ステンレスの蓋に閉じ込められている砂糖たちの詰まった小瓶を濃いコーヒーの上で振ったとき、最後のひと振りであまりにも沢山の砂糖が出すぎてしまった時のはにかんだ笑顔だとか、文字のはげかけた香水の瓶など、私がそれらを心のどこかで愛しいと思い始めた時、既に恋ははじまっている。それと同時に私の喉を通過するのは、ある特定の人物の精液と煙草の煙、そして唇をあわせたときに舌にうつる安っぽいリカーだけになってしまう。それは一見、とても重い病だが、大人に近づくにつれて、ミルクと半々になったフランス式のコーヒーのような苦くて乳臭いものとして忘れ去る技術を身につけることが出来るようになる。自分の技術を過信したために起こった私の失敗は、人にはただの色恋沙汰として語られるだけで終わるだろう。私は心からそうありたい。そうあってほしいと願っている。私の中でそれが極めて重大な意味を持っていると他人に知られるくらいなら、舌を噛み切ったほうがいい。なぜなら、記憶が何の価値も持たないくらいに小さく思え、あらゆる男たちから習得した恋愛の手管なんて何の意味もないのだ。私にそう確信させたのは、彼が欲しいというただそれだけの気持ちだった。私はただ彼が欲しいのだから。
「窓を開けてよ、ディーノ」
返事はない。半分開いたバスルームのドアから白い湯気が音を立てるように激しく私のベッドに流れ込む。目覚めたとき、私の睫には水蒸気が絡みつき、眠りながら泣いていたかのような嫌な気分になる。私には泣く理由なんて一つもないから、これが少し間の抜けたあのディーノの仕業だと知ってかすかに安堵する。シャワーを浴びるときはドアを閉めろとあれほどきつく云ったつもりだけど・・・。大方の想像はつく。彼は最初は私の言うことを守ろうとしてドアを閉める。うちのアパートはイタリアでも新しいほうだけど、彼の住む屋敷とは比べ物にならないのだ。しばらくすれば大量の湯気に我慢できなくなり、申し訳なさそうにドアを少し開けるのだ。そんな彼の姿ならばすぐにでも想像できる。今日は私が寝入っていたために、断りを入れるのを忘れたみたいだった。姿はどれほど変わっても、私の前になるとへなちょこな所を隠せないのだから。
仕方なく、私は起き上がる。窓を開けようとぬるい温度のフローリングを歩きながら、指で髪を梳く。
指先に髪の毛が絡まり、見れば爪の割れ目に一本髪の毛が引っかかっている。私はそれを見て溜息を洩らす。昨晩、彼が私の爪を割らせたのだ。固い彼の肩には銀色に塗られた私の爪の欠片がきっと刺さっていたはずだ。伸ばすとすぐに割れてしまう私の爪の過ちなのに、私はディーノを少し恨めしく思った。可愛そうな彼。窓を開け、アパートから空を見る。太陽は真上にあり、ぬるい陽射しが自分の体温と同じ温度のように錯覚する。春の終わりの猫のような気分になり、だるくてもう一度ベッドの上に身体を滑らせる。私の体から流れ出たディーノの体液が、ゆっくりと下着を汚していく。
ラジオのスイッチを入れ、煙草をくわえようとしたけれど、結局煙草を吸うのは諦める事にした。彼はあれで、女の喫煙には色々五月蝿い。顔を上げれば側のカウチに昨日置き去りにされた薔薇の花がまだ瑞々しい花弁を窓からの風に揺らしている。陽射しが少し、薔薇の花びらを揺らしたように感じる。花を静けさを揺らしたのは太陽ではなかった。太陽を見ると少しだけディーノを思い出す。あの髪もそうだけど、彼の持つ雰囲気が少しだけ太陽に似ていると思うのだ。私は無意識に手を伸ばし、花弁を無造作にもぎ取った。オペラピンクの花びらは手のひらを開けばはらはらと零れ落ちた。
シーツの上に広がったその柔らかな花弁を指先でつまみ、口に咥えると、甘ったるいようなほろ苦いような味わいが口の中に広がった。その濃いピンクの花びらが、私の足の指に散る爪の色とそっくりな事を思い出す。
「どうしたんだ? ・・・悩み事でも?」
気がつけば、彼が後ろに立っていた。
「悩み事? えーまさか」
「本当か? 恋人からの贈り物の薔薇を散らして、悩み事でもあるのかと思ったぜ」
「あったとしても、ディーノには言わないと思う」
「おいおい、そりゃないぜ。俺が随分頼り甲斐のない奴みてーじゃねぇか」
「そうね。シャワーをする時にドアを開けちゃうとか」
まさにそうじゃない、と笑うと彼は少し困ったように視線を泳がせる。どうせ言い訳なんて思いつかないに決まってるのだから、素直に認めてしまえばいいのに。
「、悪かったよ」
「そうね、今日は許してあげるわ」
私の腰に絡みつくディーノの腕を、いたわるように触れる。彼は私を可愛がることが得意でいつも心を砕いてくれているのだけれど、その好意を私はまるでハイヒールの踵でするように踏みにじってしまうことが常だった。私はいつも同じ種類の男を選んでいた。私の振る舞いだけで一喜一憂する可愛らしくて時に情けない、しなやかな獣のような男たち。見つける事が困難な、しかし一度目を合わせれば、何を語る必要もない。彼らは嗅覚を利かせて私の元に駆け寄り跪く。私が彼らに総ての幸福を与えると信じている。そういう種類の。そう、私はこのマフィアでへなちょこの、ろくでもない男を愛しているのだ。
「ねぇ、ディーノ」
「ん?」
「私、あなたを愛してると思うわ」
「とっくにわかってるよ。そういう決まりなんだ」
ディーノと私という組み合わせは社会における一つの規則。とでも言うように彼は呑気に笑った。いずれにせよ、私にはもう彼という名前の刻印が押されていることに間違いはなかった。
ただ私は指で揉みしだかれ、裸にされ、蜜を吸い取られる花弁になってしまうことを恐れている。
ひとでなしの恋
( 誰だって、きっと誰かの「特別」になりたいのだ )
20071007@ 原稿完成
ヒロインの方がアンビバレンツでひとでなし、ですね。