冷えた夜に肌が僅かに悲鳴を洩らしている。手にしていた写真を懐に仕舞いこむと頚もとに飛び込んできた風に僅かに身震いする。その土地は夜が近づくと異様なまでに寒さを増すということを失念していた骸は上着を車中に置き忘れてきたということを少しばかり後悔したが、いくら寒さを増すとはいえ、スーツで凌げない寒さではなかったから、廃墟にも似て古びた屋敷の扉に手をかける頃にはその後悔もすぐに消え失せることになった。自分にとっては必要ないものはすぐに切り捨てられる潔さ―・・・云うなれば諦めの良さがある種彼の大きな持ち味なのだ。何かに対する耐性は恐ろしいほどに備わっていた。それこそ、身を切られるような目に遭っても気を失わない意思の強さだとかそういうものだろう。骸のそれは尋常ではなかった。膝を折り、屈するという行為は生きる上で信じ難いほどの恥辱でもあるのだ。彼はそれに気づいていないかもしれないが、心の奥深くに根付いた仄暗い意識が彼をそうさせているには違いない。吹き付ける風が止んだのを確認してゆっくりと瞬きをすれば二つの色の眼が、瞼の底で目の前の寂れた光景に視線を落とす。その場に電光はなかった。ましてや蝋燭の光すらも乏しく、けれども薄暗がりの中に一人の若い女がひっそりと佇んでいるのがわかった。
「・・・随分と探しました」
若い女の輪郭は視線の中でかすかにぼやけていたが彼女は幽霊などではなく人間なのだと骸に認識させるに十分なほど存在感を放っていた。ただ彼女がこちらを向く気配はなかった。今も蝋燭の焔の姿を愉しむように触れるか触れないかの所で指先を彷徨わせている。けれども骸の気配を感じ取ったのか、人形のように変わる事のなかった彼女の唇がわずかに動いた。
「・・・誰?」
「六道、骸です」
「あぁ・・・やっぱり」
勝手に屋敷に入ってきたというのに、彼女は骸に対して拒絶や嫌悪を見せることはなかった。言葉はひどく穏やかで、棘すら含んではいなかった。単に名を訊ねるだけの声音に彼は酷く安堵していた。なぜだろう、会いたいと思ったことは幾度もあったがなかなか本腰を入れてどうこうしようと考える意識というのは希薄だった。もしかしたら、恐れていたのかもしれない。この右目と共に自分に宿った力のもともとの持ち主は彼女であったからだ。単なる批難であったり詰られたりすることには大概は慣れているが―それだけのことをしてきたともいえる―だが、漠然とした恐れがこの若い女を前にして骸のことを襲ったのだ。他人の人生を狂わせることには慣れているが、骸は自分こそが人生を狂わされた張本人だと思っている。あのエストラーネオの研究によって本来あるべき生を狂わされた被害者。だがその一端の中に彼女がいる。自分に意図せずしてこの能力を引き渡し、本来あるべき彼女は過去と未来に分断され、過去の不幸の輪廻の中で骸を手酷く詰るのだ。それが幻想だと知っていても、いつか霧の中にいる自分を引きずり出し、この右目を抉り返しに来るのではないかという不安があった。
「いつか、あなたが来るんだと思ってた」
「知っていたんですか」
大抵の人間は彼の様子を気味悪がり近づこうともしないのに、彼女はゆっくりと身体の向きを変えた。自分とは逆の、左目にあの赫い光が宿っている。それがいっそう、右の翠瞳の淵にある手術痕を際立たせ彼女の本来あるべき姿を連想させる。言いたいことは、山ほどあるというのに、そのどれもが赫い瞳を前にして飲み込まれてしまう。
「未来のこととは何も関係ないわ、これはただの予感」
「なるほど、だが僕は君と初めて会ったという気がしません」
なぜだろう。と疑問を含ませながら問いかければ、彼女はゆっくりと骸に歩み寄り右目に柔らかく手をかざす。永遠ともいえる年月を別っていた恋人に触れるかのような恋しいものを見るような顔つきで。
「そうね、思えばずっと一緒にいたんだ。あなたの中に、私が・・・」
閉じかけていた心の薄い被膜を突き破るようにして、その言葉は深い場所で重く響いた。なぜだろう。最初、自分には憎しみだけだった。憎しみこそが、彼の知る全てだった。それだけが六道骸の世界を形成し、閉じ込めた。憎しみを喰らい、飲み込み、呼吸する術を覚えた。血管に流れる憎しみだけでもしかしたら死ぬかもしれないと幾度も思った。でも、何かが起こったのだ。たとえば十年以上前に出会ったボンゴレ十代目だとか、諦めの中に生きようとしていた凪、何もかもが鮮明に記憶の中枢から、ためらうようにして触れた指先に流れ落ちる感覚。懼れるように指先を離そうとするの腕を奪うように掴み、骸は自分の頬に触れさせる。どんな経緯であれども、彼女の一部と命の彼岸を共にしていたというのなら、知ってほしいのだと乞うようにして彼は眦を細めた。
「骸・・・」
「このままでいても?」
視線の先で、が小さく頷くのが目に見えて分かった。恋人同士でもないというのに、このかけがえのない一体感は何だろう。もともとひとつだったものが元に戻りたいと渇望するようにしてここにある。額を合わせながら、今まで堪えていた苦しみを押し出すかのような吐息が彼女の唇から零れ落ちた。指先はいつの間にか彼女の腕からその背を辿り、気づけば掻き抱くようにして貪欲なまでに腕を回していた。骸の腕の中で、がやわらかく身を捩る。静かな部屋の中に、堪え切れない吐息が埋め尽くしていく。二人の間にはこれ以上言葉は必要がないようにも見えたが、彼の耳元に囁く声がある。
「会いに来てくれて、ありがとう」
そこで初めて自身の思惟と彼女のそれが繋がった気さえして、淡い光の中で、骸はの左の赫い光にその魂に労わるようにして口づけた。
「僕も、あなたに会いたかった」
Psychedelic Soul
( もしまた巡り合えるなら その時もきっと あたしを見つけ出して )
20081013@原稿完成