寒い夜に改札を抜けて、私は自分の唇からこぼれる吐息を黙って見ていた。
夜だというのに街の中は賑やかで騒がしく、緩やかな体温、冬の吐息よりも白く濁る煙草の煙。 それらが私に思いださせるのはさっきまでいた寂しく曇る東京の夜。人のぬくもりとは程遠いのに、どこか危うい魅力を持つ場所。 でもそれらが本来負う役割は、そんな夜を思いださせるものではない。本当は私の中に息づいている暗闇そのものなのだと、私は心のどこかで知っている。 指の痛さに耐えられなくなってしゃがみ込めば、擦り切れたように赤くなっている小指の付け根が目に飛び込んでくる。 使わずに溜まる一方だったバイト代を少し使って、見栄を張るようにして買ったのが運の尽きだったか。 買った当初は足に馴染んでいたように思えた靴が久しぶりに履いたら少し緩くなっていたがためにこうして足を痛めてしまう。 それは悲痛な叫びをあげることの叶わない心が代わりにそうさせているようで私は静かに息を吐く。


さん?」

「え?」


蹲っていた私にかけられた声は到底見知ったものではないのだけれど、振り返れば見慣れない姿の男性がこちらを伺っているようだった。 人違いでもなんでもなく呼びかけられた名前は間違いなく私のものだったけれど、彼の姿に見覚えのない私はどう返事をしていいのかわからない。


「え、あの・・・はい。ですけど・・・」

「あぁ、やっぱり。でもその様子じゃ、僕の事を覚えてないでしょう?」


無理もないか。と微笑してみせた彼の姿を私は覚えているような気がしてしまうのだけれど、記憶を紐解こうにも出来ず、こういう時ばかりは長期記憶の悪さを呪うしかない。 人の浮かべる表情を機敏に感知できるなんて勲章モノだと感動するしかない。 それでも私の放っている近づかないでというシグナルに気づかないのか、敢えて気づかない振りをしているのか。彼は私に構うことをやめなかった。


「足痛いの? 立てる?」

「いいえ、大丈夫。我慢できない痛さじゃないから・・・」

「じゃあ、行こう」


そうして優しく手を伸べて、彼は私の腕を掴んだ。ほっそりとしていると思ったけれども、決してそんなことはなかった。 私よりも大きな手がしっかりと私を引き上げたのだから。久しぶりに自分は女だと意識させられたのが、恋人ではなく見ず知らずの人だという事実がとてつもなく虚しかった。


「あの・・・見知らぬ人にそこまでしてもらうのはちょっと・・・」

「そこまで断言されると流石に傷つくね」

「ごめんなさい。もしかして・・・私たち、どこかで会ってますか?」


言った事があまりにも的外れだったのか、彼はしばしの沈黙の後にさもおかしそうに笑い出した。 昔から意識せずに言葉にしてしまう癖があるのでよくないとは思っていたけれど、こんな反応が返ってくるとは思わず却ってこちらが考えあぐねてしまう。 奇妙な空気の中に放り投げられたような感覚に気まずさを覚えて居心地を悪くしていると彼はひとしきり笑って満足したのか口元を軽く押さえて息をつく。


「あの、気に障る事を言ったなら謝りますけど・・・」

「いや、さんらしいなって思ってね。そういうところは変わってないんだね」

「はぁ」


ただ曖昧に返事を返す私の態度に痺れを切らす事もなく、むしろそんな状況を愉しんでいるかのように彼はゆっくりとした歩調で私の横を歩く。 まるで私の足を気遣って歩調をあわせてくれているような雰囲気に気まずさは増すけれども、私は結局抗うという言葉を見つけ出せないまま彼の隣を歩き続けた。 彼は私の足の具合を時折尋ねるくらいで特にこれといった話をせずにいてくれて、私は不思議と安堵していた。 今、何かを聞かれたり話したりする事はとても苦痛だった。久しぶりに逢った恋人とほんの些細なことで喧嘩をした。 どんな内容だったのか思い出すのも辛いが、彼の就職活動が上手く行かないという話からだったように思う。 相手が年上だということもあって、融通の利かない私を餓鬼だと言って罵ってきた心の狭さに、 こちらから折れるのも癪になってそのまま袖を振るようにして待ち合わせの店を飛び出した。 腹立たしくも哀しくもあり、飛び乗った電車で家に帰ることも出来ずに、実家のある方向にこうして戻ってきてしまったのだ。 思い出すだけで胸の奥がひりついて痛むような錯覚すら覚えてしまう、折れてしまったのは間違いなく私の心の方だった。 裂いたように傷ついた心を繋ぎ合わせてくれるものはきっとどこにもない事を私は良く知っている。 終わったのだと諦めるのは途切れた糸を繋ぎ合わせるよりも遥かに簡単だった。


さんはさ、いつ頃こっちに戻ってきたの?」

「え、あ・・・ごめんなさい。何?」

「いや、いつ頃こっちに戻ってきたのかなって」

「あの・・・」


彼の物言いは、暮らしていた街を出て大学の側の小さなアパートに暮らしている事を知っているかのような口ぶりだ。 大学には通えない距離ではなかったのだけれども、いい経験になるかもしれないと敢えて選択した道だった。 何故知っているのだろうかと居心地の悪さに身震いしそうになる私に気づいたのか彼は小さく笑う。


「僕、そんなにさんの記憶に残ってない?」

「高校かどこかで、同じクラス・・・だった?」

「うーん・・・僕のこと、気になる?」

「それは勿論、気になるよ。私が知らないのはフェアじゃないもの」

「確かにそうだね。でも僕の口から言うのはなんだか面白くないな」


そう言って朗らかに笑う彼の物腰の柔らかさに、私は微かに記憶の端を掴めそうになるけれども結局、答えは見つからなかった。 街路樹が規則正しく並ぶ通りを歩きながら私は傍らの青年をちらりと見やる。


「意地悪だね」

「そうかもね、好きな子には意地悪したくなる性質なんだよ」


お前は小学生か、と思わず心の中で突っ込みながらもそれを声に出すという事はなかった。 もう少しで社会人なのだから、少しは口を慎まないといけないだろう。と自身の感情をぐっと堪えたところで、彼の言葉の意味に気づく。


「えっ、何今の」

「こんなこと、二度も言わないよ」


そんなのおかしいと叫び出したい気持ちで私は彼の言葉が冗談であるように願った。 こんな気持ちの整理すらついていない時にそんな言葉を言わないで欲しい。せめて冗談なんだと言ってもらいたかった。


「考えておいてよ、さん。少しでも気になったら、卒業アルバムで僕を見つけて欲しいな」


僕からは教えてあげないよ。そう添えて笑いながら彼はすぐに踵を返していった。こちらの方面ではなかったらしい。 そんなことはどうでもよかったけれど、悪戯っぽい彼の笑顔と隙のない身のこなしに、きっともてたんだろうなと他人事のように思う。 冗談でも言わないで欲しい事が現実のものとなり、私は神様に救いを請わずにはいられない。 ―あぁ、神様。私はなんて現金な女なんでしょうか。恋人と別れたばかりだというのに、今しがた出会った殿方に心奪われようとしているのですから。 心で呟いた声に、神様からの有難いお言葉が降ってくるという奇跡もなく、私は一人街路樹に沿って歩き出した。 靴擦れを起こした足はまだ少しだけ痛むけれど、やはり我慢できる痛さを保ち続けている。 家についたらきっと、母と父が驚いたように私を迎えるだろうけれど、私は部屋に入って本棚から中学高校のアルバムを探すだろう。 その中から彼を見つけだして、どんな人だったかは思い出せなくても、名前くらいは見ておこうかな。 答えあわせの仕方は教えてくれなかったけれど、またいつか会ったときにでも答えあわせを願おうか。


 








Chercher

( 私を呼んで 私を聞いて それだけで輝くあなたの足跡 )







突然の娘の帰宅に、母と父はやはり驚いたようすだったけれど、いつものように優しく迎え入れてくれた。 ご飯を食べたのかと気を遣ってくれる母にもう済んだのだと告げて様子を見に来たとか忘れ物をとりに来たなど適当な言い訳をくっつける。 恋人と上手くいかなくなったので骨休めに来ましたじゃあ格好悪すぎる。けれど、例によって 彼とは仲良くやっているのかという質問を適当にはぐらかして、私は自分の部屋に入って暫く放置していたアルバムを開いて、山のような写真の中から彼の姿を探す。 これが彼の策略だとしたら大したものだ。こうして私の記憶にしっかりと残るように振舞ったのだから。 十二クラス編成の中学と高校のアルバムをめくりながら懐かしい思い出に浸っていると、ふと彼の面影を持った一人の少年の姿を見つける。


「・・・へぇ、不二くん、っていうんだ」


同年代の男の子には興味がなかったということもあって、特別何か話をすることというのはなかった気がする。 何より私は高校の時、一年ほど留学していて、一年ダブっていたということもあり尚更のことだった。 彼だったのか、と思うのと同時にそういえば学校の新聞なんかに何度か載っていたかもしれないと思う。 今日会ったのは多分偶然で、もう暫くは遭うこともないだろうとアルバムを眺めていたけれど、不意に部屋をノックする音が聞こえ、現実に引き戻される。 部屋を叩いたのは間違いなく母で、ドアを開ければ昨日か一昨日に投函されていた往復はがきを渡してくれる。


「あなたのところに送りなおそうかと思ったんだけど、いいタイミングだったみたいね」


そう言って母は笑い、父の呼ぶ声に答えるように背を向けてしまったが、手元にある手紙を見ればそれは同窓会の知らせだった。 答えあわせをする時間はあるみたい、と私は不思議と弾む心の中で呟くと手近にあったボールペンで参加の欄に丸をした。











20080411@原稿完成