窓を叩く雨の音に集中力を途切れさせながらも、机の上に広げられた問題集たちと格闘する。 涙の次は笑顔があるように、雨の続く日が終わりさえすれば眩しいほどの喜びに満ちた夏がやってくる。 どの季節も一年に一度しかやってこないけれど、夏というのは一年のうちで人々が色めきたち熱さも忘れて最も輝いている。 私にしてみれば、夏なんて熱くてゆるい、そんなイメージしかないのだけれど私の横で黙々と問題を解いていく彼にとっては違うらしい。 彼の名前は幸村精市。私とは四つ歳の離れた十四歳でこれでなかなか将来有望そうな男の子であるのだけれど、今は何かの病気で入退院を繰り返しているらしい。 人のプライバシーに関わる問題なので私は詳しく知らないけれども、感染するような病気でないので、こうして彼とお勉強をしているわけだ。 最初は大学の学生生活課からの紹介で彼の妹にあたる女の子の家庭教師となって中学受験の対策を担当していたのだけれど、 入退院を繰り返している彼女の兄が学校にほとんど通えていないので、兄である彼の勉強の補填ついでに兄妹で面倒を見てほしいということだった。 確かに、家庭教師としてバイトをするならば、数ヵ所に行くよりも一ヵ所で教えられる方がこちらとしても楽だった。 おまけとして教えることとなった兄の方はその年の子にしては珍しく、説明すればしっかり聞いてくれるし、その流れで問題を解いてもらえば殆ど正確に仕上がっている。 まぁ時折にして可愛らしいミスはあるけれど今の所、別段問題はないと思う。勉強が遅れているといってもそんなことはない。所謂優等生だったのだろう。


「今のところ後に響くようなミスもないし、問題ないかな・・・ちょっと休憩入れましょうか」

「はい」


まだ中学生なのに物腰は穏やかで話し方はとても知的だ。私が中学生の頃なんて歌手の話で騒いだりだとか、とにかく下らない時間の無駄遣いをして愉しんでいた。 今だってそうだ。遊びまわったり、買い物に行っておしゃべりをしたり、そういう時間の使い方でしか、私は時間を使ってこなかった。 それも一種の青春の捧げ方だけれど、彼のように部活だとかそういった一つの事に集中するというのも良いと思う。 彼の場合、青春のほとんどすべてを捧げようとしていたテニスを突然断たれてしまったために行き場をなくしてしまったかのような閉塞感があった。 彼の妹からかいつまんで話は聞いていたけれど、話を聞いているだけでも胸に詰まるものがあった。 正直、休憩時間に何を話すべきか躊躇われて、私はとりあえず持ってきて欲しいと頼まれていた数学の問題集を思い出したように鞄の中から探そうとしているところで、彼が沈黙を破った。


「先生、それ・・・小説か何かですか?」

「ん? あぁこれは大学の課題の詩集なの。結構面白いのよ」


彼の目に留まったのは滑らかな筆記体で書かれたヴェルレーヌという文字であるようだった。 私はヴェルレーヌよりも若くして才能を発揮し夭折したというランボーの詩の方が人の魂に焼き付けるようなどこか不思議な魅力があるような気がする。 どちらもデカダンスというジャンルに変わりはないのだけれど、きっと自身の好みの問題なのだろう。


「何語ですか? 英語じゃないですよね」

「フランス語よ。第二外国語の授業でフランス語をとってるから」

「へぇ、それ面白いですか?」

「面白いっていうか・・・不思議な感じ、詩ってただ見たままに受け入れるんじゃなくて感性を試すものじゃない?規定することはできないし、私は仏文じゃないから、専門的なことはわからないけど・・・なにか大切なものを思い出すの」


それは嘘のない本当の気持ちだった。とても懐かしく、そしてすがすがしい気分にさせてくれるのがこの詩集だった。 授業で使われるテキストの構成を疑うことはよくあるけれども、私はこの詩集に不満はなかった。 訳をするのが精いっぱいでそれだけでいっぱいいっぱいになってしまうわけでもなく、ほどよいレベルの単語が使われていることももちろんそうだし、 簡単だと思われている言葉の中には、実はとても奥行きがあるのだ。どんなに文字にしてあらわしても薄っぺらい言葉というのはある。 大切なものというのはとてもおおざっぱな表現だけれど、テニス以外にも熱中できるものを彼が見つけられたらいいと思う。 それで気がまぎれるのとは、少し違うけれども・・・そんな彼は私の言葉にひっかかりを覚えたのか、驚いたように私の顔を見た。


「なんか、それって素敵ですね」

「そう?」


大切なものか、と彼はひとりごちる。私がその言葉の後を拾ってしまうのはあまりにも無粋なように思えて黙っていたけれど、彼は私の眼を見てしっかりと言った。


「前はテニスが一番だったけど、ちょっと変わってきたかもしれないな」


彼の口からテニス、という単語が出てきた瞬間少しどきりとした。 何か悪いことを聞いてしまうのではないかと無意識のうちに危惧していたのだ。 そんな私の緊張に気づいているのか、いないのか、彼は独特の笑みを浮かべるといたずらっぽく囁きかけた。


先生」

「なに?」

「印象派の美術展とか、興味ありませんか?」

「何派とかにはこだわらないけど、モリゾの絵は好きよ」


にこやかに返せば、彼もゆったりと笑む。少しだけ雨音が遠ざかったかのような錯覚を覚えるほどこの時間は私の中で切り取られていた。 そんな中で、彼は自分自身の学生鞄の中から、二枚のチケットを取り出すと、一枚を私に差し出した。


「一緒に行きませんか? 来週の日曜」











petit garçon

( 清めてはくれないか 僕の哀れな心臓を )









20080929@原稿完成