街灯の少ない通りにあふれかえる夜闇は飲み込まれそうなほどに俺の心を惹きつけた。秋もそろそろという季節の過渡期にさしかかるこの頃の夜は秋を意識させるには十分なほどに冷え切っている。駅前の本屋に寄ったところで、参考書の置かれた棚の一角に、フランス語のテキストと薄い詩集たちを見つける。さんはどうしているだろうか。部活を引退し、高等部への進学へ向けて本腰を入れて勉強を始めたこのごろでは、うちの中で彼女の姿を見ることが少なくなった。夏の間に追試がすべて終わったために俺の勉強を見る必要がなくなったからだろう。追試が終わるまでという約束だった。彼女はもともと妹の家庭教師として俺が入院している合間に家にやってきていたようで、いつの間にか夕刻の家にとけこんでいた。容姿についてはそれほど多くを見てきたわけではないからわからないし、人の顔なんてまじまじと見るのは失礼だから評価をしづらいけれど、黒い服を着たらはっきりとわかる程度に染めた髪がとても印象深かったことを覚えている。学校では、ただ明るいだけの髪しか見てこなかったから、それが落ち着きを感じさせていたのかもしれない。気分によって変化する声の高低とは別に口調には優しさの中にいつも凛とした膜のようなものが張っていて、それが彼女の知性を感じさせる部分でもあったように思う。そんな彼女は、入院していたせいで定期考査を受けられず、追試を受けなければならない俺の面倒をいやな顔ひとつ見せずに見てくれていた。自分の使っていた参考書までくれて、今では俺の鞄の中に常駐しているそれにはやさしい気持ちが詰まっている。先生という立場だったから、俺に対していつも気を使っていてくれたのだと思うし、この気持ちはきっと恋とは違うのかもしれない。でも、彼女の優しさや控え目な雰囲気に隠れたいたずらっぽさだとか周囲にはない大人の気配に惹かれていることは事実だ。ただ周りにあんなに落ち着いた人がいないから、何か勘違いしているのかもしれないと何度も問いただしてきたけれど、正直なところ違ったとしても恋だと思いたいというのが本音だった。そう、きっと恋だから俺はいつまで経っても夏の終わりに一緒に見に行った印象派展のことを、しばらく忘れられないのだ。手にしたままだったフランス語のテキストを置き、本屋を後にしながら道なりに歩き続けると、見慣れた住宅地が姿を現す。そのまま歩きなれた道に記憶のままに従っていけば、すぐにでも家が見えた。玄関に向けて歩き出すと、不意に扉があちら側から開かれた。
「あ、精市。ちょうどよかった!」
俺の帰宅を待ち望んでくれていたというよりは、都合のよいときに現われてくれたとでもいうような母の言葉の響きに首を傾げながらただいま、と返すと遅れておかえりなさい、と耳に優しい声が聞こえてくる。まさか、と思うよりも先に鼓動は既に波打っていた。
「・・・こんばんわ」
「お邪魔してます」
にっこりと笑みを返されてどうしたものかと迷っていると、母親がしきりに呼びかけてくる。
「精市、悪いんだけど・・・先生を駅まで送って行ってくれないかしら、夜道だし危ないでしょ?」
「うん、いいけど?」
「それじゃ、帰ってきたばっかりの精市くんに悪いです。私は一人でも帰れますから」
「だめよ、何かあったら大変だから!」
きっとこの押し問答が続いていたのだろうな、と思いながら俺は母親に荷物を渡して彼女のお供を頼まれることにする。部屋の奥から妹の「お兄ちゃんばっかりずるい」という声が聞こえるのを聞こえないふりをしながら振り返る。
「先生送ってくるから」
「じゃ、お願いね精市。先生、また来週お願いします」
「はい、こちらこそ」
挨拶を交わすのを尻目に先に玄関を出て、ポーチを抜けながら、彼女がそばに来るのを待つ。
「ごめんね、帰ってきたばっかりだったのに・・・」
「もう部活もないし、それほど遅いってわけじゃないですよ」
送っていくのは二人きりになりたいからだ。まるで不純な動機を抱えたまま、俺たちは歩きだした。ひんやりした空気はあまりにも涼やかに頬を撫で、二人の間には妙な沈黙が降り立つ。彼女との間で気まずい沈黙を味わったのはこれが初めてだった。それがまるでこの関係の行き場のなさを示しているかのようで、俺は言葉をなくしてしまう。思えば、四つ年の離れている俺を、彼女が相手にするわけないんだろう。そんなことは最初からわかっているはずなのに、この暗闇に荒ぶ風がむやみに煽る。俺はたぶん焦っているのだろう。色んなことに焦っていた八月の自分を振り返ればそんなことはすぐにわかった。
「精市くん」
「はい?」
突然かけられたさんの声に反射的に返事を返し歩みを止めると、隣を見れば彼女の指先が優しい手つきで眉間を突いた。たぶん、しわが寄っていたのだろう。ふと表情が解放されたように緩むのを感じたが、それとは逆に彼女は寂しそうな眼をしていた。
「往復するの、大変でしょ? ここでいいから」
「そうじゃなくて!」
そう残してそのまま去ろうとするさんの腕を咄嗟に掴むと驚いたように切れ長の目を開いて、彼女はこちらを見た。電灯の淡い光が彼女の頬に柔らかな陰影を落とす。一呼吸置くようにして彼女の腕をそっと放すと、俺はここ数カ月溜め込んできた気持が零れ落ちた。
「なんで気付かないかな、さんは・・・」
「・・・何を?」
俺にとっては確信めいて囁かれたでも彼女にとってそれは違う、けれどもその声の響きと言葉にすら拒む響きはなかった。それどころか、次の言葉を促すようにして微笑した。
「ちゃんと教えてくれないと、わからないよ」
まるで扉に手をかけるようにして、閉じていたものを簡単に開いてしまう彼女は、どういう答えが降ってくるのかわかっているのだろうか。呼吸を整えるように胸に手を当てると、ここ数カ月、行き場をなくして狂おしいほどに全身を駆け巡っていた想いが溢れ出る。彼女が欲しいものは、もったいつけるような言葉ではなく、はっきりとした言葉だということを俺はもう気づいている。日陰で育てた恋でも、俺の中では格好だけの遊びごとではなくて、誠実さのやりとりだ。
「好きだよ、さん」
その声に、また驚いたようにでも嬉しそうに唇を緩めて微笑みながらゆっくりと、彼女の指先が俺の手を捉える。答えを導き出すようにして穏やかに息をつく音までが胸に響いて、どうにかなってしまいそうだった。昨日まで曇り続けていた世界を晴らすようにして続く言葉は。
「私も、あなたが好きよ」
月下の一群
( いつでもあなたの まなざしを求めてるのに )
20081005@原稿完成