いはないはずだ。が写真と見比べることも忘れてほんの少しの間に彼に魅入っていると、その東洋人はの視線に気がついたのか足早に歩み寄ってきた。
「あんたか? ってのは」
「ええ、そうだけど・・・」
この店の中に彼の他に東洋人はしかいないために、当たりをつけるのはたやすいことだったかもしれない。は火をつけようとしたシガレットを諦め、ケースにしまいこみながら男の話に頷いた。声を低くした彼の問いはまだ続くようだった。
「話は聞いてるだろ、」
「話? まぁ一応」
「それじゃ話は早い、俺をさっさとアパルトマンに連れて行け」
男の口からあまりにも自然に飛び出した命令口調に、は思わずテーブルの上に置いていた写真と手紙を握りつぶしたくなった。
他人との兼ね合いや人づきあいは得意な方だが、えも言われずの命令口調だけは納得がいかない。媚を売ることもだが。は少しの間でも彼に魅入っていた自分がいたことを後悔した。睨むように男を見上げると、後悔ごと握りつぶすように手紙と写真を封筒に捻じ込み、ついでバッグの中に押し込むとテーブルを叩くようにして立ち上がった。
「・・・」
無言のまま立ち上がり、は男を視線で促す。男は大人しくついてくる気のようだった。
会計分より少し多い金を机に置いてカフェを出る。勿論、傍らには男がくっついているのだが、の沈黙にも嫌な気を起さないのか何も言うことはなかった。嫌な気を起こされでもしたらたまったもんじゃない。何せ、そもそも彼の知り合いから案内してやってほしいと頼まれたのは紛れもないの方なのだ。日本の中流階級で生まれ育ったがパリに暮らしているのには二、三込み入った事情というものがある。は職業柄、世界のどこを拠点にしても暮らしていけるが、一度は暮らしてみたいと思ったのがこのフランスである。母の高校時代からの親友であるというマダムの力添えがあってこうしてパリで悠々自適な作家生活を送っているものの、そのマダムから「ウチの息子が近々パリに行くので手助けをして欲しい」と頼みこまれたのだ。がこうして生活しているのもマダムのおかげというわけで、快くその申し出を引き受けたものの、まさかこんな典型的な大金持ちのおぼっちゃんだとは予想だにしていなかった。
「・・・」
黙ったまま男の顔を睨むように見つめると、相手もいい加減に焦れてきたのか吼えるような勢いでに訊ねてくる。
「何だ、さっきから急に黙ったり人の顔ジロジロ見やがったり」
「・・・別に」
「何だそれ」
「別に、マダムとは似ても似つかないって思って」
厭味を込めて、は男から目を反らしながら呟くと、彼は呆れたように言う。
「親子だからって何でもかんでも似てるわけじゃねぇだろ」
まさしく、正論である。
は反論しようと口を開きかけたが、言いかけた中途半端な反論を呑みこんで第二ターミナルの外に駐車しているタクシーを呼びとめた。黙って男のスーツケースをトランクに押し入れて、運転手に住所を告げながら二人はタクシーに乗り込む。
運転手が意味ありげな視線でこちらを眺めてきたが、須らく無視することにした。
***
『―・・・うちのバカ息子、ちゃんに迷惑かけてない?』
電話越しのその一言に、の胸中では様々な思惑が渦巻いたが笑って返す。
「空港でもちゃんと会えたので、迷子とかの面では問題ないと思いますよ」
『多少のことは目を瞑ってやって、一応あれでももう大人だし一通りの処世術は心得てるから、放っておけば上手くやると思うから』
「はぁ、そう言えばなんで来たんですか? 仕事か何か?」
思えば彼がこの地にやってきた理由と言うものをはよくわかってはいないのだ。
単にの借りているアパルトマンに数か月同居させてやってくれないかという案件のみしか知らされていなかった。生憎、はマダムの所有するアパルトマンで一番いい部屋を借りることができているので、使っていない部屋がいくつかある。一人暮らしにしてはやたらに広いその部屋を人に使ってもらったところで何ら問題はないのだが・・・。これから近くで生活しようというのだ。知りたいと思うのは多少の野次馬心があるにしても罪ではないはずである。
『大学が夏休みだから、一人でどこか行きたかったみたいなのよ。そんなのに付き合わせてごめんなさいね』
「いえ、いいんです。日頃からお世話になってるマダムの頼みだもの。私なんかで役立つことがあれば」
『ありがとう、ちゃん。そのうちまた連絡するから』
「はい。でも・・・本当に代わらなくていいんですか?」
バスルームから聞こえてくるシャワーの音を耳にとどめながらが訊ねると、マダムは快活に笑った。
『口うるさいって言うだけよ。あーあ、本当、ちゃんみたいな娘が欲しかったぁ』
「それは・・・なんていうか、あの、私なんかでよければいつでも」
『ふふっ、嬉しい。それじゃ今度またパリでお食事行きましょうね』
弾んだ声に、思わず唇が綻ぶ。
「はい、ぜひ。あ、それじゃ、失礼します」
シャワーの音が止んだのを機に、は受話器を下ろす。
マダムの役に立つことがあれば。それはもとよりの本心だ。こうしてパリで仕事をしながら悠々生活が送れるのもひとえに彼女のおかげである。パリで住む場所を提供してくれる知り合いなんて他を当たっても恐らく彼女しかいないであろう。母の人脈の広さにも感謝するところだが、同様に、マダムの心の広さにも感心してしまう。資産家の考えていることはわからない。テーブルに肘をついて、そんなことを考えながら冷めたコーヒーを喉に流し込み、は物思いに耽る。
備え付けたパソコンのキーを叩きながらコルクボードどカレンダーの存在以外において書斎とこの部屋を浸食する本棚の蔵書を眺めやり感嘆に一息つく。が持ち込んだもの半分、ここにもともと暮らしていたもの半分の按配で、本やレコードは要塞さながらに積み上げられている。
「・・・これ、全部お前のか?」
突然頭上から降ってきた声にが心臓が飛び出るほど、単純に驚いた。バスルームの扉が開いたことすら気付かないくらいに、考え込んでいたらしい。生憎、本棚を見上げたままの状態の彼がそれに気がつくはずもないのだが答えを促すような視線に気づき、は慌てて首を振った。
「ううん、半分くらい。殆どは元々ここにあったの」
「へぇ、じゃあ祖父さんのだな」
興味深そうに、彼は本棚を漁っている。譜面を大切そうに取り出しながら、に問う。
「ここって、お爺さんの家だったの?」
「いや、正確には母方の祖母の持ち家だ。イギリスにいたころ、よく家族で来たんだ」
「ふぅん。お坊ちゃんなんだ」
「まぁな。今更謙遜しねぇよ」
鼻を鳴らして笑う男に、はうらやましいともそうなりたいとも思わなかった。特別な感慨は殆ど湧かなかったといっていい。
ただ、冷徹なふりをするように傲慢に振舞う彼の内側に悲しいものが見え隠れする。つまり、一人になりたいと単純に思った時に、の住んでいるようなアパルトマンにやってこないと一人になれない環境にいるということだ。にはとてもではないが考えられない境遇の持ち主というべきか。一人になりたいと思った時にも周りは一人にはしてくれない。
でもそれは、愛されているということなのではないのか―・・・思わず眉根を寄せたの顔を彼は覗きこんでくる。
「なんだ? 羨ましいのか?」
「ううん、そうじゃない。なんかそれってすごく大変そうだなって思っただけ」
「・・・まぁな」
どこか渋ったように呟いた彼は、降りてきた沈黙を弾き飛ばすように「あんたは?」と問いかけてくる。その問いの意味を汲めず思わず首を傾げたに、彼は痺れを切らしたようにもう一度畳みかけてきた。
「だから、お前は何してんだよ。このアパルトマンで」
「《お前》じゃなくて。私の名前」
「あ、そ。じゃあ、お前は何してんだ」
結局一緒なのかよ。は内心頬を引き攣らせながら、考えあぐねたようにぽつりと零した。
「自由業?」
「何で疑問形なんだよ。さっき、なんか作業してたろ」
「だから、職業作家。別名自由業よ」
「作家?」
いかにも意外そうに眼を見開いて、彼は問い返してくる。鸚鵡返しのように聞いてくる様子が胸の内をくすぐり、は笑いを含ませながら頷いた。
「何、意外だった?」
「いや、祖父さんもそうだったから・・・」
意外な事実には思わず感嘆の声を漏らす。
「へぇ、坊ちゃんのおじいさまはどんなジャンルの作家だったの?」
の唇から零れた坊ちゃんという一言に、彼の表情は曇る。不快そうに眉根を寄せながら、ぶっきらぼうに言う。
「その《坊ちゃん》ていうのやめろ、《跡部景吾》だ」
「これは失礼。じゃあ跡部のおじいちゃんは?」
「堅物の作家のくせに、毎日のように祖母さんに詩を送ってた」
「ロマンチストね!」
跡部の語る、ここに住んでいたという知られざる老夫婦の話には弾かれたように笑った。そんなの笑い声とは裏腹に、跡部は今にも頭を抱えだしそうな勢いで恥ずかしそうに俯いて呻く。
「どこがだ。毎日詩って、尋常じゃねぇぞ」
は新しいコーヒーを淹れるために席を立ちながら、湯を沸かすために給湯器のスイッチを入れて跡部を振り返った。
シンクに寄りかかりながらは諭すように微笑む。
「恋すると、尋常じゃなくなるでしょ」
「何だそれ」
は立てた人差し指を振りながらうっすらと微笑むように唇を綻ばせた。「
Non, non.
気にしないで」勝ち誇る気配はない。ただ、彼が自分より若い。それだけなのだ。ただそれだけのことを思い知っては豆をケースから取り出して埋める。
一通りの工程が終わったところで振り返れば、まだ彼は眉間に皺を寄せ悩ましい表情を浮かべたままでいる。
「ねぇ、パリに来て、それからどうするつもりなの?」
話を挿しかえるようにが問えば、跡部は眉間の皺を僅かに緩める。
「折角の休暇だからな・・・。とりあえず今まで見れなかったオペラ見たり、本場のクラシック聞いたり、他の国まで行ったりするつもりだ」
「じゃあ不規則になるってことね。私も一日中ここにいるってことは少ないから、鍵渡しとくわ」
はふらふらとリビングから離れて自分の部屋まで戻りながらあちこちに散らばった書類や控えの原稿の束を掻き分ける。
ケースのついている棚の壁に引っかけている合鍵を取り出すとリビングにいる跡部に差し出す。慣れない様子で鍵を手にする所作が面白く、は改めて跡部に掌を差し出した。
「これからしばらくの間よろしくね」
「ああ、よろしく」
手をとりながら、はふとひとりごちる。― なんだ、意外とこれで可愛いところもあるかもしれない。傲慢で、自信家、極めつけは大金持ちのお坊ちゃんであるが、が想像するよりもずっと繊細な一面を持っているのかもしれない。期待というにはいささか小さすぎて、けれど確実に胸の奥を温かくするものの存在を認めざるを得ないらしかった。
***
エアコンの涼しさにベッドの中で身体を丸めながら、はあまりの寝苦しさに寝返りの折りに目を覚ました。
もどかしく腕を伸ばしながら枕元に置いた目覚まし時計を手に取りながらは呻いた。まだ午前四時だ。朝というには早すぎる。ブラインドの外を覗けば電燈の消えたパリの街並みが薄暗がりの中で浮かび上がっている。日の出にはまだ遠いようだ。本を読むにも電気が必要な時間帯にわざわざつけるのは億劫で、サイドボードから眼鏡を取り出して栞の挟まった分厚い本を指先でまくる。シーツの海に身体を投げ出しながら内容すらくまなく読みとれないというのに指先だけが紙の上に沈んでいく。
時間に追われることはあっても持て余すことはなく、使い方など飽きるほどに心得ていたというのに、今のは明らかに時間を持て余していた。指先が本に食い込んでいく程に、どうしようもない息苦しさに囚われて、は衝動的にベッドから這い出る。
朝日を一人で迎えることがこれほど重苦しいことだとは思いもしなかった。いつも誰かが傍にいたわけではないが、いい加減自由でいることに閉塞感と孤独を感じている。冷えた寝室から鬱陶しいほどの浅い熱気に包まれたリビングに飛び込むと覚束ない足取りでキッチンへと向かう。重い瞼をこすりながら、もはや日課となってしまったコーヒーメーカーのスイッチを押しこみ途方に暮れて台所の隅に座り込む。
眠くなってきた身体を丸めて船を漕いでいると、頬を軽く抓られる。あやすような優しい指先の温度に思いもせず甘い吐息が零れた。
「ん・・・」
「おい、風邪ひくぞ」
柔らかく頬に触れるだけだった指先がの頬を本格的に抓ったところで、彼女は我に返って眼を開いた。
「いひゃい、いひゃい、はなひてっ」
「くくっ、間抜けな顔」
押し殺したような笑い声と共に指先は離され、の頬を優しく撫でる跡部の手つきが心地よい。
は跳ねるように驚いて跡部を見た。まるで亡霊を見るような目つきだ。
「ウィーンにいたんじゃないの!?」
「あん? 帰ってきた。悪いか?」
「いや・・・別に、連絡くれたってよかったのに・・・」
「お前の番号を知らない」
「そうだっけ?」
呆れたように肩をすくめて跡部の方が先に立ちあがり、豆を炒る音に耳を傾けながらに問うてくる。
「朝メシは?」
「これから」
「お前、なんでここで寝てんだ?」
「ん? ちょっと寝られなくて」
地に足のつかない様子では気だるい笑い声をこぼす。
酔ったような正体の消えかかる媚態をいぶかしんでか、視線を合わせるように再びしゃがみこんで、跡部はの乱れた髪に触れてくる。よく寝ていないのがわかる程に、疲れた眼をしていることに気がついたのか、彼はの肩を撫でながら優しく引き寄せてくる。甘えるように大人しく跡部の肩に寄りかかりながらはぼんやりとした頭の隅で、自分が信じられないほどに感情を抑え込んでいることに気がついた。他人から見たらきっとうんざりするほどに感情を抑えつけて互いに接している。ちょうど、カップの淵ぎりぎりまで注いだコーヒーのように。上にスチームミルクを被せたらきっとこぼれ落ちてしまうように、感情が噴きこぼれやしないかとそればかり気にしている。
は跡部の肩によりかかりながら問う。
「ねぇ」
「あん?」
「ウィーン楽しかった?」
「まぁな。本場のクラシックが楽しめたし良い刺激だったぜ」
「よかったね。大学最後の夏休みなんでしょう?」
「まぁな」
苦い笑い声を交えて跡部は頷いた。の体温を傍らで感じ取りながら、彼は問う。
「なぁ」
「んっ?」
「お前、ずっとここにいるつもりなのか?」
「・・・わかんない。新天地を探したくなったらそこに行くわ・・・一か所には留まっていたくはないの」
「お前らしいな」
「ふふっ、そう?」
「ああ、そういうところが・・・」
言いかけた跡部はと視線を合わせようとちらりと傍らを顧みれば、規則正しい寝息が耳を澄まさずとも飛び込んでくる。
育ちに見合わないながらも軽く舌打ちをしながら、跡部は隣で無防備に寝息を立てている女を見、疲れが押し寄せてくるのを自覚した。
「タイミング良すぎんだろ。バカ」
跡部はを起こさない程度に軽く彼女の額を指先で突いて、不貞腐れた体で低く笑った。
が重い瞼を開いて目を覚ましたのは陽も昇り切った午後のことだ。
はあちこちを見渡して、自分がソファの上に横になっていることに気がついた。
ベッドから這い出てきた記憶はあるが、それからコーヒーを沸かして跡部と少し話しこんだのだ。
だが、ソファに行った記憶はない。
おや、と思うのも束の間、足元に触れる布の感触に触れれば丁寧に、タオルケットがかけてある。自分でソファに向かった記憶がない以上、こんなことをしてくれる相手は一人しかいない。身体を起こしながら期待するように周囲を見渡したが、跡部の姿はない。
慌てて撥ねるように起き上がり、彼の部屋を叩いても返事はない。ドアノブに手を伸ばして捻れば鍵がかかっている様子はない。
躊躇した末、無断で部屋を覗くのは躊躇われ共用しているバスルーム、書庫を兼ねた書斎、バルコニー。あらゆるところを徘徊したが、彼の気配を探し出すことは困難であった。タオルケットを引きずりながら落胆を露わにした足取りでとぼとぼと頼りなくソファに戻る。ふと、俯いていた顔を上げた時だ。いつもとは違うキッチンの様子が目に飛び込んで、驚きを隠せないままはダイニングテーブルに近づいた。
キッチンの傍のテーブルにラップのかかった皿が一枚載っている。レース編みの施されたクロスの素朴な色合いと、お気に入りのグリーンのデッシュは色鮮やかに眼に映る。その傍らに置かれたメモ用紙には、「食え」とある。恐らく跡部だろう。どこまでも彼らしく、は押し殺した笑いをこぼしながら椅子に腰を下ろす。
コーヒーメーカーを確かめれば、半分ほどコーヒーは残っている。温めれば飲めるだろう。お気に入りのル・クルーゼの鍋に余ったコーヒーとミルクを注いで火にかけながら揃いのカフェ・オレ・ボウルとラム酒を取り出す。沸々と煮立つのを待ちながら、は昨日のうちに買っていたフランスパンを備え付けのバスケットから取り出す。大雑把に切り落としてトースターに放り込みながら、煮え立ったカフェ・オレをボウルに注いでラム酒を数滴垂らす。ラム独特の風味をミルクの香りが引き立てる、のお気に入りだ。
今やブランチとなってしまった食材を並べながら、トースターから程良く焼けたパンを取り出し齧りつく。いつもは自分のために作った食材が飾られる皿は、なんだか今日は目に新しい。彼の作ってくれた不格好な目玉焼きとベーコンを見つめながら、は嬉しくなって微笑んだ。
***
跡部景吾の存在は、の日常生活に水を差すことなく、ただ時だけが緩やかに過ぎていく。
一見すると感じの悪い青年かと思っていたがそれはの大きな間違いで、頭は良くてスポーツも出来るらしいくせに、それほど器用に物事をこなせないのだと知ったのは意外にも暫く経ってからのことだった。は編集者との国際電話で綿密に作風を話し合った後、マルシェで購入した食材をふんだんに使いながら料理をするのが夏の夕刻の日課となっている。
本格的なディナーとはいかないが、丁寧に焼いた鶏にオリーブオイルとニンニクで炒めたトマトソースをかけ、しっかりと裏ごしを施した野菜のスープを煮込みながら、オニオンとサーモンのマリネを手際良く作る。それが一体何料理に分類されるものなのかにもよくわかっていないが、食べれないことはないはずだ。出来上がった料理を食卓に並べながらは珍しく跡部と顔を突き合わせながら食事をする。自分のために料理をすることは一人暮らしをしている以上間違いなく多いが、誰かと食事を共にするために作るというのは酷く久しかった。
「・・・うまい」
どこか腑に落ちない様子で呟く跡部が面白く、は口元を覆いながら笑いを堪える。
御曹司がどういう生活をしているか、ということは全くと言っていいほどに想像がつかないが、箸を止める様子がないことから褒め言葉として受け取ることにする。
「それはよかった」
頷きながら食事を再開していると、すかさず跡部が問うてくる。
「なぁ。お前、ただの作家だよな?」
「そうだけど?」
「勉強してたのか?」
「全くしてないけど、むしろ独学だけど」
の一声に明らかに固まっている跡部の口からは今にも「ありえない」という台詞が聞こえてきそうである。
咀嚼した食べ物を呑み込んだところで、は「失敬ね」と呟いた。
「何びっくりしてるのよ。ばかね、誰かが自分のために作ってくれる料理っていうのはね、どれもおいしいものなのよ」
「誰かが作ってくれる料理か・・・あんまり記憶にねぇな」
「・・・ないの?」
何か不味い心の琴線を刺激してしまっただろうか。は不安そうに跡部を見やって訊ねたが、彼はすかさず腹が立つような笑みを浮かべてくる。
「何辛気臭い顔してんだ。そもそも両親どっちも料理なんてしねぇんだ。当たり前だろ」
「あー、そっか。お手伝いさんか」
思わず感心しきった様子で納得すると、跡部は急に何かを思い出したように喉の奥を震わせ、さもおかしそうにの顔を見ながらこぼした。
「だからなんか懐かしくてな、祖母さんの料理みたいで」
は思わずフォークを取り落としそうになるほどに驚いた。―・・・祖母さん?・・・え、祖母さんだって?!
料理を褒められることは悪い気はしないが、なぜか急に脱力して肩を落としながら訴えた。
「祖母さん! ねぇ、せめてそれはおふくろの味とかじゃないの!?」
「くくっ、だよなぁ。普通・・・」
「・・・笑ってる場合じゃないでしょう」
怒る気などすっかり失せて、は椅子の上で脱力しながら背もたれにゆるく寄りかかる。
跡部とこんなふうに軽口を言いあうのも、それほど嫌いではない。何気ない日常が、柔らかくゆたっていくのを感じられる。思えば冗談を言い合ったり、軽口を叩くのもプライベートの中ではそれほど多くなかったことに気がつく。
そして―・・・
おや、と思ったのはその時だ。
あまりにも自然なものだと受け止めていたが、肩を震わせて楽しげに笑う跡部の姿をその時初めて目にしたということに気がついた。
呆気にとられたように料理に手をつけるのをやめてしまったに気付いてか、笑い声を落ちつかせると、跡部は訊ねてくる。
「どうした? 拗ねてんのか?」
「ううん・・・そうじゃなくて・・・なんでもないの」
は唇をほころばせる。
笑った顔を初めて見て、そしてそれが少し嬉しいだなんて、彼にはとても言えそうになかった。
―・・・ところが、の予想だにしない出来事はそれからもうひとつばかり繰り出された。
食後の後のデザートにはマルシェの傍のジェラート屋でテイクアウトした大好物のジェラートを味わっていた頃、コーヒーと共にそれは突然目の前に差し出された。
一枚の紙切れに何事かと顔を上げると、跡部が問いかけてくる。
「もし、金曜の夜暇だったら、行こうぜ」
「どこ? オペラ座?」
「一人で行っても面白くねぇよ」
ソファに座るの隣に腰を下ろしながら跡部はシャツのボタンを弄う。
スプーンを挟んだ指先で、オペラのチケットを眺めながらは思わず彼に問う。
「・・・デート?」
ほんの悪ふざけのつもりで口走った言葉だった。けれど、跡部は寄りかかった背を起こすと、ソファに肘をついていつになく鋭い表情で囁いてくる。
「そうしたい、って言ったら?」
あまりにも予想外の誘い文句に、思わずジェラートのスプーンを落としそうになり慌てて掌を握りしめる。
咥内で甘い滴で潤った舌先が言葉を選ぶように彷徨う。ソファに何気なくかけられた彼の腕を、その指先を見るだけでもどかしくて、息苦しい想いに囚われてしまう。
「わたし・・・」
は言いかけて跡部を見上げた。彼はを見つめ返す。言葉はそれ以上必要なかった。
肌の上までジェラートが甘く滴ってしまったように、堪え切れない感情があふれだす。あまりにも衝動的に、どちらが手を伸ばしたのか。気がついたら首筋に回った大きな手がを攫い、は跡部の首に腕を回し、口づけていた。
の唇に残る甘い滴を余すところなく味わうように、彼の舌は丹念にの唇を食む。「甘いな・・・ラズベリー?」問いかけに応えるように、キスの合間に、は跡部の唇に柔らかく噛みつく。彼から施される唇への愛撫を受け入れながら、けれども瞳だけは、それ以上の欲望を孕ませてはいけないと堪えるように潤ませては跡部に強く訴える。
「だめ、私・・・まだ好きなのかもわからない」
掠れた吐息を零しながら、は跡部の唇を指先で覆った。これ以上の熱を孕むことを抑止するかのような仕草だ。
跡部はに覆いかぶさりながら苦しげに低く呻いた。
「別に俺たち、何も悪いことなんてしてねぇだろ」
「わかってる・・・でも、こんなのよくない」
「なら、何ならいいんだよ」
どんな言葉が必要なんだ、跡部の瞳は確かにそう語っている。は浅い息と共に吐き出した。
不意に彼女はいつだか彼に言おうとした「恋をすると尋常でなくなる」その先を思い出した。甘いだけの恋なんて太るだけ、本当の大人は苦しいこともしっかり弁えていて、身体を合わせるだけが総てでないことを知っている。一線を踏み越えたら、はきっと冷静ではいられなくなってしまう。彼の存在を自分のすみずみまで行きわたらせたいと望むだろう。どうなるかはわからない。けれど、こうなる以外に何も思いつかない。どうしたらいいのだ。
「それがわからないから、苦しいのよ」
捉えようのないその苦しみすら包むようにして、跡部はを強く抱きしめて、低く掠れた声で囁く。「俺は、お前のことを・・・」のためだけに、甘い言葉を彼は唇から滴らせる。強く張ったはずの抑止の膜が剥がれ落ちていくのを感じてはゆっくりと瞳を閉じる。ただ、彼から注ぎ込まれる言葉を味わうために。