あたかも一枚の絵画を思わせる光景だった。 ディアッカは休暇を利用してやってきたジブラルタルで、思わずその光景に見入っていた。 撤退の決まったジブラルタル基地とそれに隣接した民間用の空港のタラップを降りたところで、海を渡る桟橋に立つ人影に気付き、思わず目を凝らした。 女はその身に不釣り合いな古びた質感の大きなスーツケースを抱えて、ジブラルタルの桟橋に降り立つ。 ヴァカンス用のコットンのワンピースに昔の映画女優を思わせるつばの広い帽子、足元は軽やかなジュートウェッジのサンダルで。 背には雨期を間近に控えたジブラルタルの空を背負いながら、抜けるような青い空を大きく仰いでいた。 憎らしいほど絵になる光景に、ディアッカは思わず手元を休め、女の姿の観察に没頭した。 まだ若い女のようだった。 空を見て気が済んだのか、桟橋から踵を返して懸命にスーツケースを引っ張る姿はどこかあどけなく愛らしい。 まだそれほど成熟していない輪郭の線から見ても、自分と同じくらいか下くらいの年齢であっただろう。そんな若い女がこんな場所に一体何の用だというのだろうか。 ディアッカの疑問をよそに、女はふいに顔を反らして彼の視線をとらえる。事故のような唐突の出来ごとに、彼の方が驚いてしまう。 「ねぇ、ここに来るのは初めて?」 女の方が問いかけてくる。唐突な問いかけだったがあれだけ長く目で追っていただけに予感はあった。ディアッカは短く答える。 「いや、仕事で何度か。でもプライベートでは初めてかな」 「こんなとこまで一人で?」 「あんたこそ、こんなところで一人だろ?」 ほんのとげさしのつもりで言ってやったに過ぎなかったのに、女は腹を立てることも、苛立つそぶりすら見せなかった。 それどころか、虚を突かれたように目を丸くした後、女は唇の端を上げて微笑み、やがて頷いた。少女のような、あどけない微笑みであった。 今度はディアッカが一瞬ばかり気を取られれば、彼女はまた矢継に質問を重ねてくる。 「ホテルはどっちに? もう決めてるの?」 「ああ、この近くにとってる」 「へぇ、私も一緒に行ってもいい?」 「なに、もしかしてあんた、何も調べないで来たっていうのか?」 ディアッカの呆れかえった声にも彼女は笑うだけだ。まるで、そんな彼の反応などお見通しなのだと言わんばかりに。 「いいでしょう? 旅は道連れっていうじゃない!」 「まぁ、安宿でお嬢さんが音を上げなければ? いくらでもどうぞ」 「安宿上等よ、」 育ちの良さそうな風貌に似合わぬ物言いに、ディアッカは笑い声を上げた。なるほど、変な女だ。 とうとう投げやりな口調になったディアッカに、彼女は重そうなスーツケースを引きずって後ろをついてくる。 手荷物を持とうかとディアッカは手を差し伸べたが、彼女は笑顔で首を振る。「いいの、私が持ちたいのよ」 ヴァカンスにやって来たのであろう彼女へのディアッカからの心ばかりのレディ・ファーストだったというのに受け取らない。変わった女であった。 「ねぇお兄さん、お兄さん。お兄さんはヴァカンスに?」 歩調を緩めることなく歩き続けるディアッカに追いつこうと、飛び跳ねるように追いかけながら彼女は後ろからそう問いかける。 「そうだな、命の洗濯ってトコ?」 「ふうん」 「お嬢さん、あんたは?」 「同じく、放浪の旅よ」 「なるほど、贅沢な人生だな」 「そうね、とても楽しいわよ」 女は帽子の下の顔に満面の笑みを添えながら、白い歯を覗かせる。 宿を取ったホテルまで、あと少しという距離であった。 ―・・・だが、ホテルのフロントで予期せぬ歓迎を受けることになる。 「はぁ!? 部屋があと一つしかない?」「えっ、うそ!? 空部屋ないんですか!?」 素っ頓狂な声を上げたのは、どちらが先だったのか。もともと部屋数が少ない安宿ゆえに、起こりうる事態ではあった。 ふと、ぬるい視線を感じてディアッカが恐る恐る隣を見下ろせば、女は拝むようにこちらに手を合わせている。 「ソファでも床でもいいの、お願い!」 「・・・いやだね」 「なんで!? 一緒にここまで来たよしみじゃないの!」 「恋人でもない女と一緒の部屋だなんてあり得ない」 「ちっ、意外と身持ちが固いのね、」 「女が舌打ちしてんじゃねぇ」 「男尊女卑反対! 男女雇用機会均等法!」 「意味わかんねぇよ、いつの時代の話だ。だいたい身持ちってお前・・・そりゃ女に言う台詞だろうが」 「だって、折角ここまで来たのに・・・」 すぼまる女の口調に、彼のお人好しの蟲が俄かにうずく。面倒だと思ってはいても、大抵いつも引き受けてしまう自分の気前の良さを彼は呪いながら。 ちくしょ、まじかよ。面倒なことになった・・・。 ディアッカの心にまず過った言葉である。桟橋で立つ優美な彼女に魅入っていた代償にしてはいささか大きすぎるのではないか。 彼の内心の問答に勿論答えなどあろうはずがない。 擦り切れて使い込まれた彼女のトランクを見つめながら、ディアッカは大きく溜息をこぼした。
「いやぁ、快適! ベッド最高!」 「・・・お前、本当調子良いやつだな」 疲れを癒す目的で旅に出たというのに、明らかに疲れを背負い込んだ表情でディアッカは呟いた。 気付けば結局のところ、部屋に女を受け入れてしまっていた。 出会ったばかりだというのに容赦のないこの女に、苛立つどころか呆れるばかりだ。 そう、不思議と怒りが沸かないのだ。これが同じ職場の同僚にでもやられたら、間違いなく怒りを露わにしているところだ。 この女には、人を惹きつける不思議な魅力があった。それは、常に絶やさない笑顔であったかもしれないし、恥ずかしげもない笑い声であったりするかもしれない。 ディアッカはカウチの上に腰を落としながら、肩の荷を下ろすように目蓋を閉じて息を吐く。 安宿とはいっても、設備はそれなりによく、ベッドは寝心地が良さそうであった。きっと、女に譲ってしまうのだろうが。 テラスに添えられたテーブルや椅子は作りがしなやかで、傍に軍事基地があるとは思わせない優美な風景を醸し出している。 夕闇に染まりつつある空を眺めながら、ふと彼は女が何も話していないことに気がついた。 「・・・どうした? さっきから黙って」 「ううん、なんでもない」 「ふぅん。そうだ、夕飯は?」 よければ一緒にどうだろうか。さりげないディアッカの誘い文句に、女はベッドから身を起して、やがてはにかむように笑った。 おや、と思ったのはその時だ。 飾り気のない顔立ちに、花が綻んだような笑い声、どこから見てもあどけない少女のようだったのに、はっとするほど女になる。 ディアッカはジャケットの襟を正しながら、女に手を差し伸べた。 「俺の名前はディアッカ、お嬢さんの名前は?」 女は彼の手をとりながら、短く名乗った。「よ」。 浜辺に沿って歩いて、ホテルの傍にあるレストランでささやかな食事を取りながら、二人で楽しく酒を飲む。 泊っているホテルは安宿というだけあって、設備はそこそこだが料理は不味いらしい。 食べ物くらいは贅沢に過ごすことが、ディアッカの旅の楽しみであったから、には惜しみなく付き合ってもらう形となった。 二本目のワインボトルを空けながら、程良く酔いが回りはじめた頃合いにはディアッカに訊ねてくる。 「あなたって、普段は何をしている人?」 臆面もなく、ただ純粋な問いかけだった。 彼は、笑って答える。 「旅人だよ」 は酔った勢いもあってか大きく笑った。さざめくような、陽気な笑い声であった。 「で、本当のところは?」 「軍人。戦争屋だ」 少しは驚いて震えでもするかと思ったが、は更に愉快そうに笑っただけだった。 ただ、悪戯っぽく唇の端についたワインを指先で拭いながら、彼女は心なしか声を小さくして呟いた。 「でもしばらく用はないんでしょう? 平和だもの」 「まぁな。今じゃザフトは自警団みたいなもんだよ」 「ふぅん。平和なのね、いいことだけど」 「まぁな」 事実、軍に留まり続けることは今後どう人生を左右するのか、ディアッカにはわからない。 ただ父親の跡を継いで、議員になる自分を想定できない。 ラクス・クラインのように華々しい理想もなければ、キラ・ヤマトのように強大な力を持つわけでもなく、ただ現実と向き合いながら粛々と日々を送る。 自分には堅実であるということが一つの理想の生活の形でもある気もする。 だがこの虚しさはなんだ。そんな未来を考えていると、まるで虚空に蝕まれているように拭いきれない寂莫を感じるのであった。 「なぁ、聞いてもいいか?」 「どうぞ、」 「ここに来て、何がしたかったんだ?」 「ん? そうね、今日に限って言えば、星が見たかったの」 「星が?」 「今日の昼間の空を見た? 今夜はきっと、星が綺麗よ」 「ああ、あれは・・・そういうことだったのか」 ディアッカの零した言葉に、は首を傾げる。投げかけられる視線から、彼女の言わんとすることがわかり、ディアッカはとぼけたように笑って返す。「いや、こっちの話」 そう言ってしまえば、がそれ以上ディアッカに追及することはなかった。彼女は賢い。 教養というものさしではなく、人間として非常に優れた知性を持っている。 あくまで憶測でしかないが、男女の機微をきちんと心得て振舞えたり、人の言わんとすることを汲みとるのが上手かったりと、たぶんそういう他人との距離感をわきまえているのだ。 まるで猫のようにすり寄ったかと思えば、忌避することを敏感に感じ取って遠のく。その絶妙さ。 自分の周りには不器用な連中ばかりで、彼女のような人間は珍しかった。だが、嫌いではない。 夕食を終えた二人は店を後にし、ゆっくりと浜辺を歩く。 タクシーを呼ばなかったのは決して吝嗇家だからというわけではなく、単にが綺麗だろうと言った星空を見るためであったろう。 ディアッカは少し離れた場所で首が痛くなりそうなほど長い時間、真剣に空と向き合っているを見つめた。 「宇宙に恋人でもいるのか?」 自然と口をついて出た問いかけに、ディアッカの方が驚いてしまう。 返事の代わりに聞こえた気がする細い声が、波のさざめきだったのか、それとも彼女の笑い声であったのか。解せない。 「いたらどうするの?」 「いや、べつに?」 「そう・・・まぁいないけどね」 「へぇ、本当かよ?」 「しつこいなぁ、いないってば」 うんざりして、あきれ果てた様子のは、仕返しとばかりに問い返してくる。 「じゃあ、ディアッカは?」 「俺? 今はいないね」 「今は?」 「まぁ、俺が軍人だからな、いたような、いなかったような、だ」 「それは違うわね。あなたがきっと、誰にでも優しいからよ」 は星たちから視線を外し、砂浜の上に座り込んだ。 潮風に髪をひかせ、仰ぐように息をつくその姿に目を奪われながら、ディアッカは隣に腰を下ろす。 「誰にでも優しいって?」 「旅先で困っている見ず知らずの女を、同じ部屋に泊らせてくれるようなお人好しよ」 おどけたような口調に、今度はディアッカが笑う番のようであった。 喉の奥で押し殺したような笑い声を漏らす。喉の奥を通り抜けるおかしさに、彼は想起した。思えば、こんなふうに声を上げて笑うのは久しい。 「お人好し・・・ねぇ、人殺しだとは何べんも言われてるけど、そりゃ新鮮だ」 ふと、ディアッカがに視線を向ける。彼女には何か言いたそうな気配もなければ、逡巡しているような素振りも見せなかった。 素朴な女だ。それでいて、一筋縄ではいかない女。瞳には煩わしい熱さがなくて、思わずこちらから火をつけてやりたくなる。 にわかにやってきた沈黙は夜の訪れと共に不確かな熱をまぶしていく。 向かい合うほどに熱は、互いを徐々に浸食していく。だが、二人はお互いから目を反らすことはなかった。 ディアッカが身を乗り出して、に顔を近づけると、彼女はまるで、それを予感していたかのように瞳を閉じる。 流されてもいい、心のどこかではそんなふうに思っている。けれど、彼は吐息を彼女の唇に引っかけただけで、身体を離した。なに、一時の迷いだ。 そんなふうに理性に帰って身体を離そうとすると、彼女の睫毛が湿って、瞳が訴えるように彼を見るのがわかった。 拗ねるように身を竦ませて、彼女は仕返しとばかりに耳元に息を吹きかけてくる。熱い吐息が首筋を伝う。 「星を見るんじゃないのか?」「もういいの」繰り返されるやりとり。だが彼女の瞳は、彼の言葉から、指先から、熱を探すように甘く辿る。 誘うような媚態で拗ねるをあやすようにディアッカは指先で彼女の髪をすくい上げて絡める。 陽によく晒された自らの褐色の指先は、薄暗がりの中で見ると彼女の白い肌の上で溶けるショコリキサーのようだ。 「悪い男ね、人をその気にさせといて」 その瞳の奥に、あどけない少女の影はない。 彼女の腰を抱いて強く引き寄せながら、ディアッカは彼女の耳元で低く笑った。 「ああそうだよ・・・なんせ、人殺しだからな」
*** ヴァカンスの朝は緩やかな日差しが窓辺から差し込んできたところではじまる。 なんと自堕落で、そして優雅な朝なのだろうか。 もう少し寝ていようか、薄手のシーツの上で寝がえりをうってから、彼は隣にあるべきものがないことに気がついた。 ベッドから身体を起こし、周囲を見渡せば、辺りに散らばったスーツやワンピース、ネクタイ、シャツの姿が飛び込んでくる。 昨夜まで隣にいたの姿を探した。ところが部屋をぐるりと見渡しても姿はなかった。代わりに薄いカーテンが捲れた先を見ればすぐに見つかる。 「おはよう、」 ベッドから降りて、ディアッカが声をかければ彼女は少し窮屈そうに振り返った。 何か、作業に没頭しているらしい。 「あ、起きた?」 「まぁ・・・ところで、何してるんだ?」 「ん、絵を描いているのよ」 手元に視線を戻して、は黒檀を持った指先を動かす。昨夜とは打って変わって、白かったその指先には黒檀の残す痕がくっきりと刻まれている。 それにしても器用な手先だ。色彩を帯びていないただの白と黒の紙だというのに、気がつけばそこには風景が浮かび上がっているではないか。 ディアッカはの背後から彼女の作品を覗きこみながら問う。 「絵描きなのか?」 「そうよ。あ、そういえば云わなかったっけ?」 「そうだな、そういえば・・・聞いてない」 うなじにかかる髪をひと房すくい上げ、ディアッカはの白い首筋に吸いつけば、 指先から黒檀を筆箱に落とし、はくすぐったそうに身を捩る。その拍子に手元が狂った彼女のスケッチブックは大きく頁をはためかせた。 ディアッカは目に飛び込んできた不思議な光景に思わず目を奪われる。 「なぁ、これって・・・」 「ごめんなさい、勝手に描いて気を悪くした?」 「いや、」 気の利いた言葉は、いくらでも出てくるはずなのに肝心な台詞は何一つとして口から出てくることはなかった。 絵の中には、ベッドの上で眠っている男が一人。 ただそれだけの絵だというのに、ディアッカには昨夜に感じた、肌に溶けていく甘くせつない濃密な気配をいとも簡単に蘇らせる。 女の肌が、男の肌に溶けるというが、逆があっていいはずだ。 ディアッカは確かに、自分の体内の熱や、皮膚から生まれる感情の一つ一つが彼女の上にあるいは彼女の中に溶けて沁み込んでいくのを感じていた。 はディアッカの首に腕をまわしながら抱きついて、耳元で蕩けるような台詞を流し込んでくれる。 ディアッカは思わず笑い声を上げながら彼女を再びベッドへと運び、唇を寄せる。ヴァカンスはまだ、始まったばかりだ。
"陽にさらされて、けれど決して崩れない私だけのショコラ。溶けるのは私の肌の上だけ、素敵でしょう?" |