ユーグという人は時折悪夢の淵に倒れたとき、アニエスと呼んで私を抱く。彼がさまざまな経緯で家族を失ったという凄惨な過去を私は知っている。もちろん、彼の本当の姿も、彼の妹たちのことも。彼は自分のことを他人に曝け出すことはない。それ故に、本当の彼自身はどこにいるのか見出すことも、探すこともできない。剣を持つ切欠はあまりにも残酷な過去だ。喪ったものはもう取り戻せないのに彼は戦い続けている。私はといえば、たった一日の二束三文のために人の命を奪うような女だ。信仰心や猜疑心の欠片も持たないような、絵に描いたように残酷な人間。俗にいうひとでなしってところだ。なのに彼は私の肩を抱き込むように抱いて慰めるように、癒すように優しく囁く。私に伸ばす彼の腕の中には同情も憐れみもなく、ただ純粋な愛情だけがそこにあった。その腕は体温を持たず、人が生まれ持ってきたものではないということを知らしめているというのに、不思議と誰よりも暖かく感じる。人に憎しみや憤り、同情以外の感情を向けられることがあまりにも懐かしく、私は彼の首筋に指先を滑らせて、寄り添って彼の体温をねだる。ユーグの身体は私を愛してくれたし温めてくれた、けれど人間はどうしたって独りなんだという得難い一瞬を教えてくれる。私たちはなんて矛盾した生き物だろう。誰よりも深く繋がろうとするくせに、ひとつになりきれない。誰よりもひとつになりたいと願うのに、近すぎると拒絶する。あまりにも相反していて矛盾している。
「・・・ユーグ?」
今宵もまた、腕が痛むのか。私を眠りから呼び覚ましたのは腕を抱えるようにベッドの端に蹲る男の呻き声だった。幻肢痛・・・ファントムペインが、一体どんなものなのか、私にはわからない。けれどきっとそれは、想像を絶する体験を追憶する記憶の彼方の痛みなのだろう。もうどこにもない両腕を思い出す、哀しい夢。私はドクターじゃないから、痛みを取り除くことも、和らげることも出来ない。だから、救いたいと願うことも叶わない。ただ出来ることといえば、苦しみ呻く彼の背に優しく触れることだけで、だけど彼が溺れかけている悪夢の中から連れ出すことはできる筈だった。
「、すまない・・・」
「私は大丈夫。どう、まだ痛む?」
「いや、もう平気だ」
「じゃあ私、お水取ってくるわ」
腰を上げた私の手を体温を持たない義手がしっかりと掴む。震えの残るその手を掬いあげるようにして、手を取ると、私は窺うようにして彼の翡翠の瞳を覗き込んだ。汗で少し張り付いた彼の金色の髪を撫でると、どこかぼんやりとした瞳が露わになる。彼はいつものように切れ長の瞳を細めると、私に向かって請うようにして囁くのだ。
「傍にいてくれ。頼む」
「うん」
頷きながら、彼に抱きつくと彼もゆっくりと私に腕を廻しながら細く息を吐く。それが安堵を示すものならいいと何度思ったことだろう。もう復讐は終わった筈なのに、彼はいつまでもこの幻肢痛にうなされている。
「終わった筈なのにな・・・」
「ユーグ?」
私の心が聞こえたのか、彼は小さく囁く。けれど、私の思惑とは別の場所で彼の心は動いていた。
「全て断ち切った筈なのに、腕だけがまだ疼いている。すべてが落ち着くにはまだ時間がかかるかもしれないな・・・」
「何でもそうよ、病気だって、もめ事だって、すべてがすぐにどうにかなるわけじゃないわ。少し時間が必要なのよ」
「あぁ。そうだな・・・」
彼の声に同意するように深く頷きながら、いつの日か彼の腕の疼きがなくなることを祈らずにはいられない。いつなくなるのか。それが止み、彼が落ち着いて眠りを貪ることのできる日は訪れるのだろうか。まだ手探りの状態が続くことは否めないけれども、私はユーグの腕の中で希望の声を聞いた。
「、君がいてくれてよかった。君や師匠や、俺を見捨てずにいてくれる人がいるから、俺は正気でいられる」
優しい口づけを額に受け、私はゆっくりと瞳を閉じる。愛している。と続く、その優しい旋律に耳を傾けながら。
見えざる腕
(この腕の痛みこそ、俺が生きた証なのだ)
20090504@原稿完成