前はどうやって接していたっけ。
火傷するほど暖かいアールグレイの入ったカップにそっと指先で触れながら、は自分の指先をそっと見つめる。
この指が一際寂しいもののように感じられるようになったのは一体いつからだっただろうか。
時折食事をするスクールなんかの顔なじみはどこか誇らしげに薬指を撫でる。そこには名誉にも似た輝きを放つ指輪が填まっているのだ。
それがどうした、と一蹴することもできるだろう。間違いなくあの頃のならばしたに違いない。
けれども今や、感覚はとうに凍りついていて、哀しいほどに麻痺していた。
麻痺しているのか。ちがう、麻痺なんかじゃない。決定的な何かをごっそりと抉り取られてしまったように空虚なだけ。
あの頃のならばこの空虚さにつけ入れられる隙などないほど自信に満ちて断言できただろう。
つけ入れられるなんてただの被害妄想だ。ばかばかしい。けれども空虚で仕方がない。これは本当のことだもの。
「もうダメ! 我慢できない、別れよう」
昼下がりの穏やかな日差しが路傍に差し込む頃。
お気に入りのカフェのオープンテラスで紅茶を愉しんでいた筈のは、痺れを切らしたように突如立ちあがるとテラスを颯爽と踏み越えて、煉瓦が敷き詰められている端正な作りの路地へと消えていった。
あまりに突然の出来事に、彼女と彼女の連れは周囲の客たちや往来の通行人から突き刺さるような好奇の視線を浴びている。
それらに多少なりとも苛立ちを覚えながら―・・・見物料をふんだくってやりたくなったのはそっと心の中に秘めておく。
残してきた連れがどうなったのかが知る由も無く履きなれないヒールの踵に苛立ちながら歩いていると、
路地を抜けてやってきたロイヤルブルーの高級車が無理やりにを助手席に押し込んで、息もつかせぬ間に走り出す。
車がすぐさま走り出したお陰で、無様に助手席にしがみつきながら精一杯に抵抗の声を上げるが、
隣の席でハンドルを握る金髪の誘拐犯はが知る限りではあまりお目にかかったことのない、冷静沈着な横顔だった。
「・・・落ち着けよ、うっかり事故るから」
「そんなことしたら私たち、それこそお笑い種でしょうよ!」
「あー・・・やっぱ気づいてたか?」
それは紛れもなく、先ほどの往来の視線のことを指しているのだが、はどこか不満たっぷりに窓の外を眺めやっている。
よほど自分の顔が見たくないのか、とディアッカは内心溜息をつくが、それも仕方のない事かもしれないとどこかでこの事実を受け止めている自分がいる。
プラントの成人の基準は十五、結婚するのは大概十八から二十歳がピークというところだろうか。それは婚姻統制を含む含まないに関わらずだ。
これでも軍にいた間は随分と周囲を見てきたから、が自分にはひた隠しにしている焦りはどうしようもなく理解できる。
だからこそ、の苛立ちを責める気はおこらない。むしろ責められるべきはいつまでも踏ん切りをつけることができない自分にか。
恐らくと云わずとも、彼女は目に見える形で彼からの意思表示を受け取りたかったに違いない。
それは稚拙だと囁く人間もいるけれど、二人はもう口先だけで誤魔化せるほど浅い日々を過ごしてきたわけではない、引き返せない部分まで到達しようとしていた。
「俺が悪かった・・・これはこの場を処理するための言い訳じゃない。俺の本心だ・・・だから」
あっさりと自身の非を認めたディアッカだが、運転の傍らにふいにの左手を握り締める。おどろいたような非難するような視線を投げ打つの言葉を封じ込めるように、
自身の中に溢れきっている熱い感情をぶつけるように手のひらにちからを込める。別れようという言葉を撤回させたいとでも云うように。
「俺の話も、ちゃんと聞いてくれ」
いつもは胸をすくうような甘い声が、今日ばかりは凛としての耳元に届いた。
「は俺とは違って学もある。まだ色々・・・これからだろ? だから渋ってた、どうしたらいいのかわからなかったんだ」
「あたしのことを理由にして逃げないで! そんなのディアッカらしくない。あたしが愛しているあなたはそんな逃げ腰じゃない、戦っていた時みたいにもっと真っ直ぐなのがあなただって思ってた」
「わかってる。こんなのは俺らしくない」
真っ直ぐ前を見詰めたままの紫水晶の瞳が、苦渋に満ちて僅かに細められる。いや、苦笑している風だった。
そんな彼はの知るディアッカではないような気さえして、思わず目を背けるように外の景色に目を遣った。
いつの間にかプラントのハイウェイにさしかかっている。逃げ道はないということか。
一瞬にして我にかえった気さえして、痞えがとれたように、より冴えた気分になる。
未練がましく考えていたのは自分の方だ、とは空いているほうの手で胸元をぎゅっと押さえ込んだ。
それを多分ディアッカはわかっているのにあえてそういう風にふるまわない。そういう優しさがは嫌いだった。
これは優しさなのだとには理解できる。物事を円滑に進めるためだけに心得てきた処世術ではないと思う。
それがわかるのは恐らく彼と歩いてきた時間が他人という枠内の誰よりも少しだけ長いということが関係しているのだ。
「誰だってそうなるもんだ。そうだろ?」
いつもの気取った雰囲気が一瞬にして戻ってきて、は心底ほっとする。
思わず口元をほころばせると、やっと笑ったな。とディアッカが安堵したように囁いた。
「え?」
「あ、忘れてた。これやるよ」
運転中だというのに何の前触れも無く、ディアッカはへと小さな箱を投げる。
慌てて箱を受け止めただが、その感触には今まで感じた事のない思いが詰まっていた。
「これ・・・」
「薬指用じゃあないんだけど。重くはないだろ・・・これからゆっくり考えよう」
重くならないように、と彼が手渡したピンキーリングはその存在を主張しすぎることもなければ、地味になることもない。
彼の言うとおり、重くはならないはずだった。心臓に最も近いとされる指を捧げることによって示す愛情が人々がする指輪だというのなら、
これは運命をかけていると示唆しようとする者がその繋がりを証明したいと云わんとしているようで、は唇の端を上げた。彼の云うように、もう少し考えてみても悪くはないはずだ。
She will be loved
( きみへのメッセージは、果たしてきみへとつうじただろうか? )
20070808@原稿完成 盟友・我妻流為嬢に捧ぐ