先生、聞いてくださいよ。それでねー」


バイト先の生徒の話に耳を傾けながら、私は時計を盗み見た。もう九時半を過ぎているのか。 授業終了のチャイムが鳴ってもう授業は終わっているというのに・・・だからこそか、 他愛もない話を延々と続ける生徒の声に私は曖昧に相槌を打っていた。誰かに話を聞いて欲しいのだろう。 だが申し訳ないことに、私は彼女のとりまく環境通称「半径五メートルトーク」に正直ついていけずに、「そう」だとか「困ったね」だとか。 そういう無難な返答を返すことしかできていない。まったくこんな大人になって申し訳がない。 とはいえ私は世間的にはまだ学生という区分におり、子供と大人の間を未だに彷徨っているのだ。


「っていうかうちの親、酷くないですか?」

「うん・・・確かに厳しいけど、なんともいえないなぁ」


私は使っていた机の上を整理しながら、「もう九時半過ぎてるんだから、帰ったほうがいいわよ」 と優しい大人のふりをしてその子の背を押してしまう。そうして、あっさりとそれに納得しその子は気まぐれに表情を変える。 さようなら、と送り出してから、私は疲れた身体を椅子に凭れさせかけた。 至極あっさりと勤務報告を終え、先輩講師の人たちに恐れ多くも先に帰ると云う旨を伝えさも心苦しいかのようなふりをしながらバイト先を後にする。 そろそろ一年だしバイト変えようかな、と。ちかちかと目障りに光る頭上の電灯を見ながら私は考えている。 職場の人間関係にも疲れはじめている。カップルで就業してきたらしい先輩などは当たり前のようにくっついているし ―・・・まぁ、生徒の前ではしないというモラルくらいはあるみたいだけど。生徒と関係を持っちゃう人はいるし。 そんな事は私の僻みのようにしか聞こえないことなんてとうに知っている。だから私はこのどろどろしたものを胸の奥に仕舞っておく。 私だって好きなときに好きな人と一緒にいたいって思うし、それが許されたっていいと思う。 でも現実はそうはいかない。なぜなら、私の愛しの彼氏様には私よりも大切なものがあるのだから! いや、そんなことは付き合うときにとうに承知済みで、高校時代から一にサッカー二にサッカーだった訳なのだけど、 彼がプロになってからはそんな生活に拍車をかけた。去年なんて、J2落ちしてしまった柏の順位を上げるために死に物狂いで私なんかろくに構ってもらえなかったのだ。 もうそんなこと、根に持ってはいないし、大人気ないから口にする事も無いのだけれど。

行きつけの総菜屋の袋を下げたままで窮屈な靴を脱ぎ、部屋のあちこちに電気をつけながらやっと辿りついたリビングのテーブルにビニール袋をのせる。 着ていたジャケットを脱ぎ、手を洗うために来た道を戻ろうとしたときに紅く点滅するランプがふと眼に留まった。 珍しく入っている留守電だった。私はこういうとき、この留守電が一馬からのものではないかとほのかな期待を抱いてしまう。 再生すれば誰の物なのかすぐにわかるから指をパネルに押し付けるのを躊躇ってしまう。簡単なことだ、期待が裏切られることを畏れているのだから。


『あー・・・さんのお電話でよろしいでしょうか。こちらは××塾の―・・・』


パネルを押せば、私の期待はあっさりと裏切られた。先ほどまでいたバイト先からのものだったらしい。 連絡があるなら出勤した今日に言えばいいのに、と内心毒づきながら留守電をそのままにして洗面台へと向かう。 勿論、その間に来た道につけっぱなしにしてきた電気を消すことを忘れない。それは単純に私のお財布のためだ。 手を洗う事に集中しているはずの私の脳に、ふと仲良く手を繋いで歩くカップル同士の映像がよぎる。 あの先生がどういう風に彼女と話すのか私は知らないし、どうだっていい。 だけど一馬は私をかわいがるのがとてもうまい。 ただし、それは私の体を、であって心ではないのだと思う。私も彼に抱かれることはできるのに、抱いてあげることができない。 何度も試みたにも拘わらずだ。他の人は一体どういうふうにこの隙間を埋めているのか私は知りたかった。 仲の良い友人や一馬の仲間である郭くんたちに打ち明けてみても具体的には教えてくれない。いっそこうしろと誰かに命令されたらどんなに良かったか。 示された処方箋の通りに薬を服用するように私は彼の抱える痛みや苛立ちを受け入れたい。 けれども、それが彼とセックスするより遥かに困難だということに気づくまでに時間がかかりすぎた。 何故もっと早くからそういうことを気にするようになれなかったのか、私は自分を哀れんだ。 胸の中に押し込んでいたものが堰を切ったように溢れ出し、私はそれらを押さえつけるように蛇口をぐっと捻った。


『俺、真田一馬だけど・・・』


突然聞こえてきた電話越しの声に心が一瞬跳ね上がった。けれども私はこのメッセージを飽きるほど聞いている。 削除しようにもしそびれた旧い伝言だ。


『バイト、だったんだよな・・・お疲れ、こっちは今練習が終わったとこなんだ。は明後日は都合つくか?明日試合があるんだけど、スタメンで出れそうだから来て欲しいんだ。もちろん、チケットはあるから。その・・・なんだ・・・最近構ってやれなくてごめん。でも俺はお前に会いたいって思ってるよ 。あ・・・うん。それだけ、だから』


いつも処世術として使う 適当な相槌なんかでなく、私は真摯に思う。私も会いたい、と。タオルで手を拭くのをやめてリビングに戻り、留守電を一旦止める。 私がこれからすべき事は多分買ってきた惣菜を食べる事に決まっているのに、無意識にバックの中から携帯電話を手にしていた。 折角買ってきた惣菜を冷蔵庫の中に押し入れながら、もう片方の手で押しなれた番号を探す。たった一回
ボタンを押せば、その答えはすぐに出るはずなのだ。


『もしもし?』

「私、だけど・・・今大丈夫?」

『あぁ、練習は午前中だけだったし・・・』

「あっ、そうなの? お疲れ様」


どうやらタイミングは悪くはなかったらしい。けれど周りが少しざわついているように感じるのは気の所為だろうか。 安堵したように内心息を吐くが今更何を話せばいいのか考えていなかったということを思い出した。


『そっちは? バイトだったんだろ?』

「うん、まぁね。そろそろやめようかなって思ってるところ」

『なんでだよ? はそういう仕事向いてそうじゃん』

「全然ダメだよー。適当に相槌打ってることに疲れちゃうの」


私らしくない言葉に、電話越しの一馬がかすかに息を呑む気配があった。 練習で疲れている彼に、悪い事をしてしまった。私のことなんか考えないで、試合に集中して欲しいのに私ってばとんだ愚か者だわ。


『なんか、あったのか?』

「違うの、何もないよ」

『そっか・・・』


私が何も言わないために、一馬の追及の手は止まった。


「ねぇ、」

『ん?』

「今から行ってもいい?」

『あぁそれ俺も、同じこと、考えてたし』


喉の奥でくつくつと笑う一馬の声はことのほか楽しげだ。 どうしたのだろうと耳を傾けていると聞きなれたアナウンスが電話越しにこだました。


「一馬、今どこなの?」

『ん? お前のマンションがある駅。あーそうだ。どっちに出ればいいんだ?』

「北口! そこで待ってて」


電話を切ると、放りだしたジャケットを再び掴んで鍵をポケットに押し込み携帯電話と財布を掴んで家を出た。 会ったら何を話そうか考えてばかりいたのに、私の病みきった心はどこかに消えてしまったようだ。 走ったからなどではない。理由のない胸の動悸に自分自身驚き、心臓病患者のように左胸をそっと押さえた。 ダイスが転がってゲームはもうとっくに始まっていたのに、改めて気づかされた事実に気分がどうしようもなく高揚した。 駅の北口のロータリーの側に立っている背の高い影に思わず駆け寄る。 ジーンズのポケットに両手を突っ込みエナメルバックを肩から提げた彼は間違いなく一馬だった。


「久しぶり、」

「おう」

「会いたかったよ」

「俺も、そう思ってた」


照れくさそうに笑う一馬と並んで薄暗い路地をめざして歩き出す。 歩いている途中に見知った目がこちらを見ていたのかもしれないけれど、私は気にとめなかった。 あのカップルたちだって?たとえ私だと気づいていたとしても、声をかけてくるなんて無粋な事はしないはずだ。それより、今はそんなこと、どうだっていい。


「今日はどうするの、泊まっていく?」

「明日はオフだし、が良いって言うなら、そうしたい」

「じゃあ、そうして」


さっきまで沈んでいた心は急に浮遊感にまみれた。 明日になる頃には、私は別にバイトを続けてもいいかなと考え始めるかもしれない。もうそんなこと、今はどうでもよくなっていた。 あるのは、今日は久しぶりに充実した夜を過ごせるだろうという期待と確信のみだ。 もう暫く限定するなら明日の朝までは期待を裏切られることはない。そうわかっているから、灯りの少ない暗い路地に入り始めたところで、 私は彼の肩に腕を滑らせ、目を閉じてキスを待ってる。









This Love










200701001@原稿完成 私の現実が飛散している。