行きのチケットだけを片手に、僕たちは砂漠の街に降り立った。
は僕が先に帰るだろうと読み込んでか、帰りのチケットを渡されることがなかった。
モロッコといえばマレーネ・ディートリッヒの映画を思い出す。細い眉に知的でいてどこか退廃的な美を持つマレーネを一躍スターに押し上げた名作のタイトル。
すれ違いばかりを繰り返すまだろっこしいラブストーリーが好きではないからあまり見ないけれど、世間が言うようにマレーネの美は一級品だ。
映画で見たように、かつてフランス領だったモロッコは、多様な言語が飛び交っている。アラビア語、スペイン語、フランス語、英語。
スペイン語とフランス語でどちらが通じるかと言われると微妙だが、旅の言いだしっぺであるが一生懸命片言のフランス語と英語で通訳をしてくれ、中古のBMWを借りてホテルまで向かうことになった。まさに珍道中。
中古車を提供してくれた店の店主が、の香水の匂いを褒め、はそれに気を良くしたのか零れおちるような笑みを浮かべて見せた。
退屈だった街でやっと感動できるものを見つけたとでも言いたげな表情だった。僕は嫌な予感がした。なんでそんな、ざらついた気持ちになるのか理解できなかったが、
僕の予感とは裏腹に、は店主に別れを告げてさっさと運転席に収まった。砂漠の真ん中で誰が彼女の口紅を、装飾品を、香水を、褒めるのかと思ったがそういうこともあるらしい。
きらきらと光るおもちゃのようなビーズをいっぱいに散りばめたフープのピアスや指輪は一体何の意味があるというのか。
玲はそんな、自分自身を飾り立てるような真似はしていなかった。ピンと張ったシャツと細身のパンツスーツだけでも彼女はとても美しかった。
手が届かないほどにまぶしく、僕の心に焼き付いている。だからこそ僕は問いかけてやりたくなる。
お前はあの人の妹で、生まれ持っての殆どすべてを受け継いで、その上あの人から愛されているのに、、お前が自らを飾り立てるのはどうしてなんだ?と。
「なぁ、さっき何て言ってたんだ? あの店主」
ホテルまでの道のりの中で、僕はに問いかける。
ステレオから流れてくるカーラジオをバックグラウンド・ミュージックに、は左ハンドルのステアリングを握りながらにこやかな答えが返ってきた。
「『いい匂いですね』って言ったのよ」
「ふぅん。僕にはどうもつんとして、甘ったるい匂いしか感じないけど」
「別に私、翼に愛されようなんて思ってないわ」
おかしそうにくすくすと笑う。それじゃあまるで僕が、お前のことが好きみたいな言い方だ。まったく、はなはだ不本意だ。
やがて笑い声を収め、けれども口元に笑みを浮かべながら、は僕に言うのだ。
「翼は本当に、姉さんのことが好きなのね」
「悪いか」
僕がつっけんどんに返せば、はゆるく首を振りながら穏やかに否定した。
「ううん・・・。いいと思う、そういうの」
そんな風に、あっさりと肯定されるとは思っていなくて。僕の方が、に返す言葉もなく唖然としていると、車はあっという間にホテルについた。
運転席を開いたドアマンがを見る。外国人特有の彫の深い顔立ちで、砂漠の日に灼けて浅黒い肌をしている男だ。の言葉を借りれば、とても性的な男だった。
は男と不埒欲望を込めた視線を交わしてその礼儀正しい男に車のキーを預ける。指先が触れるか触れないかの。ほんの一瞬の出来事。
指先が触れ合ったかと思う瞬間に、の柔らかなベージュの唇がうっすらと笑みをかたどるが、キーを預け終えたわずかのあいだに落胆したように下唇を噛んだ。
その間に何があったのだろうか。の不機嫌のわけがわからない。ドアマンは車を駐車場に運ぶために車をふかし、その間に他のドアマンたちが荷物を急いで運んでくれる。
部屋に案内される道すがら、は僕に向かって駐車場に向けて去って行った車を顎で示した。
「生意気な男だと思わない?」
「礼儀正しかったけど」
「あんなセクシーな男の分際で礼儀正しいなんて許せない」
「お前・・・ホント滅茶苦茶だな。こっちでは使用人が主人に手を出しちゃいけない決まりなんだよ」
「私は動物の気持ちになってたの。それなのに、」
本当に困った奴だ。自分の恋の後始末が出来ないのに、すぐに本能で恋をする。
ピアスは絶対に忘れないのに、すぐに人間だということを忘れる。今にも地団太を踏みそうなほどに悔しがっているを引きずるように腕を掴み、部屋へと引き上げた。
は―・・・否、玲は一体僕たちをモロッコなんかに連れだして、一体何をしようっていうのか。
僕にはまるでわからないが、荷物を置いてトランクをしっかりと閉めるとは地図を広げて出かける準備をする。どうやらのんびりする気がないらしい。
いっそさっきのドアマンのところに行くのかと思えば、僕の腕を掴んで立ち上がらせると言うのだ。
「ね、街に出て市場に行こう」
「なんで」
「私、ピンク・パールの装飾されたショールをさがしてるの。あとお揃いのピアスもね」
「わかった。付き合う」
モロッコの市場は確かに少し変わったものが多いらしい。スリッパのような形状の細身の靴であったり、民族衣装のような美しい布地であったり、僕にはグラナダを思い起こさせる。
東と西の混ざり合った独特の雰囲気を感じさせるのだ。
ホテルのフロントまで行くと、ホテルからほど近い市場までの道のりを簡単に教えてくれた。どうやら歩いて行けるらしい。
先ほどのドアマンの一件の後だったからか、その後のはおとなしく買い物を済ませて、目当てだったらしいピンクパールの装飾された品々を購入していく。
そして好奇心からか、街の女性たちと同じように美しい装飾の施された布を身体に纏って、街の青年たちと酒を酌み交わして談笑したり、灼熱の街を楽しんでいるようだった。
普段スポーツをしない、いわば太陽を知らないの肌には彼女が選んだ濃い色のチャドルはよく馴染んで、とても似合っていた。
銀のサンダルをきらきらと輝かせながら、市場を離れホテルに向かいながら、は再び僕に問う。
「ねぇ翼、もう何年になる? 十年以上?」
それは前に話した玲のことに関連しているらしい。
「そう、だな・・・もうそんなか」
「伝えなくていいの?」
「とっくに言ったよ、十九の時に。でもあっさり振られた」
は少しだけぎょっとしたように息をつめた。気配で分かった。が驚くのも無理はない。ほとんど本気だったことをこいつはよく知っている。
僕がわざわざスペインを拠点に選んだのは海外の空気に揉まれるためもあるけれど、何よりも玲離れをするのが目的だった。
もう一度自分自身を見つめなおして、より精度の高いプレイをする選手になるために。それは玲に追いつくためじゃないと自分を納得させるのにも必要な期間だった。
今は指導者と選手としていい関係を築けていると思う。玲が大人だったことと血の繋がりが僕たちの関係を破綻させなかったと断言できる。
僕の告白に「ありがとう、でもね―・・・」そう言って気持ちを受け止めてくれた玲は、やはり大人だった。
ただ砂漠の景色を見る僕には何も言わなかった。絶対に何か言ってくると思っただけにその距離の取り方には僕の方が驚いてしまう。
「好きな気持ちは変わらないさ、でもそれはもっと違うんだ。ちゃんと、今ははとことして西園寺玲のことを愛してると思う」
「家族として?」
「うん」
「それでいいの?」
の表情はどこか苦しげだ。
「いいんだよ。お前は? ないわけ、そういう恋みたいなの」
「私、常に本気よ?」
「いつも俺に尻拭いをさせてるのに?」
「それは、あの人たちが私の領域をとっくに通り過ぎてたからよ。でも領域の中では私、本気で振舞ってる」
はどこか醒めた目をしていた。傍らにいた僕にはすぐにわかった。どこか大人びた態度だったから僕も、に倣って余計なことは言わないでおいた。
だがは、玲の話から話題を逸らした僕を咎めるようにして問いかけてきた。
「ねぇ翼、式には来るんでしょ?」
「ん・・・」
玲はもうすぐ家を出ていく。西園寺という名前を捨てて、たった一人の相手に嫁いでいくために。
「ていうか、なんでもっと早く言ってくれないの。無駄骨じゃないの」
「何が」
「モロッコに来たことよ」
「はあ?」
何だそれは。玲が関わってるんじゃないのか。
僕の顔に出ていたのか、は僕を見上げながら憮然とした表情でショルダーバックの中身を漁った。
「姉さんからのおごり、本当はこっちなの」
どこか渇いた声音で、は僕に向かって封筒を差し出した。
その手から封筒をもぎ取って中身を見れば、七日後に日本へ経つフランス経由のチケットだった。それと、玲から直筆の結婚式の招待状だ。
「お前これ・・・」
「預かってきたの。ちゃんとおめでとうが言えるように練習させようと思ったのに、骨折り損だわ」
どうやら、気分転換も兼ねて連れだしてくれたらしい。なんてことだ。こいつに気を遣わせる日がくるとは。
そうだ。が買っていたピンク・パールの装飾具たちは玲の誕生石だった。少なくとも僕が行かないつもりならば、これを持って帰ろうとしていたのだろうか。
嘘をつけばすぐにわかってしまうから、証拠として僕をここに引っ張り込んできたわけもわかる。一から十を得てしまった僕は思わずを見つめた。
彼女は苛立たしげにフープピアスを弄って僕を見た。あからさまに不満げな表情だ。
そして、すぐに僕に背を向けると、砂地に足を浸して踏みしめながら、は歩いて行く。
「おい、どこ行くんだよ」
「ホテルよ」
「どうせ同じ方向だろ」
待てよ、。そう言いかけて走り寄った時、逃げようとしたの脚ともつれあって砂漠に倒れこむ。
柔らかな砂はさらさらとした質感を伴っていて柔らかな感触で僕らの体重を支えてくれた。
顔を上げた時、今度はくすぐったそうに見上げてくるの視線と絡まった。なんだか急にばからしくなって、お互い思わず声を上げて笑った。
が問う。
「怪我はない?」
「大丈夫。お前は?」
「平気」
そういえば、久しぶりにの顔をまっすぐに、言うなれば何の邪念もなく見た気がした。
さっきまで、ずっと隣にいたというのに不思議な心地だった。綺麗な顔をしてはいるが、良く見ると、は少しも玲とは似ていなかった。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。
僕は馬鹿だ。はどいて、とは言わなかった。僕も、の上から退く気はなかった。その代わりに頬に手を伸ばして触れてみる。
は顔を反らして、僕の指を優しく咥えた。その表情は、決して勝ち誇ったものではない。
僕は彼女が男と向かい合う時、必ず勝利の女神のような笑みを浮かべるものだと思っていた。けれど、目の前のはどちらかというと苦しげだった。
瞳を濡らして、ただ僕のことを見つめていたのだ。その眼がどれほど雄弁に愛を語るのか、彼女の領域に入った男たちは知る。僕は人間だということをすっかり忘れかけていた。
ふと彼女の右耳から、先ほど倒れた拍子に右耳のピアスが零れおちていることに気がついて、側に転がっていたそれを金色の砂地から拾い上げた。
「つけて」
「わかってる」
僕は言われるままに耳たぶの穴を探ってピアスをつけなおす。その時のの表情といったら!
目を細めて、まるで僕の指の感触を味わっているかのようなふうだった。なんて美しいのだろう。
彼女の数多の装飾品たちは、男にもう一度つけなおさせるためのものなのだ。そうだったことを僕は初めて知った。
散々こいつのことをばかにしていたのに、なんという体たらくだろうか。
おまけに一瞬人間だということを忘れかけた。好きだとか、愛してるなんて言葉は一口もなくていい。だっての瞳はあまりにも純粋に僕を射る。
その小さな輝きに理性すらそぎ落とされて、また僕は人間だということを忘れるんだろう。
ただ一つ人間らしい言葉が必要だとすれば、僕は日本に帰った時、が僕の隣に並んでいるための口実を考え出さなくてはならないだろう。そんなことは後で幾らでも思いつく。金色の砂の中に埋もれそうなの身体を強く抱きしめながら、僕はその甘ったるい香りに口づけした。
END
20091002@原稿完成