薄い扉の隙間から零れ落ちる光はうっすらと瞼の淵を焼くようにして眠りの海に沈んでいた私の意識を呼び覚ました。 それは重い瞼を押し上げるには十分なほどの明るさだったけれど、その正体が朝陽とはまったく別のものだと気づいたとき、 まだぼんやりとする意識を引きずりながらも、温かさの残るベッドから這い出て扉の隙間からそっと明るくなっている部屋を覗き見た。 扉に手をかける瞬間、何か食べ物が焼けるような香ばしい香りが鼻先に辿りついて扉の外に広がる小さなキッチンでは見慣れた赤茶色の髪の持ち主が忙しなく動いている。 全く予想だにしなかった人物の登場に、私はただ呆然と立ち尽くしてしまう。確かに、合鍵は渡してるし不自然なことなど何一つない筈なのにばかみたいに目を瞬かせている。 そんな私に気づいたのか、彼―英二はすぐにコンロの火を捻って休ませ、すぐにでもこちらにやってくる。


「あ、。目ぇ覚めた? まだ寝てても平気だけど?」

「・・・あ、うん。ここにいる」

「じゃあ、先に顔洗って来いよ」


その時、私の喉に出かかったあらゆる言葉をいとも簡単に押し込めてしまった手際の良さには舌を巻かずにはいられない。 どうしてここにいるの。だとか年末は丸々バイトなんじゃなかったの。だとか、実家に帰るって言ってなかった、だとか。言及する言葉の数は多岐にわたる。 そのどれもが口をつくことはなかったけれど、気持ち的にはどこか納得のいかないまま洗顔を済ませて、重い瞼を持ち上げる。 だけれど、こんな何気ない朝を迎えるのは悪くないと心のどこかで思っていて、昨日の夜の目を閉じるまでの不機嫌さも、朝目が覚めるまでの寂しさもいつの間にかどこかへと消えていた。 きっとタオルで覆った私の口元は、たぶん嬉しさをこらえきれずに綻んでいたに違いない。鏡を見なくたってわかる。 なんだろう、この胸の奥をじんわり締めつけるみたいな、コーヒーの中にゆっくりと注がれてなみなみと揺れるミルクのような柔らかくて心を不思議と落ち着かせてくれるような暖かな気持ちは。


? もうすぐできるからなー」

「うん、今行く!」


ゆったりと間延びした声が狭い廊下を突き抜けてやってきて、私は慌ててタオル掛けにタオルを引っかけると、 この妙な緊張感を悟られないようにしてリビングに戻る。自分の家だというのにこの妙な落ち着きのなさはなんだろう。 靄がかかったような、ぼんやりとした気持ちで立ち尽くしていると、食卓を整えてくれていた英二がふとこちらを向いて訝しそうな顔をする。


「ん? どした? やっぱ疲れてんじゃ・・・」

「ううん、大丈夫。英二こそ、どうしたの? 今日バイトだって言ってなかった?」

「うんにゃ、本当はそうだったんだけど、シフト代わってもらっちった」

「えっ、なんで?」

「だってさ、なんか寂しいだろ。もう年末で、年明け間近なのにさ、彼女とも会わないで過ごすのってさぁ」


確かに、私たちの付き合い方は一般的な視線から見たらどうも合理的過ぎるかもしれない。 時間がないなら作ればいいと云う人もいるけれど、会えないならしようがないし、会える時に会うしかないじゃないか、というのが私たちの持論だ。 彼と付き合っていた子の中には、それが耐えられなくて別れたという話をそれはよく聞いたものだったけれど、私たちはなんだかんだで結構うまくやってきたと思っている。 英二は一見明るくてやんちゃで、無鉄砲なように見えて、実はすごく物事を冷静に見据えているし、色々なことを考えている。 それは彼と長年テニスを一緒にやってきた大石くんの影響もあったかもしれないけれど、英二が末っ子だからということも深く根付いていると思うのだ。 高校時代からの延長線、大学生になってからでも、この付き合い方は変わらなかった。 彼の生活の主軸が部活からサークルとバイトに変わり、少しは広がっていくかのように思えた私の期待も大学入学後数か月にして潰えて行った。 別に多くを期待しているわけじゃない。だけど英二の何気なく発したこの言葉が、信じられないくらいに変な実感を伴って私の胸を小さく突いた。


「私ね、ちょっと寂しかったんだよ。別に恨み事言ってるわけじゃないけどさ、去年もクリスマスなかったし・・・一人だし」


使わないフライパンを片付けようと、台所で細々と作業を始めている英二の背中に額を預ける。 小さく当たる彼の体温がゆっくりと肌に馴染むのを感じながら、私は少しだけ背伸びをして彼の背にそっと手を伸ばす。 その無茶な体勢を嫌がることなく、英二は作業を続けながら私に肩越しに囁きかけた。


「放っておいてごめんな。俺、心のどこかでなら許してくれんじゃねーかって甘えてた」

「うん、」

「やっぱ長いと寄りかかっちゃうんだよな。無意識にさぁ」

「そうだね、私も言わなくても伝わってるかなって心のどこかで期待してた。馬鹿だよねぇ、言わなきゃ何にも伝わらないのに」


いつの間にか水道の蛇口を捻り、フライパンの汚れを水に流しながら小さく頷く。 彼は私たちの間にあったわだかまりごと一緒に流し去るようにして、綺麗に洗い終えたフライパンの底を拭いてコンロに戻す。 ふと一息ついた瞬間に、赤茶色の髪の毛がかすかに動いたのが合図だった。 指先が英二の背から離れたと思ったら不意に抱き込むようにして強く抱きしめられた。 暖かい空気の匂いと、彼からするコロンが混ぜこぜになって、私は強く息を吸い込んだ。 抱きしめられたのなんて久しぶりだったこともあるし、意識すれば改めて間近に感じる英二の息遣いと匂いをもっと感じていたかった。 掌を押し当てた背中が緊張や様々な感情が揺れ動くようにしてやわらかく上下するのが伝わって、心なしか速くなる私の鼓動を合わせるようにつま先を押し上げて彼の腕の中にめいっぱい寄りかかる。


「だいすき」


無意識のうちに零れ落ちた私の心を掬いあげるようにして、英二はゆっくりと私の髪を撫でる。 私の言葉を、余すところなくかみしめるように、小さくはにかむのが見上げた先に飛び込んでくる。


「俺も、のこと大好きだし」


好きじゃなかったらこう何年も続かねぇって。と彼は小さく笑う。そうだね、と返しながら私はただただ頷くことしかできない。 こんな風に言葉にして気持ちを伝えあうなんて、何年振りだろう。普段素面だと恥ずかしくなってなかなかできないけど、こんなにも突然に、何でもない風に言えてしまうのだ。 訪れの遅い朝の中で、私は安堵したように暖かい吐息を零す。ツリーを飾らなくても、クリスマスのプレゼントがなくたって全然構わない。 彼がいなかったら、そんなもの到底意味をなさない。だってこんなにも近くに大切な人がいることを感じて、私は泣きそうなほど嬉しくなれるのだから。 涙を溜めこむ私の瞳をささくれ立った親指がゆっくりと撫でた。英二の指は乾燥して荒れていて少し肌触りは悪かったけど、その手つきが優しかった。 あぁそうか、あのなくなったら不安定になりそうで、柔らかくて不思議に心を乱すあの感情を、きっと幸福感というんだ。
















君の体温に埋もれる

(なぁ、。やりなおそうぜ、クリスマス。そう言って彼はいつものように歯を見せて笑う)







原稿完成@20081229