昔、バビロンでは結婚前夜、処女たちは一夜売春をしなければならないという規約があった。彼女たちは夜の神殿の付近に黙す白い花のように立って、その足元に多少に拘わらず金銭を置いた男に処女を与えるのだという。そしてこの男から渡された金は彼女らの手で更に神に捧げられるそうだ。かくすることによって、信仰深い処女たちは、その尊い処女性を初めて完全に神に捧げ得たと信じたというのだ。は、なぜ今自分がこのような話を思い出すのか、まったくの見当がつかなかった。だが、状況からすればこの話を思い出す理由を浮かべることなどわけなかった。には縁談があったのだ。二十を過ぎたところで結婚話の一つや二つ、あがってきたところで不思議は無いが、現代の平凡な女子大生としての生活を満喫しているからすればこういった話は、ひどく異質だった。の家庭は生活も一般水準に位置するごくごく普通の家庭である。だが、縁談が舞い込んでくるのには特殊な理由があった。それはひとえに母方の一族の存在だ。母方の伯父や伯母は京都で老舗の呉服屋などを経営している格式ある家柄の人間だから、伝統や格式を重んじるような人々との縁談などが舞い込んで来るのだろう。の母が東京で暮らしているのは、彼女が次女だった為にそういった事柄に縛られる事がなかったからに過ぎない。今や京都弁と云われるあのはんなり口調は消えうせて、すっかり標準語が板についているくらいだ。には一人姉がいるのだが、彼女は伯父や伯母たちから勧められた縁談で円満な家庭を築いている。も好奇心から一度見合いをしたことがあった。だがその縁談は、先方の会社が傾いていると耳にした伯母の一言で呆気なく破談となった。見合いの席での先方の夫人のあの妙に居丈高さやなれなれしさ、だが氏の方はさすがにあまり嘘をつききれないらしく、 夫人と対照的にひそやかに控え目にしていたことがなんとなくだが辻褄が合う気がするのだ。 相手の見合い写真を眺め遣りながら、はその時の事を思いがけない鋭さで思い返す。 その時伯母の一言に腰が据わったようには「愛があっても生活は長くは続かない。生活が楽にできる所でなくては嫁がない」と宣言し、表面上の自分を装った。 が、伯父や伯母はの一言に気を好くしたのか、「ちゃんの気に入る人が見つかるまで何人でも私が探してあげる」と豪語したのである。 その結果が机の上に置いたサイズの大きなこの一枚の写真に結びつく。 正直な所、拘る理由があるのかと聞かれれば実際の所はないのだ。どうだっていい。 は庭に裸足で降り立ちながら、柔らかな草をそっと足の裏で撫でた。


「なんや、また見合いかいな・・・」

「そうよ。伯母さんから」

「お前さんもけったいなやっちゃなぁ」


いつの間に姿を現したのか、どこか呆れたように呟く従兄にはあやふやに言葉を濁した。 彼は幼い頃は、祖母の家に遊びに来るたびに一緒に遊んでいた近所の男の子でしかなかったのに、 何の因果か伯父が彼のことを私生児から摘出児だと認知したために、近所の子でしかなかった彼はいつの間にか従兄へと立場を変えていたのだった。 丁度その頃からだろうか。は不明瞭ながらある漠然とした恐怖に近いものを従兄の成樹に感じたのである。 言いにくい事だ。しかし、強いて言ってしまうとしたなら、自分は彼を好きなのではないか。そしてまた、彼も自分を好きでいてくれているのではないかということだ。 街を歩いていても、少し猫背で金髪で背の高い男の後姿を見ると、やたらにあれは成樹ではないのかと思う。 従兄を一人の男として愛している。と心の中だけにせよ言い切ってしまうまでには、時間がかかった。 初めて自分にそう言い聞かせてしまった後も、あってはならない誇大妄想をしているようで、却って笑いたかったくらいだ。 だがやたらと忘れ難く、不気味な感覚が肌を這っていくのがわかる。


「成樹くん、試合じゃなかった?」

「今日はオフ」

「そう・・・」


呟いた先に言葉はそれ以上続かなかった。は彼の事がうらやましくも思う。 何かやりたい事を見つけ、それを一心に追っていく姿を疎ましくさえ感じる。平凡すぎる人生を送るだからそう感じるのかもしれない。 ただの憧憬だろう。計ったようにの側に立った成樹が、をじっと見つめながら呟く。


は、結婚したいから見合いするんか? そこんとこ、どうなん」


は成樹の言葉に内心、困惑の色を隠せなかった。楽をしたいというのが自分の何よりの強い望みであったから、 その目的の為に、体裁はいいけれど迂遠であやふやな「結婚」などという方法をとるのは違っている。 という考えも成り立つ。成樹はそう云いたいのだろうか。彼の母は彼を産んでから苦しい思いもしてきたのだろう。 それはあくまで想像でしかない。は真意を知らないから、確証を持てない。成樹が問いかけるのはそういうことなのだろうか。 世の中の多くの結婚のむすびつきは神聖でも何でもないのだ。そんな事を口にしたら殺されかねないが。 けれど縁談で取引したがる人たちは、結婚の神聖を信じたがっているとは思う。 バビロンの娘たちは、お金が幾らでも、とにかく貰いさえすればよかったのだろう。見合いだって結局同じようなものなのだ。一回毎が競売なのだ。


「・・・もう少し、結婚って何かわからないような厳かなものが一杯あるかと思ってたの」


声の無い苦笑が、成樹の唇に浮かんだ。


「どないに?」

「結婚ってもっと、魂が触れ合うみたいなものだとおもってた。まぁ幻想にすぎなかったんだけど・・・。いま、こっちじゃ何が問題になっているか・・・成樹くんはわかる?」

「すまんな」

「先方が出張だったり、私に大学があったりして、まだ何も無いの。だけどこれから、もし度々お付き合いを続ける事になったら、さしあたって着物がいるし、こっちへ私が来る時の費用も大変だって・・・そんなことよ」


今度こそ、成樹は喉の奥で声を押し殺したように笑い始めた。 も幻滅したと言う様子を隠しもせずに笑い出す。ひとしきり二人で笑ったところで、は深く息を吐き呟いた。


「なんだろうね。あたし、なんだか何もかも嫌になっちゃったのかもしれないわ」

「そんなら、俺と死ぬか?」


その一言と共に、有無を言わせず腕を掴まれ、は急にしっかりと抱きしめられた。 暖かい肌と自分の胸の間に、泣きたいような切ない波が押し寄せて、はにわかに苦しくなった。 成樹の突然の行動に、驚いたように肩を揺らすことしかできない。彼の云うように一緒に死んで、わずらわしい人間関係も、切り落としてしまえたらどんなに楽だろう。 けれどもそんなこと、できやしないのだ。抱きしめられたまま成樹を見上げれば、彼はいつもより幾分かおだやかな表情でを見下ろす。


「・・・いいえ。まだ死ぬには幸福すぎるもの」


云いがたい虚しさや哀しさ、或いは忘れ難いものたちが消えたわけではなかったけれど、はつとめて明るく囁いた。


「お節介焼きな伯父みたいな人もいるし、いやなら何人でも気に入った人を探してくれる伯母みたいな人もいる。それに、一緒に死のうと言ってくれる人もいるしね・・・」

「さよか」

「ええ・・・」


彼は自分自身を孤独だとする確証を愛するのか。それともを愛するのか。にはまるでわからない。








バビロンの処女市

( 不 明 瞭 な 感 覚 を 抱 え た ま ま 、 私 た ち は も が い て い る )









20070616@原稿完成
題名は突発的に、神保町で購入した古本からいただきました。すいません意味もなくて。