バルセロナの街はずれにある昼間はカフェ、夜はバルという二つの顔を持つ小さな店に、その男は必ず週末の夜にやってくる。 スペイン中の人口第二位を誇る観光都市は、昼夜問わず観光客でにぎわっている。の働いているバルも例外ではなかった。 東洋人であるがこうして雇われているのも、観光事情と密接している。 現地の空気を少しでも多く味わおうとする東洋人の観光客にとって言葉の通じる同じ東洋人がいるのは心強いだろうと考えたのか、 店の店主がもともとは客として訪れていた遊学中のを店にひき入れてくれた。元々はこちらの客だったので、地元のお客にも受けがいい。
数ヶ国語を喋れるに外国人の客は増える。 そして、観光客は綺麗にお金を落としてくれる。それも正しい商売の仕方だ。 だが、週末の夜に時折ひょっこり現れるその客は、観光客というには少し異質だった。言葉は数度しか交わしたことはないが留学生だろうか。 の勘繰りとは別に、今日もその男はやってきていて、いつものようにオーダーをとる。


「オーダーは?」

「お薦めのタパスとニンニクのオリーブオイル炒めで、あとワイン」

「ワインは何がお好みですか?」

「料理に合わせて君が選んで。できればどっしりしたボディのやつ」

「はい。じゃあお持ちしますねー」


威勢のいい返事とともには大きく頷くとすぐにオーダーを店主に伝え、てきぱきと盛り付けを済ませるとカウンター越しに彼の注文したタパスを差し出す。 それからすぐにも厨房の隅に置かれたワインクーラーに入っているスペインワインを取り出した。 日本でよく出てくるハウスワインのような果実味は薄く、どちらかと云えば彼が好みそうな熟成した味わいのものだ。
ニンニクのオリーブオイル炒めは店主が気さくな笑顔で彼に接客をしながら差し出している。 流暢かはともかくとしても、丁寧なスペイン語を話す男は遠目から見てもよく目立つ。 それは日本人故にという部分ももちろんあるだろうが、それにしてははっとするほどに端正な顔立ちをしているのだ。 まるで芸術家が作った彫像のようで見る者の心を感傷に浸らせる。週末の彼のことを観察するのは、の中でちょっとした楽しみとなっていた。


「ねぇ。あんたさ、日本人?」


がワインとグラスを片手に現われると不意にそんな日本語が男の口から飛び出した。


「そうですけど・・・お客さんも?」

「うん、まぁね。学生? 留学なの?」

「厳密にいえば違いますけど、普通なら学生をしている年齢ですね」


グラスを立ててワインを注ぐ。ボトルの底を掴むやり方はフランスで覚えたものだ。 底から掻き合すような注ぎ方はそこいらの日本人にはなかなかできる芸当ではない。それはちょっとしたの自慢のスタイルだった。


「お客さんは・・・」

「“お客さん”じゃなくて“椎名翼”」

「え?」

「俺の名前。あんたは?」

です」

「じゃあって呼んでもいい? 俺のことは翼でいいから」


と彼とは初対面というわけではないが、彼のあまりにも手慣れた物言いに思わず呆気にとられてしまう。


「はぁ・・・翼さんはなんていうか・・・日本人らしからぬ感じですね。イタリア人みたいですよ」

「光栄だね。俺、あんたのこと気に入ったよ」


そう言ってその男―・・・椎名翼は唇の端を引き上げて応じる。これにはも面食らった。 が彼に対して想像していたのとは全く異なっていたと言っていい。もっと穏やかそうで、言葉少ななイメージであった。 一度気を許した相手には鋭くかかるのか、質問や会話が止むことはなかった。それはそれで楽しくはあるが、少なくとも、鋭利な印象を焼き付けるには十分だった。
それが、二人が初めてまともに言葉を交わした時のことだ。











椎名翼と名乗る男とそれなりに親しく話をするようになったのはその次の週末からのことだ。
彼は今二十三で、より一つ年上だ。何をしているかは詳しくは訊きそびれてしまったが、こちらで職に就いているような話をしていた。 色々な話をした。自分たちのこと、街のこと、日本のこと、それから彼が好きだという映画のこと。


「へぇ、じゃあ翼さんはバルセロナまでわざわざマラガから?」

「まぁね。ちょっとした出張みたいなもんだよ」


バルの人の入りが少なく、店主ですら馴染みの客と話をして過ごしている。
仕事さえしっかりとすれば文句は言わない店主に従い、も椎名の招きによってカウンターの隣の椅子に腰を下ろす。 余ったチップを使ってコーヒーを楽しみながら、他愛もない話に花を咲かせていると彼が殆ど週末にしか来ないわけを知った。 マラガといえば地中海に面したアンダルシア地方のリゾート地だ。ピカソの出身地で、綺麗なカテドラルと闘牛場がある。レコンキスタの最後の地であるグラナダにもほど近いはずだ。
思いつくのはにしてみればそれくらいで、非常に知識が乏しくて悲しくなるが、大体のイメージはそんなところだ。 ムスリムと融合したような建物の雰囲気などは欧州の中でもとりわけ異彩を放っているようにも感じられ、なんとなく椎名という人と合致するものがある。要はよく似合っていた。


「俺のことはいいからさ、のこと教えてよ。どうしてスペインに?」

「え、私? ああ・・・」


言い淀んだへ助け船を出すように、席を立った店主が快活なスペイン語で椎名に耳打ちした。


『セニョール、はロマみたいな奴なのさ。俺としてはしばらくここにいてもらいたいんだがね』


驚いたように椎名は店主に視線を投げるが、店主は意味ありげにウィンクをするだけだ。そうしてまた、彼は他のお客との話に戻っていく。
通りすがりに店のワインを失敬したらしく、注意する間もなくボトルを空けていく店主には苦笑をこぼしながら椎名との会話に集中することにした。彼の質問は止まない。


「じゃあ前までどこに?」

「半年前まではフランスに。その前はイギリス。その前はカナダにいたんです」

「なんでまたそんなこと・・・」

「旅してるんです。命の洗濯。どこまで行けるか知りたいんです」

「へぇ、面白いな。一人で?」

「そう、一人で」


少年のように目を輝かせる椎名はカウンターに肘をつきながらの話に耳を傾けてくれる。


「なぁ言葉はどうしてるんだ?」

「とりあえず、英語とフランス語はそこそこできるんですが。スペイン語は大学の授業でちょっとかじってたくらいでしたから、現地のスピードについてくには気合いが・・・。最初のうちは英語で頑張ってたんですけどなかなかそうもいかなくて、結局もうあとは空気読むって感じに」


それには椎名もバルのカウンターを掌で軽く叩きながら声をあげて笑った。 彼の快活な笑い方はどこかまぶしく、の心を不思議と熱くする。


のこと、ますます気に入った!」


歯に衣着せぬ物言いで、そうやって椎名に手放しで称賛されるのも、はそれほど嫌ではない。

















朝市で購入した食材を手に、はアパルトマンの台所に立っていた。
今日はバルの仕事は休みの日だ。手持ちの預金を確認してあと幾らほど必要そうか考えるつもりであった。
香ばしい香りが漂い始めたところで、気の抜けるようなあくびとともに背の高い影が姿を現す。同居人のマリアだ。


「おはよう。相変わらず早いのね」

「今日は仕事がないからね」

「あら、仕事がある日こそ張り切るものじゃない?」

「休日こそやることがあるの」

「言えてるわ、もしかしてデート?」

「違うわよ」


の暮らすアパルトマンの同居人はアメリカからの留学生だ。
遊学中で航空券と次の滞在先での貯金のためにひたすら働いているとは違い、彼女は論文の教材を入手するためにこちらバルセロナまで単身でやってきたらしいのだ。
大学院生である彼女はロマネスク系の言語の広がりについて研究を進めているらしく。研究材料としてはこのスペインと云う土地は申し分ないそうだ。
そんな彼女とは飛行機で隣同士になった縁と短期間の滞在とあいまって、すぐさま意気投合してこうして期間限定のルームシェアをしている。


「ねぇ、その日本人の彼。やっぱりに気があるんじゃないの?」


週末のバルでの出来事を話すと、彼女はいつもそう返すのだ。


「仮にあったとしても、それは日本人が私しかいないからでしょ。母国語での話し相手がほしいだけだよ。それに、その気の男だったらとっくにどうにかなってるって」

「えー、面白くない! 折角のバルセロナなのよ? 恋しなくてどうするの?」

「うーん・・・恋ねぇ・・・」

は慎重すぎると思うわ。ちょっとくらい開放的になったっていいんじゃないの?」

「十分開放的だよ。私。それに、もうしばらくしたら出て行こうかなって思う」

「あら、残念」

「ありがとう」


ハムエッグをトーストに乗せた簡単な料理をマリアに差し出して、は微笑んだ。


「あ、。前から言ってたけど今日から私学会だから、三日後に戻るわ」

「うん。わかった」

「その彼のこと、連れ込んでもいいのよ〜」

「いやだなぁ・・・冗談きついって」


今日から一端アメリカに戻らなくてはいけないらしく、マリアは少しの間家を開けるという。
アメリカ人であるマリアに言わせると、バルセロナに行くと恋がしたくなるものらしい。
異国情緒あふれる世界の中でスパニッシュギターを片手にした情熱的な男に隣で愛を囁いてもらいたくなるのだという。
これは極論だが相手が日本人の恋をするためにわざわざバルセロナに来る必要はないはずだとは思う。
恋に落ちる相手が椎名なことに文句があるわけではないが、異国情緒がなさすぎる。それはそれで面白いかもしれないが。
だがは異国情緒を求めに行く当てもなくさまよっているわけではない。ましてや、母国である日本が己のすべてだと感じたいわけでもないのだ。

はアパルトマンを出て、海を見に行くことにした。大家から細身のマウンテンバイクを一台借りて海に向かって走る。
自転車で走れる場所というのは不思議と自分の居場所のような気持ちがして心地よい。
風を切るようにペダルを漕ぐ。大通りを通りぬけて港町に出ると、そこには青々とした海が広がっている。
視界いっぱいに広がる海に思わずペダルを休めてはその光景にただ見入った。ああ、なんて美しい。どこか遠くに沈んで行きたくなる。
両手を広げて海風に全身を浸すと、身体中を心地よさとそしてほんの少しの寂しさが覆う。


ああ、この感じ・・・。


満たされない感覚は半年前のパリで味わったものだ。ほとんど全く同じだったと言っていい。
ただ一つ違うことがあるとすれば、異国だと云うのに出会ってしまった彼のことだ。
旅の途中で仲良くなった人などいくらでもいたのに、ただ同じ母国の人だと云うだけなのに気になるのはどうかしている。
置いて行くと言い切れるほどに親しさもない間柄の筈なのに、後ろ髪を引かれる感覚だった。

は自転車を漕ぎながら、いつもの街に戻るように針路を変えた。これ以上海を見ていると、心が攫われてしまいそうになるのだ。
その道すがら、どこかで昼食に使うパンでも買おうかと勤め先の店の側を通りかかった時、閉ざされたシャッターの前で立ち尽くしている人影を見つけた。
彼だ―・・・。は直感的にわかった。自転車を降り、歩道に引き上げながら近づけばはっきりとその輪郭がわかる。彼だ。


「翼さん?」

「あ、。今日店って休みなの?」

「そうなんです、店長の都合で・・・。あぁもしかしてカフェに用が?」

「まぁそんなとこ。この辺の店、どこもやってなくてさ、当てにしてたんだけど」


そう言って彼は親指でシャッターを示す。確かに、ここいら一帯はシエスタの最中か今日一日店を休んでいるかのどちらかだ。
はただ一つだけ彼の要望を満たせるかもしれない場所を思いついたが、云うまでもなく躊躇した。
一瞬にして今朝マリアと交わした会話を思い出したからだ。だが、困っている人を放ってはおけず、躊躇いがちに声にした。


「あの・・・うち、来ます?」

「えっ?」

「いや、翼さんさえよかったらですけど、丁度同居人も外出中ですし、今日は仕事がないですし、一人でご飯を食べるのもなんだか味気ないので」

「乗った」


椎名は躊躇する素振りも見せず、あっさりと言いきって、まっさらな日差しのような笑みを向ける。その潔さにも思わず笑みをこぼす。
今度こそ迷わずにTシャツから伸びた彼の腕を掴んだ。


「じゃあ、ついてきて」


冗談きつい、なんて。マリアのことを言っていられなくなった。

















「ごめんなさい、残り物しかなくて」

「いや、俺は何でも構わないけど。っていうかと食事が出来るとか役得だし」

「またそうやって、」


朝市で仕入れた食材の残りと昨晩の残り物とのありあわせで適当なタパスやスープをこしらえる。
手際良く作られていく料理を椎名が更に盛り付けてくれたりたまに火加減の調整や野菜を刻んでくれたりと並んで台所に立つ。
内容は多様だった。旅をした国の料理もあった。まさに多国籍だ。
米が食べたいとは思うが一度海を出てしまうと日本以外の場所で生産された米と云うのは調理しても似ても似つかず、結局白米として調理されることはほとんどなかった。
テーブルの上に所狭しと並べられた料理に満足すると、飲みかけのワインを取り出してグラスに注ぐ。
注いでから、彼に午後の予定があるのかを尋ねるのを忘れたことに気がついた。


「あ、翼さん・・・午後の予定は・・・」

「今日はないよ。どうせ明日の朝までホテルでのんびりする予定だったしね」

「うわ、贅沢!」

こそ、予定がないなら付き合えよ」


椎名という男の私生活はにしてみれば謎に満ちていたが、仕事のためにこちらに来ているのだろうか。
拠点はマラガだと言っていたし、身につけている物もチープなものは少なそうだから、アパレルブランドか何かのスーパーバイザーか何かだろうか。
の疑問は止まないが、かといっていきなり尋ねるのはあまりにも不躾で脳内での追及の手を止めた。
がぼんやりと考えに耽っている間に、彼は空になったのグラスに勝手にワインを注ぎ、自分の空腹を満たすためにただ静かに食事と向き合っている。
だが彼がグラスの中身のワインを一気に煽ったところで、いつになく不愉快そうな表情になる。料理が不味かったのだろうか。


「口に合いませんでした?」

「そうじゃない、全部美味かった。いや、そうじゃなくてさ・・・お前、無防備すぎだろ」


不意に発せられた椎名の不機嫌な一言に、は小首を傾げた。黒い髪が肩で揺れる。


「どこがです?」

「男を簡単に家に上げるなんて、無防備だって言ってるんだよ」

「そうですか? 翼さんは絶対に私に乱暴なことはしないってわかりますけど」


テーブルを挟んで椎名と向かい合うの口調は確信めいて明瞭だ。
あまりにも迷いなく信頼を口にするに椎名は驚きながらも、矢継に質問を重ねた。


「なんでさ」

「物慣れた雰囲気で話をするけど、手慣れてないもの」

「何だよそれ」


まるで女慣れしていないというようなの言葉に、椎名はあからさまに不満そうな表情になった。
の一言が図星だったのかは知る由もないことだが、椎名を不機嫌にさせてしまったのは目に見えていた。
はしまったと思ったがすぐさま不機嫌すらかわすように席を立って、食器の片付けを始めた。彼女に彼も倣って席を立ち手伝ってくれる。彼の反応はあくまで紳士だ。
シンクに皿を重ねていきながら、洗剤をつけて泡だてたスポンジで皿たちを手早く洗いはじめるの横で、まだ彼は不満そうだ。
綺麗な顔をしているからか、不機嫌な顔もとても絵になる。だがほんの少しの罪悪感から、は自身の失言を謝罪してから小さく笑って応じる。


「ごめんなさい、翼さん。私の中の手慣れてるっていうのは、そもそも初対面から違うんですよ。バールでナプキンに電話番号を書いて渡したりするものでしょ?」

「何その手管、お前ホントに俺より年下!?」

「失礼な人、世間慣れしてるって言ってください」


濡れた手で椎名の掌を軽く抓るが、しっかりとした掌で指先を握りこまれる。
何―・・・問いかけるよりも早く身体が動いて、身を引くように椎名を見上げると、悪戯っぽいようなそれでいてどこか拗ねたような彼の視線とめぐり合った。
が身体を引く間もなく、顔を近づけられて蕩けてしまいそうなほどにいい笑顔で言うのだ。


「俺もひとつ言わせてもらうけど。本気で女をモノにしたい男っていうのは、大概紳士なふりをするもんなんだよ」

「じゃあ翼さんもそうなの? 私に優しくしてくれるのは、紳士なふりをしてるだけ?」


昼間だと云うのに挑発するような台詞は自然と唇から零れおちた。椎名といるとは自然と本能的に行動してしまう。
唇から零れた言葉に、椎名よりもきっと自身が驚いていた。


「かもね」


そっぽを向きながら告げられた言葉に、どこからか沸き立つような感情がこみ上げる。手はまだ、握られたままだ。
振り払うこともせずに、そっと手の向きを変えて椎名の手を握り返しながら、は淡く微笑んだ。


「付き合ってもいいですよ? 明日の朝まで」


の口から零れた言葉を吸い取るように、椎名がそっと唇を触れ合せてくる。
不意打ちのようなキスに応えるように瞳を閉じるが、すぐさま唇が離れ「あ、そうだ」とまるで今思い立ったかのように椎名が誘いかける。


「折角だからさ、明日の先まで付き合ってくんない?」


なんて気のきいた誘い文句。は声を上げて笑って、やがてはにかんだように頷いた。なんて魅力的な男なのだろう!思えば出会ったときから、彼はを魅了してやまない。


























急遽誂えた休みを使って、はバルセロナからマラガへ飛んだ。
デートの繰り返しをすっとばして、いきなりキスにベッドイン。その上バカンスに誘われたと告げれば、同居人は呆けたように驚いたがやがて弾かれたように笑いだした。 「最高じゃないの、それでこそバルセロナよ!」とマリアは笑ったが。どんな魔法が潜んでいるのか。ひと夏の恋のつもりが破格の扱いだ。 年月は交際に物を言わないとは言うが、まだ知りあって半年にも満たない女をバカンスに誘うなんてそれこそどうかしている。 そして、それに二つ返事で乗ってしまう自分も、やはりどうかしているのだ。その証拠に、スペインを飛び立つ日を先送りにしている。 自分から手を離したら、彼はまた掴みなおしてくれるだろうか。 だがそんな陳腐な悩みすら吹き飛ばす勢いで、マラガの空港の売店で何気なく手にした新聞記事のスポーツ欄を見て、は思わず飲んでいたコーヒーを逆流させそうになった。
慌てて胸を押さえて咳込むと、呼んでいた記事をまじまじと見てしまう。確かにこれは、彼のことが書かれている。

他人の空似というにはいささか無理があった。スペインで活躍する日本人と云うのはせいぜい限られているし、 その中で同姓同名がいたとしても、椎名翼なんて名前を滅多に耳にすることは恐らくないだろう。
残念なことにその記事は、マラガを拠点にするリーガのフットボールクラブの勝利を綴るものではなかったが、 確かに、ユニフォームの異なる選手と真剣なまでに競り合っている男の横顔はいつもバルにやってきた椎名のものだ。
はスポーツ関係の知識がからっきしだから、椎名がどれほどのスター選手かもいまひとつ想像がつかないし、現実として符合しない。 思わずは、記事の写真がよくわかるように新聞を折り、を迎えに来てくれた男と見比べるように並べてみた。


「どうした? 。何かあった?」


あまりにもが真剣に彼の顔を凝視するから気になったのだろう。椎名が心配するでもなく声をかけてきた。


「翼さんって、サッカー選手だったんですね」

「あー・・・バレたか」

「バレたかじゃないでしょ。最初誤魔化したじゃないですか」

「アウェーのバルセロナで言い出せるかよ」


椎名の云う通り、敵地のバルセロナで言い出したらそれこそ何をされるかわかったものではない。敵地で勝利した夜は特に。


「まぁ・・・それもそうだ。あぁ、そっか、遠征のたびにこっち来てたってこと? にしても日程が合わなさすぎるし・・・」

「そんなのどうだっていいだろ」


が指折り数え始めると、彼は立てかけてあった荷物たちを取ってさっさと歩きだしてしまう。
慌ててその背を追いかけながら、は不満げに小さく呟いた。


「また誤魔化す・・・」

「何それ、俺が何してるかってそんなに重要?」

「とっても。これでスパイやってますとか殺し屋やってますとか言われたら、あなたのこと諦めるわ」

「違いないけどなぁ・・・それは極端すぎるだろ」


小説の読みすぎだよ。と呆れたように釘を刺されて、はただ椎名の隣に並んだ。 バカンスのために購入したメリッサのサンダルが柔らかく足になじむ。 空港を出てすぐに舞い上がる熱気に満ちた海風に、は思い切り息を吸い込んだ。そしてその横で―・・・


「・・・お前に会いに行っちゃ悪いかよ」


風にさらわれそうなほどに小さな椎名の呟きをの耳が拾った。うそ、本当に?思わず問い返したくなるが、は笑みを堪え切れずに嬉しさの止まらない口元を新聞で覆い隠し、天を仰ぎながら返した。


「聞こえなーい!」

「おい、お前!聞こえてただろ!」