布の擦れる音で目が覚めた。
それが自分が寝返りをうった音だと気づくまでにしばらくの時間がかかる。ぼんやりとしたおぼろげな月明かりだけが照らす濃紺の部屋は冷たく、どこか異質だった。ふたり分の息遣いが満たしているはずの密閉空間は、だがしんとして誰もいない暗闇のようだ。ふと、ひとり取り残されたようなひどい寂寥感に苛まれた僕は小さな溜息と「やれやれ」と掠れた声を出して自分がここに存在していることを思い出す。そう、僕はここに存在しているのだ。確かめるようにして握りこんだ掌にはきつくリングの硬さが沁み入った。俯いていた顔を上げればひらひらと薄いカーテンが揺れるのがわかる。窓を開けっぱなしで寝ていたらしく、白々しい夜明けがもうすぐそこまで来ていることに気づく。僕は眩しい光で満たされる朝の空気が大嫌いだ。きらきらと輝くものに嫌気が差す。ふと、窓から視線を滑らせたところで、開きかけの寝室のドアから脱ぎかけの衣類が数点、昨夜に辿った道順に転がっている。転がった背広やドレス、果ては下着までを拾い上げている様はまるで昨夜の復習をしているかのようだったが、残念ながら僕はここで気恥ずかしくなれるほどに繊細な神経を持っているわけでもない。華奢なヒールの靴がソファの近くに転がっているのを認めたところで、その持ち主がソファに横たわりながら小さな本を捲っているのを見つけた。僕の気配に気がついた彼女は身を起こし、僕は僅かに空いた場所に腰を下ろすと拾い上げた靴を行儀よく床に並べながら問いかけた。
「これ、フェラガモまでわざわざ注文に行ったって言ってませんでしたっけ?」
「ううん、これは九代目のおじいちゃまが誕生日にくれたの」
「あれ、君・・・前にも綱吉くんに何か貰っていませんでした?」
それも靴ばかり、と付け加えると、は拗ねたように口元を本で覆い隠してしまう。不満そうに瞳がこちらを見つめてくるのに僅かに笑いを零すと、諦めたように本を閉じる。
「いいでしょう。マフィアの女が歩く道のお伴には素敵な靴が必要なのよ」
「そうですか」
はボンゴレの守護者ではないがまだ若いのに幹部に匹敵するほどに稀有な能力の保持者だ。あの赤ん坊にさえ重要な戦力だとみなされているという。彼女と背中合わせで戦ったことなどないから詳しいことは知らないけれど、たまにこうして僕の様子を伺いに僕の所有しているアパルトマンへとやってくる。鬱陶しいと他人に思わせないほどその距離の取り方や、引き際は実に見事だ。それゆえに、歴代のボスや他の幹部にもそれなりに可愛がられている。だが僕としてはそれが面白くない。彼女が僕の家にやってきているというのに、他の男からの贈り物を身につけてやってくるところだとか、誰彼にも振りまく笑顔だとかで、腹の底が燻ぶったように疼くことがある。これを嫉妬と呼ぶにはあまりにも浅ましい独占欲だ。
「それ、面白いですか?」
「さぁね、私は馬鹿笑いしたくなる時に読むんだ」
僕が顎でさした小さな本には確実にBibliaと書かれていた筈だ。冒涜という言葉が頭に浮かんだが、僕は神を信じているわけではないから別にどうだってよかった。ただ、手を緩めた彼女から聖書を取り上げ無視して頁をめくる。そこには“イエスが弟子たちの足を洗う”と書かれた部分に下線が引かれていて、その頁の間に一枚の絵がはさまれていた。キリストが椅子に腰掛ける一人の男の元にひざまずき、腰に巻いた布でその男の足をぬぐっている。傍らには手洗が置かれており、どうやら男の足を洗っているようだ。それを取り囲むように背後で人々が頭を抱えたり、ささやきあうようにしてその所作を見詰めている。
「これは?」
「洗足木曜日っていって、そこに居る人たちはみんなキリストの弟子なの。自分に死期が近づいている事を悟ったキリストが最後の晩餐の日、弟子への愛情を示す為に奴隷がする仕事をやってみせた。へりくだりの行いっていうのかなぁ。主は弟子の足さえ洗った。その尊い行為を私たちも見習いましょうみたいなお説教じみた絵だよ」
誕生日に靴と一緒にボスにもらったのとは小さく微笑んだ。キリストに足を洗われている男は両手を組み合わせ、俯いている。どこか苦悩するような顔だ。この男の足は綺麗になったのだろうか。
「笑えるんですか」
僕の言葉に、は困ったように笑った。足を洗われているという言葉に、繋がる言葉がひとつ見える。足を洗うという言葉だ。彼女はこの世界から抜け出したいのだろうか。真意は解せないが、彼女の足は白くまだ幼さの残るつま先や踵に妙な艶めかしさがある。どう見たって、そこに拭い去りたいと思うほどの汚れが、こびりついているとは思わない。
「私は好きじゃない。汚れなんてぬぐえない、だから素敵な靴で穢れを隠すの」
「九代目も綱吉くんも、そんなつもりで君に靴を贈っているわけではないと思いますよ」
「なんでそう思うの?」
「少し考えてみるといい。君が思っているほど、世界は皮肉に出来てはいないはずだから」
我ながら、しおらしいことを言っていると思う。そっとその足首を捕えながら、僕はゆっくりとそのなだらかな曲線に唇を落とす。慌てて身を捩る彼女を押さえつけて、膝の頭に口づけを落としながらふと思う。キリストは、単に愛情を示すために弟子の足を洗ったわけではない。尊い行いに倣えと言っているわけでもない気がする。足とは人が人生を歩き続け、人生を支え続ける場所だ。だから、曝け出してほしかったのではないだろうか。疲れたから荷を下ろすように、一時でもその人生を預けてほしいと思っていたのではないだろうか。九代目も、綱吉くんも、何かしら心を開いてほしいと思って、何かを贈っているのではないのか。僕は神でもなければキリストでもないので、残念ながらその真意はわからない。他の男の心理なんて、わかりたいとも思わないが。
「ねぇ骸」
「なんです?」
「なんだかそれ、洗礼みたいだね」
「君に、よく似合っている」
一晩もすれば消えてしまうほどの弱弱しい印は、だがつけたばかりの時は真っ赤に腫れて何かのまじないのように浮かび上がる。うっすらと開かれたの唇はひとときも動かず、代わりに意志の強さを反映するかのように輝くような瞳だけが開いてこちらを見据えていた。あぁ、この瞳に映ることができるのなら、何度でもこうしよう。唇を押しあて、強く吸いながら僕は呪うように思う。そして僕らの視線がかちあえば、明けるはずの夜がもう一度、降りてくる。それから、明けの中に沈むのだ。
その足元に跪けることこそが、至福
20081209@原稿完成