ひどく憂鬱だった。
最初は、手と手が触れ合っただけなのに、随分前にしたキスの温度だとか、合わせた体温の違いだとか。思いだすのはまるっきりそんなことで、私はそういうとき自分がとてつもなく浮かれていてどうしようもない人間のように感じてしまう。恋に恋するなんてそんな時期はとっくに過ぎたはずなのに。そんな事を考えている私をきっと彼は幼い奴だと思って呆れるに違いない。自分だって何かに夢中になっている時は子供みたいになってる癖に、人の事を棚に上げておいて―・・・なんて呆れてみるけれど、よく考えたら、私たちは似た物同士なのかもしれない。だからこそ、多少のブレが生じてもうまくやっていけているんだろう。そんなふうに、最初は思っていたのだと思う。違うと思い始めたのはいつからだろう。つまりは、うまくやっている、という云い方に少し語弊があると思いはじめたのは・・・。どちらかといえば、お互いがお互いのことに干渉しないというだけ。確かに彼―高橋涼介は私にとっては最高の恋人なのだ。本当、どうして私と付き合ってるんだろうって思うくらいに。
彼は群馬大学の医学部所属の大学生で容姿も良ければ、家が大きな病院を経営している所謂お金持ちなのだ。運動もできて勉強もできる。大体総ての事においてパーフェクト。文句のつけどころなんてないのだろう。対する私は、彼より三つ年下で同じ大学の文学部に所属している。理由は単純であれど複雑。海外に赴任する両親を追ってそちらに移住するという手もあったのだろうけれど、祖父がなくなってから一人で暮らす祖母が気になるからという誠に勝手きわまりない理由付けで私はこちらに引っ越してきた。親の職業を継ぐわけでもない私にとって、暮らす場所や生きる場所はべつに何処でも良かった。私はそういう人間なのだ。彼は親の跡をついで将来有望な医者になるんだろう。そういう彼と付き合えるのは凄く喜ばしいことなのかもしれない。なんだって彼の人生は、まるで自由で適当に過ごしてきた私の人生の軌道修正並に理路整然としているのだ。実際、喜ばしいことなのだろう。皆がそういう風に言うのだから。でも私はきっと、彼の将来のビジョンの中にはいない。そんな気がしてならない。否、そう考える事はきっと自然なんだろう。私は医者の娘でも何でもないのだし、特に何かが秀でているわけでもない。何もかもがごく普通の部類に入る。だから、大きな家が似合うわけでも、医者の伴侶として役に立つわけでもない。それはとても哀しくて、どうしようもない予感だけれど、私はもう気づいている。
彼にとっての私って何なんだろう、と思うたびにその感覚は押し寄せる。何かの底に沈んでいくみたいに息苦しく、この先どうすればいいのか考えるたびに涙が止まらなくなる。まったく馬鹿馬鹿しい事なのだけど、誰かに打ち明けたくても涙を止める術は教えてもらえないだろう。だって、この問題を解決できるのは涼介さんだけなのだから、他の誰にもその方法はわからないのだ。けれども、これ以上私は彼に何を望めばいいのだろうか。それが赦されるのだろうか。
―・・・だめだ・・・弱ってる時だから余計な事考えちゃう。
側にあったティッシュをひっつかむ。喉ががらがらだったし、何より熱っぽい。風邪だとわかっているのに医者に行くのも億劫だ。もう死んでる。私、このまま死ぬのかな。風邪で・・・いや、風邪を馬鹿にするなって、随分前に涼介さんに言われたばっかりだし・・・。どうしようこれで、私死んじゃったら・・・。誰にも見つけてもらえなくて、家賃払ってないからって管理人さんがやってきて、私のことを見つけるのだろうか。それで新聞の欄に女子大学生の孤独死とかって小さく書かれて一瞬にして誰の記憶からも居なくなる。あぁ嫌だ。これこそ悪循環。鬱のブラックホール。こんな辛い気持ちなんて、消えてなくなってしまえばいいのに。咳き込みながらまた鼻をかむと、こんな時だというのにインターホンの音が聞こえる。これはきっとうちのだろう。力の入らない身体を転がしてベッドから這い出ると、玄関に向かって歩き出す。恐らく足取りは普通なのだろうけれど、どうも頭の中が熱のために浮かれている所為かふわふわとした感触がある気がする。少し経ってからまた鳴り響くインターホンにかすれた声で声を上げる。
「今出ますよー」
重い扉を押し開けたら、予想外の人物の登場に小さく悲鳴を上げた。いや、ドラマとかなら普通なんだろうけど。
「な、んで・・・」
「今日は大学で見かけないと思って、電話したんだが出ないから心配になって来たんだ・・・大丈夫か?」
開いた口が塞がらないというのはこのことで、口を開けたままアホの子のように目を瞬かせる私を見て眉根を寄せる涼介さんは、私の額に張り付いている冷却シートを見て既にわかっているのだろう。というかむしろ、電話してくれたのにすら気づかなかった。
「入っても大丈夫か?」
「・・・」
「?」
黙ったまま俯いた私を見て、どうしたのかとでも問いた気に涼介さんは私の顔を覗きこむ。きっと、私の頬を流れる涙なのか鼻水なのかよくわからない液体に驚いているのだろう。肩に優しく置かれる手のひらにどきりとする。私はいつものようにどうぞと部屋に招くこともできたのに、そうしなかった。答えることなんかできそうになかった。
Harder To Breathe
( わかりあえないからこそ、互いを思いあう )
20080220@原稿完成