外は暗闇だった。
私はドアの前にしゃがみ込んで、外の音を聞き漏らさないように耳を尖らせた。
車のドアを閉める音。リボーンが車から降りてきたのかもしれない。そんな日がまだあるというのだろうか。
路地に棲みついている猫がゴミ箱を引き倒した音、猫や鼠たちはよくそうやって道路を汚していった。
猫たちが逃げようとしているというのなら、きっと彼に違いない。
隣の学生が帰宅して鞄の中の鍵を探す音がする。まさか扉一枚隔てた隣の家の玄関で一人の女が蹲っているなんて想像もしないだろう。
その女―・・・つまり私は、ドアの鍵がひとりでに外される音を恐れている。この重たく錠の上がる音に何度悩まされたことか。
私は数年間、私以外の者が部屋の外側からキーを差し込む―・・・あるいは別の手段を講じて扉を開く音を聞いた事がなかったから、
私は本気で怯えて扉が開かれるのを待つしかない。そしてそこに、リボーンの少し尖ったように感じる顔が現れるのを見てぎょっとする。
彼は最初、私の様子に当惑しながらも「おい、。俺の顔を忘れたのか?」と面白半分に弁明してきたものだったけれど、
私のその態度が一過性のものなどではなく、誰にも知られることなく秘めてきた最悪の記憶の引き金を引くものだと気づく様子はなかった。
本当は気づいていたのかもしれないけれど、間違いなくそんな態度を私に示すことはなかった。
それは恋愛事に器用そうに見えて実際のところは不器用な彼の、彼なりの親切心だったみたいだ。
それに比べて私はどうだろう。彼に抱かれることは出来るのに、抱いてあげることができない。その方法が知りたくて、私は自分の身体を他の男に安売りしてしまう。なんという悪循環。
何度も試そうとしたけれど、いつも上手くいかなかった。医者の処方箋を見て薬を取り扱うように、心の隙間の埋め方にも処方箋があればいいのに。
洗面所にはリボーンが置き忘れていった香水の空き瓶や、ビタミンEのカプセルが転がっている。
最初彼は、あのカプセルたちがないとセックスができないと藪医者に吹き込まれたらしい。悔しそうに教えてくれた。
私はそれをゴミとしてゴミ箱に捨てる事もできなければ、目に見えない場所に隠すということもできなかった。
惨めな気持ちが水にわきたつ泡のように零れて、彼の顔を見たら何と言ったらいいのか。そればかり考えている。
どんなに汚い言葉をぶつけても、あの育ちの悪い男には堪えないだろう。それが彼の日常なのだから。
疲れ果てて感覚もなくなった私の耳に入ってきたのは、毎日私を脅かし続けたあの錠を外す音だった。
開いたドアの隙間から、あの黒い帽子の下におさまりの悪い髪と綺麗な顔を見つけたとき、私は立つ気力も失ったまま彼を見上げた。
「ん? どうした。こんなになって」
蹲る私に視線を合わせるように、リボーンはそっと膝を折る。
まるで小さな赤ん坊にするように彼は私の頬をやわらかく抓ったり、唇に触れたりしてあやそうとしているみたいだった。
私は今の気持ちを伝えようとしたけれど、言葉にできそうになかった。
何もないのだと示したくて、いやいやと首をふる私を抱き起こし、外の冷たい空気を運びながら彼は私にキスをした。
「なんだよ、俺の顔を忘れたのか?」
「違うわ。そんなんじゃない」
「じゃあ、なんなんだ?」
「あなたが恋しいなって、思っただけ」
「なんだ、。珍しいな、甘えてんのか」
嘘。そんなのじゃない。彼が私の他に誰かと寝ているとかそんな事は別にどうだっていい。同じような事は私だって何度もしているし。
けれどもし、リボーンが何らかの理由で私の元を去ったとき、私はどうするのだろう。
彼が私と同じ場所にいないという事。彼が元気で私から離れた場所に存在するということと、彼の死は同義語だった。
元気でいてくれればいいなどと、心の広い女の振りをすることなんて出来そうにない。
私の傍にいて、私と一緒に微笑んだり怒ったり、セックスを常に出来る、そんな近しい範囲にいる。
それがなければ、彼が死のうと生きようと同じことだ。私は自分の目の前にあるものしか愛せない。
目に見えるものしか見たくない。去っていった物はもはや、存在しないものなのだ。
「あなたがいなくなったら、私・・・どうするんだろう」
「どうして、いなくなると思うんだ?」
リボーンは後ろ手に鍵を閉めると、受け取ったプレゼントの包装紙を剥ぐように私の服を剥ぎ取りはじめた。
私の指先に比べれば、彼は随分と器用だ。暗がりで手元が落ち着かず、もどかしく零れ落ちたシャツのボタンが廊下にはじけるのが聞こえた。
横たわるスペースはほぼない廊下で、私は立ったまま片足を高く上げて壁につける。
彼にしがみつきながら、鼻先では彼の匂いがかすめる。香水だけじゃない。これと同じ匂いを嗅いだことがあると思う。
ココアバターのような甘く腐った香り。誰しもが持つことになる不思議な香り。きっとこれは死臭だ。
けれども不快などではなく、汚い物に私が犯されることによって、私が澄んだものだと気づかされる。そんな匂い。
彼の匂いは、私に優越感を抱かせる。発情期の雄が雌を誘き寄せるようなムスクはたぶんきっと、こんな懐かしさを感じさせるのだ。
「私、きっと泣くわ」
「かわいそうに」
質問に答える気はなかった。私のきまぐれに付き合うようにリボーンは優しく頬にふれてくる。
足首に小さなショーツがハンカチか何かのように絡んでいるのを見ながら、私は問う。
アンクレットのきらきらとした輝きが、妙に生ぬるく感じた。
「リボーンは泣かないの?」
「泣いたことは、ないからな」
「・・・そう? 生まれてくるときは、皆泣いているものよ?」
「そうか?」
「そうよ」
「でも、俺は・・・」
内緒話でもするように、そっと耳元で低く響く声がある。「俺は、生まれた光景を覚えてねぇんだよ、」
鼓膜に直接響く低い声は私にそう告白した。あまりの言葉に私は衝撃を覚え、鼻の奥が痺れるようにつんとした。
あなたも私も生き物なのよ。呼吸しているの。鏡を充てれば曇るのよ。なんとでも言葉を連ねたかった。
彼を安堵させる魔法のような言葉を知りたかった。けれど私の声帯はいつも思い通りに動かない。
喉の奥から搾り取られるように生まれた吐息だけで会話をしている。あまりの気持ちよさに叫ぶ事も出来ない。
快感すら訴えられない息苦しさと素晴らしさに私は彼の上着を掴もうとする。けれどそれは上手くいかなかった。
滑って行き場のない私の指をリボーンは強く掴んで引き戻す。何か言いたい。
そう思っているけれど、私の体の芯には、“あれ”が来て、すべての感覚が麻痺してしまったのだ。
部屋の中は薄暗いのに、瞼の裏は白く濁って弾けていた。
片足を上げたまま荒く息をつく私の額の髪をそっとよけながら、リボーンは唇を引き上げる、そうしていつものやり方で笑う。
「、足を下ろせよ。疲れねぇのか? お前に仕事がないなら、二度目はシーツの上でやりてぇな」
彼に吐く嘘
( ふれあうことの奇跡 あなたがいとおしい )
20071010@原稿完成
ブログの考察を読むと、もっと面白くなるかも?(調子に乗りました。申し訳ありません)