わたしたち人間は、世界の中であまりにも不安定。最期は誰もが老いと病に苦しみこの世を去っていくとある者は云う。かくいうわたしも老いの中に佇んでいる。だが果たしてわたしは苦しんでいるのだろうか。否、苦しんでなどはいないだろう。わたしはこれでも幸福な人生を送っているし、子供も孫もいる。皆健康だ。ただひとつ残念な事があるとすれば、わたしに永遠に添い遂げると誓ってくれた伴侶が先にこの世を去ってしまったことだろうか。けれども何故だろう。わたしはこの年になって、目を閉じるとふとした瞬間に思い出すことがあるのだ。まるで後ろ髪を引かれるように遥かに昔の出来事が胸の淵に溢れかえる。目を閉じればそこが暮明だからだろうか。薄暗がりを見ていると、わたしはある男を、あの男を、思い出さずにはいられない。
「私のような化け物を前にして、少しも驚かなかった人間はきみが初めてだよ。お嬢さん」
とこしえの闇の淵から這い出してきた獣は、わたしに向かってそう云った。
いや、世界の奥に潜んでいたのではないかと錯覚する。なぜならば、そいつは最初、完全な人の形をしていなかったのだから。
わたしが最初に見たのはどろどろとした赤黒い液体。たしかそいつらが足元を濡らしていたかと思ったら、狂喜するように地面にのたうつと、
強い力で吸い込まれるようにたった一点に収束していく。どうなっていたのか考える前に、そいつは既に人の形になっていた。
人語を解し、人の形をしているくせに、そいつからは危険な獣のにおいがたちこめていた。
そのにおいこそが、わたしに近寄るという行為を拒絶させたのかもしれない。恐れを抱いた事は事実だった。
ただそれは諦めたわけでもなく、投げ出したわけでもなく、単純に自分の知らない物を見てしまった世界への恐れだったと思う。
「私の言葉がわかるかな、お嬢さん」
「わかるわ。それにわたしは“お嬢さん”じゃなくて“”っていう名前があるのよ」
「なるほど、お嬢さんはというのか」
わたしの顔を無駄にじろじろと見つめながら、不躾な態度でそいつは呟いた。
奴の血に染まったような紅の瞳が仄かなうれしさに染まるのがわかった。何か新しいおもちゃを見つけた子供みたいだったと思う。
でも、わたしが名乗ったというのに、自分から名乗らないのはフェアじゃない。
「そうよ。で、お前はなんという名前なの? 化け物」
「おや、化け物とは酷い言種だな」
「あなたが最初そう言ったのよ。“私のような化け物を前にして”って」
「それは失礼した。私の名前はアーカード、わけあってヘルシング家のゴミ処理係をしている」
胸に手を当てて、アーカードと名乗った男はうやうやしく礼をすると、宝物でも扱うみたいにわたしの手を取ってくちづけた。
それが、わたしと彼―アーカードとの出会いだった。彼は意外なほど紳士でありわたしは驚きを露にしたのを覚えている。
わたしは、生まれながらにして持った不思議な能力をもてあましていた。この能力をわたしはもてあましていた。要するに使い方がわからなかったのだ。そのために、ある時は周囲の人間からの迫害の対象として、またある時は不躾な集団にとっての恰好の獲物として狙われるようになってしまったのだ。結果的にわたしは家族をまるごと失い、不躾な集団の一部を根こそぎ吹き飛ばして、そうしてアーカードに出会ったのだ。彼もまた、わたしの能力に目をつけたとある集団の人間なのだと語った。英国国教騎士団と名乗るその団体は、わたしの能力が吸血鬼という化け物たちを倒すのに必要な物なのだと、一から十まで教えてくれたのだ。わたしは能力だけではなく、人生すらももてあましていた。別に諦めていたというわけではないと思うけれど、わたしはこの迎えを断る理由を見つけられなかったから、結局彼についていく事にしたのだ。
わたしは思慮が浅く、まだ何もよくわかっていなかったのだと思う。もしあの頃―彼とわたしが出会った頃に、彼がわたしに同じ場所へと来るかと云えば、わたしはそれに従ったかもしれない。彼と共に夜を歩くドラキュリーナになったのかもしれない。けれども、わたしはこうして人間をしている。それは不思議な事でも不自然な事でもなかった。人間のわたしにしてみればごく普通の事だった。怪我によってヘルシングのゴミ処理係を引退して、ゴミ処理係をしていた過去を隠しながら、わたしはごく普通に円満な家庭を築いた。
これらはわたしが永遠に手に入れられないのではないかと危惧し、同時に必死に手を伸ばして掴み取ろうとしていたものだ。わたしは手に入れる事ができた。そう、アーカードとわたしの間にはきっと何も生まれる事は無い。そんなことはわかっていた。けれどもわたしは毎年、わたしの誕生日に、あの紅い瞳を思い出すのだ。夜になると玄関の前にごく自然に置かれた一輪の薔薇と一枚のカードを手に取りながら、わたしはひっそりと思い出す。
家族も伴侶もこのことを知る者はいない。ただ毎年贈られるカードが机の引き出しにだんだんと入りきらなくなってくることだけは知っているようだ。目ざとい孫などはわたし専用の化粧品棚の引き出しを開いて、誰のカードがそれとなく尋ねてくることがあるが、わたしはそれを笑ってごまかす。そのカードを重荷に感じた事はあった。受け取った最初の頃はそう思っていたのだけれど、深く考える必要もないとわたしは思っている。むしろ酷く愉しみにしているくらいだ。安楽椅子に腰を下ろしながら、窓の外に目を向ければ、レースのカーテンの隙間から見える暗闇が夜が更けた事を報せてくれているのがわかった。わたしは自由の利かなくなった足をゆっくりと動かしながら、いつものように玄関へと向かうのだ。そう、今日はわたしの誕生日。年に一度、あの男がわたしにカードをくれる日だ。わたしはいつものように扉に力を込めて開く。
身を預けるようにして力を込めなければもう扉は開かなくなったのだ。ぐっと力を込めた扉は金属が擦れる音を間延びさせて開ききった。わたしは身を屈めて紅い薔薇と丁寧に折りたたまれたカードをそっと拾い上げる。
そこにはいつもこう書かれている筈だ。“、佳い夜を過ごしているか?”
滑らかな筆跡で画かれた文字を見つめて、わたしはそっと瞳を閉じた。ああ、あの日の事がすぐに思い出せる。そう・・・まさに、
夜がよみがえる
閉じかける扉に身をもたれさせながらわたしはゆっくりと呟く。あの紅い目をした男が、どこかで聞いているかもしれない、などという勝手な憶測を抱きながら。
「アーカード、わたしはもうおばあさんになってしまったわ。ねぇあなたは少しも変わりないのかしら?」
20070531 完成
反省してます。あーたまにこんなロマンチックができるわけがない。