朱に拡がる空に藍色が微かに混じりだす頃。私は小さな工場の前に立っていた。
この場所に、用があるのかといえばあるし、無いといえばそれまでだろう。
ただ、切れそうでいて切れない関係ならあった。町の隅にひっそりと存在するこの工場は、私の祖父が死ぬ間際まで大切にしていた宝物だった。
過去形なのは既に閉鎖されてしまい売却済みとなって他者の手にその権利は移ってしまったからだ。親戚一同の決定を退けるような術は私にはない。
私も列記とした“大人”であるはずなのに、彼らからしてみれば世間を知らないただのお子様なのだろう。
この場所も、売却されたからには工場ではない別の用途に使用されるのだろう。その手始めにここを更地に戻すことから。
祖父は別にここを残してくれだとかそういう遺言を残したわけではないのだけれど、私は妙に心に引っかかりを感じていた。
「・・・?」
躊躇いがちな響きが混じった聞き慣れたけれども最近はめっきり聞かなくなった声に、私は自然と振り返った。
小さな路地の角に立っているのはこちらからでもはっきりとわかる背の高い人影。
呉れないの空に混じって見える安堵したような表情は私がここに居る事を予知していたかのような気安いものだった。そう彼は私の弟。
振り返った私の顔を認めると、弟・・・一馬はこちらに歩み寄ろうとしてきたけれど、私はそれを制するように彼の方へと駆け出す。
「どうしたの?」
「、ケータイ家に置いてっただろ。とりあえず母さんが探せって言うから、多分ここだろうって・・・」
「あ・・・ごめん」
俯きがちな姿勢で歩きながらそっと謝る。まだ完全に夜になったわけでも無いだろうに一馬を来させるなんて、まったく母さんも心配性だ。
私だって分別のある大人なのだからどこへ放浪しようがきちんと帰ってくるというのに。
「一馬、試合で疲れてるんでしょ? わざわざ来なくても良かったのに」
「いや、俺も最後に見ておきたいって思ったし・・・」
「そっか」
久しぶりに逢ったというのに、私たち姉弟の間で交わされる会話はどこかぎこちなかった。
別に仲が悪いわけでも、ましてや特別に良いわけでもないのだから、それは仕方の無い事かもしれない。
いまさらどうということもないだろう。まぁ、小さい頃は当然のように手をつないだりだとか、そういった事はしたけれど。
あまり話もせずにいるのは、一馬が中学生で私が高校生くらいの時あたりからで、多分二人の間に横たわっている中途半端な年の差がそうさせていたのだろう。
それから私は大学に進学し、彼は念願の夢を叶えてサッカー選手となった。正反対のような道を進む私たちでも、現実にこうして一緒に歩いている。なんだか不思議なことだ。
肩を並べて立つ私たちは旧いこの町工場から離れて家路に向かおうとしている。この辺りの町並みは昔とすっかり変ってしまったのだけれど、
なんだか昔もこうして肩を並べて、その時は手をつないで帰った事があったなぁと思い出して、私は思い切って隣にあった手を取ってみる。
私の突飛な行動に、隣の一馬は驚いて目を丸くしているけれど、私の口には懐かしむような笑みがこぼれだした。
「昔もこうやって、おじいちゃんの工場から歩いて帰ったことがあったわね」
「そうだな・・・そんなこともあったよな」
昔なら明らかに照れてすぐに手を離しただろうに、一馬は私の手を拒む事もせずに握り返してくれた。少し嬉しかったなんて事は秘密だ。
その手は昔とは違って、私の手をすっかり覆ってしまうほど大きくなっていて、私は少しだけ驚いた。ああ、この子も男の子だったんだって、初めて気づいたみたいに。
「ねぇ、おぼえてる? おじいちゃんが私たちにお小遣いをくれた時のこと」
「えー? そんなことあったか?」
記憶の糸をたどるように、藍色の絵の具を数滴垂らしたように変り始める夕暮れの空を一馬はじっと見つめている。
降参とでも云うように、私に答えを求めてくる彼に、私は少し残念に思った。
それはあまりに突飛で子供の頃の私には衝撃以外の何者でもない話だったのだから。
一馬にはぜひ覚えておいて欲しかったというのに。まぁそれは今からでも遅くない話だ。
「あの時一馬は小さかったから、おぼえてなくても仕方がないか・・・。まぁでも昔ね、おじいちゃんが私たちにっていきなりお札を取り出したの」
「うん、それで?」
「そう、それで・・・それが一万円札だったの。普通一万円札って二人では分けられないじゃない。あの人・・・何しだしたと思う?」
「あー・・・破った、とか?」
ある程度の見当をつけて尋ねる一馬
の予測は突拍子も無かったが、祖父の行動を知っている私たちにしてみれば、いっそ“やりかねない行動”に含まれる事は間違いなかったのだけれど、
残念ながら一馬の勘は外れていた。そうして私は否定を交えて、違うわ、と首を横に振った。
「丁度半分の位置から少しずれた所にいきなり線を引いたのよ、しかも油性マジックで!」
信じられないでしょ。とあの頃を思い出しはじめて呟いた私の声に、一馬は笑いを堪えながら、先を促す。
その声に応えるように、私もあの頃の記憶を引き出しの隅から取り出すようにして思い出したことを少しだけ説明を加える。
祖父はそれから、こともあろうに半分より大きい幅の・・・彼曰く七割の部分に達筆な字で「」と書き、残りの三割くらいの部分に「一馬」と書き足したのだ。
それから私に畳みかけるような口調で何事も無かったかのようにしてこう告げた。
「はお姉さんだから七千円で、一馬は弟だから三千円だ。二人で仲良く使うんだぞ」と。
そこまで教えてやると、一馬はとうとう堪え切れずに笑い出した。
「あー・・・やっべー・・・で、はその後どうしたんだよ?」
「あの頃は偽札なんて出回っていなかったから、最初は自動販売機でジュース買って崩そうと思ったんだけど・・・。何度やってもお札が吐き出されちゃったのよね。それで最終手段でコンビニでガムでも買って崩そうと思ったの」
今思い出すとドキドキ所の話ではない。心臓破裂モノだ。あの頃の私は今よりも度胸が据わっていたんじゃないかと思う。
小さく折りたたんで、私はそれをガム購入の為に使い、返ってきたお釣りと商品を持って脱兎のごとく駆け出したのを今でも忘れない。
名前が書いてあるとはいえども、多分お金としては機能するはずだった。あの一万円。店員さんが折りたたんだものをその場で広げなかったことが唯一の救いだ。
でも、よく考えたら、この辺の住宅で一馬となんて名前がついてる姉弟なんていうのは私たちくらいしかいないのだ。
あの後何の音沙汰もなかったことが不思議でならなかったけれど、残ったお釣りのうちの三千円はちゃんと一馬に渡した事まで覚えてる。
私は残りの約六千円を一体何に使おうかと迷ったのだけれど、結局貯金箱の中に入れる事にしたのだった。
ある程度の事の顛末を話した辺りで、一馬は肩を震わせて笑っている。よほど可笑しかったらしい。
「あの頃は、そういう目先の事しか考えてなかったから・・・楽しかった。ほんとに」
「そうだな」
今が特別つらいわけでも、楽しくないわけでもない。いつだって今が一番なのだ。だけれどたまにはこんな日があってもいいじゃないか。
祖父の関わる思い出話に浸りながら、私たちは一歩一歩、この領域から離脱していく。
あの場所を忘れてしまうということは無いと思うけれど、もう二度と見る事は無いのだと思うと、酷く切なかった。
でも、先ほど祖父の工場を見た時のわだかまりはいつの間にか振り落とされてしまったかのように軽くなった。
完全になくなってしまえるほど、簡単な話でもないのだから軽くなっただけで万々歳だ。
家の明かりが見え始めた頃でも、私たちはまだ手をつないだままゆっくりと歩いている。
「はお姉さんだから・・・」と云った祖父のあの件を思い出
す。私はなんだ。そうすると・・・お姉さんだからって何かしなきゃいけないのか。そんなことを卑屈に思ったこともあった。でもいまならわかる。特殊な世界に進んだ弟がいつかは立ち止まって現実を見る瞬間が来てしまうかも知れない。それがいつなのか、そんなことは私にはわからない。だけどもしもそんな日が来てしまった時に私は一番年齢の近い血縁者として彼を暖かく迎えてやるということが必要なのかもしれない。ま、
恋人には意地を張って話せないような話もあるかもしれないし。現に私はあるんだけど・・・。私はふと立ち止まって、来た道をそっと振り返る
。そう、たまにはこんなことも悪くはない。
手をつないだままなのだから、一馬も自然と立ち止まる形になってしまったのだが。
「ん? どうしたんだよ、」
「ううん・・・なんでもないの・・・帰ろうか」
正直、未だにあの一万円札のことはよくわからないけど、確かに私にだってあの頃はわからなかった何かが、わかりはじめたのだ。
茜さす 帰路照らされど
20070604@原稿完成
久しぶりに書くホイッスル!はなんだか新鮮でした。いつものことながら、夢らしくなくてすいません。