二月から三月が近づくにつれて、街は微妙なざわめきを持つ。
それは卒業だとかそういう類のことが大きく関わっているからなのかもしれないけれども、
私は冬から春に生まれ変わろうとしている季節の中で、人々が妙に浮き立っているからだと思うのだ。
一枚皮を剥ぐように生まれ変わる気がする春という季節は新しい気持ちという言葉がとても似合うのだけれど、
ここ二年の私といえば、捲れきれなかった皮たちが心に多いに溜まってしまっている。
まったく馬鹿馬鹿しい事だけれど、私はたった一人の人物によってこの二年間どこか煮え切らないままに過ごしてきた。
その原因となる彼―椎名翼―は問い質したくてももう私の側にはいない。海を渡って消えてしまったんだ。
私は多分、彼の恋人とかそういう位置にいたのだと思う・・・表現が曖昧なのは互いに確かめるということをしなかったし、
何より彼が軽々しくそういう関係性を口にするのを嫌がったためだ。私もそういうことを好ましいとは思っていなかったし、
特に不満を抱くと言う事はなかったのだけれど、一度くらい馬鹿にされてでも口にしておくべきだった。と今では思っている。
ここまで私を後悔させているのは他でもない彼が私には事前に何の相談もなく海外へ飛び立ってしまったことがひとつ。
別に海外に行く事を反対するわけがない。才能を伸ばすためならいくらでも行けばいいと思う。
でもその前に、私たちのこの関係を保留にするのかそれとも断ち切るのか、決めてから行って欲しかった。
そのおかげで、私は二年間も馬鹿みたいに悩んでいるのだから。
最初の一年目は考える事が何もなくなると溜息ばかりついているような一年だったけれど、
二年目からはその状況に慣れはじめて、最近は溜息を洩らすこともなくなった。
なんとかは忘れた頃にやってくるとは良く云ったもので、最後のテストを終えて大学から帰る電車の中で、
目の前に座った人が持っていたスポーツ新聞に堂々と載っているのを見かけて久しぶりに彼の存在を思いだした時は正直わけがわからなくなった。
― 椎名選手、一時帰国。
テスト後に解放されて良いはずの私の心は、一瞬にして解放の兆しを失ってしまった。
彼の写真の横に据えられたその扇情的な見出しは私の気分を削ぐのに十分な威力を持っていたのだから。
全て、暫く忘れていたことなのに、塞がりかけた傷跡がまた開いてしまうように一瞬にして甦る。
彼の影響で夢中になったサッカーのことだとか、放課後にぎこちなく交わしたキス、
大人になりきれていないのにする大人ぶった態度だとか。私ばかり忘れられないみたいで馬鹿みたいだ。
駅と直結している陸橋を渡り終えて、大学の近くに借りたマンションを目指す。
夕日に照らされながら進む足取りはいつもより重く、私の気分を鬱蒼とさせた。
久しぶりに唇から零れた溜息に思わず眉を寄せる。また溜息が出た。
「・・・溜息出ると、幸せが逃げるんじゃなかったっけ?」
突然目の前から聞こえた声に肩が震えて、足がそれ以上進まなかった。
その声の主は私との距離を縮めるように一歩一歩確かめるようにやってくる。
「、久しぶり」
「翼・・・?」
「忘れてなかったな」
俯いていた顔を上げれば、かけていたのだろうサングラスを外して胸元のポケットに押し込む翼の姿があった。
私の知らない表情で笑うあなたを、私はどう受け止めればいいのだろうか。
最初に言う言葉は多分、おかえりとか、そういう言葉を期待してるんだろうけど、
私の脳は彼が思うほど忘れっぽくなんかなくて、この二年間で蓄積していた孤独と不満がぎっしりと詰まっていた。
「どうして言ってくれなかったの? 私たち、付き合ってたんだよね?」
あぁ嫌な女だ、私。多分、鞄を持つ手が震えてる。
「?」
「少しくらい、何か言ってくれても良かったんじゃないの?私、翼が思ってるほど都合よくできてなんかないし、何か決めてたなら、それを言ってくれなきゃ・・・」
それ以上言葉が出なかった。それより先に私の足は翼から逃げ出していた。
逃げ出しても、マンションの位置は変わらないのだからさっきの道の近くを通らなければいけないのに。
ばかだなぁ、私。これじゃ丸っきりものわかりの悪い女みたいじゃないか。
いや、実際そういう傾向はあるのだけど。自覚症状があるだけマシだろう。
「おい、待てよ!」
ぐっと肩を掴まれたかと思うと、驚くほど強い力で引き寄せられる。
腐っても鯛・・・じゃないけど、というか意味違うな。サッカー選手にヒールの靴で走りを挑んだ私が浅はかだったというべきか。
私が諦めて彼に腕を掴まれたままでいると、一呼吸おいて、彼はいつもよりゆっくりのペースで切り出した。
「確かに、何も言わなかったのは俺が悪いけど、確かめる手段だってあったんじゃないのか? 言ったって、俺の問題だっては言うと思ったし、あの時の関係を続けられないって言い出すとも思ってた・・・だからだよ。今更だけど、その・・・悪かったな・・・だけど『付き合ってたんだよね?』はないだろ」
「ごめん」
「俺も、ならわかってくれるかもって、心のどこかで甘えてたよ。言葉にしなくちゃ判らないこともあるよな」
「うん」
小さく頷くと、私はやっと彼の手をゆっくりとほどいて、しっかりその手を握ることが出来た。
まだ完全にどうにかなるには少し時間がかかりそうだけれども。
立ち止まってからもと来た道を戻り始める。思えばあの逃げは完全なロスタイムだった。
でも私は怖かったんだ。私の知らない誰かになってしまったんじゃないかって、少しだけ錯覚を起こして混乱していたんだから。
「ねぇ・・・」
「ん?」
「なんで、私がここら辺に住んでるって、知ってるの?」
あの頃よりも少し背が伸びた翼の顔を見上げて問いかけると彼は少しばつが悪そうな表情をしながら憮然として応えた。
「おばさんから聞いたんだよ」
「あぁ・・・なるほど」
母さんめ・・・あとできつく言っておかないと。
「今日、どうするの? 泊まるトコあるの?」
「まぁ家に戻ろうかとは思ってたけど」
「泊まってく?」
「、お前・・・それ意味わかって言ってんの? それとも素なわけ?」
どこか釈然としないような様子はもしかしたら、照れだとか困っている時の態度の裏返しなのかもしれない。遠まわしな奴。
でも、そういう事に気づける程、今の私は冷静だ。でもまだ私の心の皮はめくれそうにない。だけど、言いたい事はちゃんと言えたし、結果は上場かもしれない。
「もちろん、意味がわかってるから・・・言ったんだよ」
「ふぅん」
「それにしても、よく私だってわかったね。私は全然気づかなかったのに」
「忘れるわけないだろ、でもお前ちょっと痩せただろ。ちゃんと食ってるのかよ?」
「食べてるよ。翼こそ、誰かに胃袋つかまれてないでしょうねー」
二年経っても、何気ない会話が自然だ。心のどこかで安堵する。確かに少しだけ歯車はずれてしまったけれど、修正をきかせれば元に戻るかもしれない。
「なぁ、」
「ん?」
「キスしてもいい?」
でも私はもうわかっている。私が二年間、あんなにも彼の事を考えていたのは、彼以外選べない事を私自身が知っていたからなんだ。
「もちろん」
No other man
( 取り戻せない時間を 振り返り問いかけ続ける )
20080223@原稿完成