夜の闇にまぎれて、奴は飛散した。たった一人の主を護るために血の池の中から不死の亡霊たちが甦る。ある者は呆然とそれを見つめ、ある者は感嘆の吐息を洩らし、またある者はその光景に恐怖し泣き叫んだ。死地に横たわったもまた奇しくもその場に居合わせた一人であり、事の成り行きを興奮に満ちた眼差しで見つめていた。アーカードが『それ』を出したのは片手で数えるほどしかない。今宵見れるのが奇跡だった。数多の命を吸い尽くした悪魔が、死の河から立ち上がる。闇を闇とするがごとく、ねっとりとした空気が濃密に漂っていく。滑りを伴った不吉な音が夜を埋め尽くし、人ならざる者たちの絶叫とも咆哮ともつかぬ声音がこだまする。けれどもの耳には、鈍く動く自分の心拍の方がやたらと五月蝿く響いていた。


「随分とお粗末じゃないか。どうした? ヒューマン、」


とめどなく命の水が零れ落ちていく身で背の赤煉瓦に身を預けながら、は頭上から発される声に唇を引き上げた。


「油断したの。ウォルター・・・彼だった。生きていたのね」

「いや、もはや生きてはいない。まったく別のモノとして、存在しているだけだ」


どうしてそんなことを、とは聞くべきだったのかはわからないが、その言葉は永遠にその唇から発される事はなかった。皮肉を洩らすアーカードがの傍に跪きながら、倒れた彼女の手をとり、その指先を優しく撫でた。彼は彼女の姿が、彼を試すものであるという事に気づいていた。彼女に深手を追わせた男は、その気になりさえすればの首をとってしまうことなどたやすいものだっただろう。だがそうしなかったのは何故なのか。いや、何故と考えずとももう答えは出ているのだ。それは彼からアーカードへの挑発だ。彼女を安らかに眠らせるのか、それとも死の淵から引きずり出し永劫にこの世を彷徨わせるのか。だが彼―・・・ウォルターは気づいているだろうか。その選択肢が委ねられたのは実際にはアーカードではなく、本人であるということに。そのは自分に疵を負わせた男がもはやこの世の者ではなく、永遠に主の下を去ったということを悟った。問わずともわかる。それでも猶、訊かずにはいられない。


「じゃあもう・・・あの人じゃないのね」

「その通りだ。賢いお嬢さん」

「ありがとう、アーカード。でもお願いがあるの」


唇から零れ落ちる血をそのままに、はアーカードを睨むような力強さで見つめた。そろそろ少なくなりはじめる時間を考えてか、はできるかぎり力強く、アーカードの手を握り返す。死の間際だというのに尋常ではないその姿に誰もが一瞬息を呑まれるだろうに、はあっさりとした口調で呟く。


「あたしの命を吸って、アーカード・・・」


もう感覚で得られるものも少ないだろうに、はアーカードへと力強く腕を伸ばす。その腕はただの人間の女の象徴のようだ。細く力のないもの、そして同時に何よりも気高く美しい、人間のもの。
諦める事を知らないその腕は、アーカードのそれを捕らえて離さない。小さな顔の中で乾いた血に曝され開くことも儘ならなくなった目を薄く開くと、彼の主と同じく死すら畏れぬ眼光が、真っ向からアーカードを捉える。こういう人間の顔にアーカードが弱いのを知っているのだろうか。の意識が薄れいくのも時間の問題だろうに、彼は彼にしては珍しく、ほんの出来心のつもりで、をそっと楽な体勢へと横たえてやる。


・・・喋る必要はない。わかっているとも」

「そう、あたしの命を使って・・・そして倒すの、奴らを・・・」

「わかっているとも。お前が奴をどのように考えていたのかも、奴がお前を、どのように考えているのかも。全て知っていたとも」

「ほんとうなの?」

「あぁ」


溜息のようなひそやかな声で、耳元をくすぐるようにアーカードは笑む。は色褪せる意識の中で安堵したように目蓋を下ろす。もう終わりが近づいていた。だがどうしてだろう、アーカードに命を譲り渡すことを恐ろしいとは感じなかった。むしろとても尊い事であるかのように思えてくるのだ。


「お願いよ、アーカード」

「ああ・・・希を叶えよう、お嬢さん」


握り締めた手に口づけ、いとしいものを抱きしめるためにアーカードは厳かな仕草で手を伸ばす。血にぬれた頬に唇を寄せ、乾いた血を舐めとると、これから忍び寄る死の影を絶つように唇を薄く開く。白い肌に歯を立てさえすればは、永遠にアーカードのもとにとどまるのだ。


「でも本当に・・・愛していたの・・・」


誰かのために呟いた言葉は、永久の闇の中に融けていった。











If I was your vampire

( 血とは魂の通貨、命の銀板 それを与える者に選ばれたのはお前ではない )





対峙する死神の影に、一人の吸血鬼は自分自身を抱くように身をすくませる。狂喜にも似た笑い声と共に、彼は高らかに告げるのだ。

“愛しい主人も恋しい下僕も・・・そしてお前のすらも、もう私だけのものだ”










20070826@原稿完成
不親切な小説のための解説
ウォルターとヒロインは恋人とも師弟ともつかないよくわからない情で結ばれていてアーカードは永遠に二人の間に立ち入れる事はないとおもっていたにも拘わらず、復活後のウォルターに殺されかけたヒロインの死に際に居合わせる。ウォルターにとってヒロインは己の感情の一部で、アーカードとの対決には障害となりうるため殺そうとしたっぽい。そんなこんなで、ヒロインはベル隊長みたいに自分の命を差し出す〜みたいなくだりですね。いつもどおり、なんて不親切な小説だろうか。