君ときたらまるで、闘牛の時のあの牛だよな。まったく、カイ・シデンという人は私のことをよくわかってる。
赤いモビルスーツ、赤い軍服、赤いパイロットスーツ、ラジオやテレビジョンからほんの少しでも流れてくる赤を纏った言葉たちは私の心を一直線に向かわせる。一体どこに?――《赤い彗星》だ。カイさんが彼を闘牛を誘う赤い布に喩えたのはまったく素敵なレトリックだ。ジャーナリストらしく、語彙力に富んだその言葉を私はひどく気に入っている。私が闘牛の牛だとするなら、さしずめ私の彼は赤い布。もしくは、赤い布を操る闘牛士だろうか。どちらにしても、そのしなやかな動きは私に彼シャア・アズナブルを彷彿とさせるに十分だ。


「親心で言ってやるけど、やめとけよ。幸せになれる見込みなんてないんだぜ?」


皮肉屋なカイさんは私を気づかうようにふと寂しげな笑みを見せる。私は頬杖をつきながらその忠告を撥ねてしまう。


「私、アースノイドやスペースノイドの問題や政治なんて難しいこと、よくわからない。でも彼を見てるだけで、私幸福な気分になれるわ。人間があんなにしなやかな動物であったことを誇りに思えるくらいにね」

「戦いをする男なんてろくな男じゃないぜ。本名だって知らないんだろ?」

「彼も、私の本名になんて興味ないと思うけど」


彼と知り合った時、私はと名乗った。今も名乗っている。あくまで仕事上の名前でもちろん、本当の名前ではない。それをカイさんに告げれば、彼は驚愕に目を剥いて身を乗り出してくる。まさに、期待通りの反応だった。


「真面目に付き合ってるんじゃないのかい」

「呼び名だけで十分なの。私たち、もう恋に落ちてるんですもの」

「まぁ、そりゃ結構なことだ」


呆れた様子で溜息をついたカイさんは席を立つ。この街の近くに駐留している連邦軍の動きを探るためだという。私と行動するのはあくまで隠れ蓑。若い女連れであれば、周囲の眼は甘くなる。ゆえに欧州からの旅行者だと偽って私たちは世界を飛び回っている。私がカイさんに付き添うに至った経緯は複雑だけれど、平たく言えば彼の護衛を頼まれているといったところだろうか。カイさんは軍にいたことがあるとはいえ、銃撃戦に長けているわけでもなく、一般的な男性の部類に入るために自分の身を危険な場所に晒しながらも自分の身を守るのは下手だ。それゆえに以前、単独で行動していた頃にかなり危ない目に遭ったというからその経験からの判断なのだろう。周囲からの勧めもあったらしく護衛として私が雇われた。あくまでそれだけの関係なのだが、妹のように或いは娘のように私のことを気づかってくれるカイさんの優しさとつかず離れずのこの距離感が心地よい。まるで、いたかいなかったか知れない年上の肉親の存在を思わせてくれる。そして私は、彼に甘える妹のように彼を見上げて微笑した。


「もしこっぴどく振られたら、慰めてくれるんでしょ?」

「やなこった!」

「えーっ! ひどーい」


嫌悪感を露わに眉根を寄せる彼と私は目が合ってついに堪え切れない笑みをこぼす。少なくとも私は、護衛とはいえ連れ立っているこの男のことがとても好ましい存在だ。彼から見ての私が一体どんなものかはわからないけれど。昼の市街地は男一人で歩く方が女と連れ立つよりも好都合だと言って彼は人込みの中に消えていった。もしもの時のために通信機器を持っていることを確認し、その背を見送りながら私は私の赤い布について考えてみた。思い返そうとすればすぐに、心の中では赤い布が誘いかけるように舞う。私はいつもそれを掴もうと模索するのだ。記憶の中を手探りで彼の姿を探そうとすればすぐにも手に取れる。稲穂のように穏やかな風を受けて煌めく髪に喪失の青い炎に揺れる瞳。彼は私の記憶の中で色あせることがない。あの指先が私の肌に乗った時の温度や唇の柔らかさ。私の指先が辿った彼の肌の上に隆起する筋肉のしなやかさ。私の身体が彼から受けた吐息の一つから、腰を重ねた時の熱、吸い上げた煙草の煙の一筋までも、彼にまつわる記憶は一瞬にして私を支配する。
いっそ傍らにいない時の方が、私は彼の存在を感じることができるに違いない。







***








政治的な思惑の絡む海辺のホテルのバーだったと思う。
私たちが出会ったのは恋愛映画の舞台には似つかわしくない、ひどく猥雑とした場所だった。一言で表すなら、スノッブな場所。誰もが権力に固執していて、凝り固まった考え方しかできないような錆びた連中の集まりだった。そして連れ立っていたカイさんはそんな連中が集まるというパーティーに顔を出していてその時は全くの別行動をしていた。仕事の一環とはいえ、彼も気が向かないらしくひどく辟易した様子でいたことを容易く思い出せる。私は彼が危険な目に遭わないように目を光らせるのが仕事だけれども、その時は彼の仕事内容の方を優先することになり、寂れたホテルのバーで一息ついていたのだ。パートナーとしてエントランスをくぐり抜けるためだけに纏った黒いドレスが役割を終えたことを名残惜しいとでも言うように足元に頼りなく纏いつく。カウンターに洗練されているとは言い難いほどにのらりくらりと窮屈そうに腰を下ろした私は、退屈を装いながら深窓の令嬢のように腰を下ろしているだけでよかったのかもしれない。けれど、それでもマスターにカクテルや酒を所望したのは、その日がとても熱くて喉が渇いていたからだった。私が無造作に煙草をシガレットケースから取り出し火をつけると、フィルターが唇に触れ合う前に指先の煙草が攫われる。


「レディが喫煙とは感心しないな」

「不良になりたい気分なの」

「なら君を更生させるのが私のつとめということにしようか」


不満を露わに煙草を奪った指先の主を振り返ると男は口元に柔らかく笑みを浮かべながら私の隣に腰を下ろす。まだ吸ってもいない煙草を灰皿に押し込んでカウンターの端に押しやると、ひと仕事終えた彼は私に顔を向ける。


「この街には避暑で?」


目元を濃い色のサングラスで覆い隠した彼は若さとはどこか無縁そうな、老成した影を落としながら尋ねてくる。彼の質問にゆっくりと首を振った。


「ううん、友達の仕事に付き合って」

「なるほど、」

「あなたは? お仕事? 今日、どこかの偉い人が集まっているんでしょう?」

「なに、単なる気取った遊びだろう。そういったものが、私は肌に合わなくてね」


皮肉のこもった冷やかな口調から察するに、男は間違いなくカイの調べていることと関係がありそうだった。しかしながら、踏み込むのは私の領分ではない。知らないふりをしながら、彼の仕草の一つからネクタイに手をかける指先までを見逃さなかった。今まで見てきた男の中でも、彼は格別な品の良さあった。生まれ持った品格とでも言うのだろうか。人が目をそらせない何かが眠っている。きっと彼は、品位と金で日常を作り上げているようなばかばかしい連中などではない。私は直感していた。
私は彼の瞳を探すように見つめながら、問いかけた。


「もしかしてあなた、軍人なの?」

「・・・鋭いな、どうやら嘘はつけそうにない」


虚を突かれたように驚いた様子を見せながら、彼は乾いた笑い声を漏らした。そうして、指先でコニャックのグラスを転がしながら、私に身体を向けて頭のてっぺんから足の先までを、ひとつひとつ検分するように眺めた。彼の色のない視線で身体を撫でられているような感覚に陥り、どうしようもなく胸が騒ぐ。隠しきれない頬の熱さはアルコールによるものなのか、それとも別のものなのか。
私が胸の内を探ろうとしていることなど気付かない様子で、男は言葉のひとつひとつですら味わうように舌に乗せた。


「さしずめ君はどこかの令嬢といった様子だが、酒の飲み方が垢抜けている。かといって記者より角が取れているね」

「そうね、お嬢様でもないし記者でもないわ。どう思う? 当ててみせて」


挑発するように私の唇から滑り出した言葉に彼は今度は低く笑ってみせた。


「私はエスパーではないのだが・・・」

「それは残念。じゃあ答えはお預けね」


ジントニックで舌先を湿らせながら呟くと、彼はコースターに乗せたグラスを横に押しやって私の手に大きな掌を重ねてくる。


「私が言って、君が明かしてくれないのは不公平だとは思わないかい?」

「でも、あなたの顔を知らないもの。これだってフェアじゃないと思わない?」


私の言葉に突然彼は結ばれた指先をほどいて、サングラスを下ろしてその容貌を露わにする。はっとするほどに惹かれる容姿だがそれだけではない。私はこの顔を知っている。カイさんの持っているアタッシュケースの中にいる重要人物の一人。名前は確か―・・・シャア・アズナブル。思わず息を呑んで、彼の姿を見つめると、当の本人は沈黙の最中に微苦笑したようだった。光らせた瞳を再びサングラスで隠しながら囁いてくる。


「そんなに見つめられると、困ってしまうのだが」

「・・・ごめんなさい。悪気はないの、つまり私・・・あなたの顔に見とれてたのよ」


いつもはすぐにも口をついて出るはずの巧妙な嘘すら忘れて私はぎこちなく呟いた。震えたように頼りなく響く私の声に、彼は楽しそうな笑い声を滲ませながら返してくる。


「それは新手の誘い文句かな?」


彼の台詞に、私は額に手を充てながら観念するしかない。


「じゃあもう、そういうことにしておいて」


隙のない仕草、女を簡単に魅了させる振舞いに胸が高鳴る。
人気の少ないバーは、気がつけば私たち以外には誰もおらず、先ほどまでカウンターの前にいたマスターですら、まるで気を利かせたように忽然と姿を消している。私がいぶかしむよりも先に、彼の指先が私の唇を捉え、たっぷりと塗られたルージュを拭い去るように親指で撫でる。まるでこちらに集中するようにとでも言いたげに。彼の親指を彩ってしまった赤いルージュの行き場を案じるより、彼の口づけを予感した。この男がどんなふうに人を愛するのか、見てみたいと思った。その欲求は形になり、すばやく指先を滑らせ彼の瞳を覆うサングラスを取り去りながら、私は彼の視界に滑り込む。その切ないまなざしを受けて、私の瞳は濡れていく。唇の上を撫でるように滑る彼の吐息に応えるように、私は彼の首に腕を回す。迷わず降りてくる唇のひとつひとつを肌で感じ取りながら、私は吐息を熱く湿らせて彼の耳元に吹きかけるのだ。私は知っている。言葉よりも、吐息や、視線のひとつひとつだけが雄弁に愛を語れるのだと。例え言葉が通じなくても、こうして心を通じ合わせることの出来る男と私は恋することができる。だから、それだけでいいのだ。頭で考えるよりも先に、私の中の感覚や感性のひとつひとつが彼の仕草を熱く辿る。
その瞬間、既に私は彼を愛しはじめてしまっていた。







***







たった一夜の息を埋めるような関係だと思ったのに、私が思った以上に関係は長引いた。正直なところ全く予期しないことだった。
彼に呼びつけられればどこにでも行った。他愛もない話をしながら食事をしたし、海を見た。コールガールのように、彼のベッドに潜り込んで一晩中抱きあったことだってある。けれどもちっとも、誇らしい気持ちになんてならなかった。簡単なことなのだ。私は別に、シャア・アズナブルが欲しいわけではなかったのだから。ジオンだの連邦だの。そんなものは単なる呼び名にすぎない。優先順位の高い場所にいたいわけでも、仮初の言葉を囁いてほしいわけでも、多分ないのだ。赤という色がこの世で最も似合う男が私を当たり前のものにするには、どんなふうに言葉や身体を使って私を奪っていくのか・・・それだけが知りたい。恋とはいつだってそういうものなのだ。テーブルの上の赤い実を一粒、口に運びながらそんなことを真剣に考えていると、節くれだった指先がノックするようにテーブルを爪はじきにするのが見えた。


「ここ、空いているかな?」


相変わらず、私の鼓膜を酔わせる芳醇なコニャックのような声音だ。顔を上げずに頷きながら、私は冷めきったカフェオレを口に運ぶ。視界には、ダークスーツに合わせたシャツとネクタイ、そしてポケットチーフが覗いている。いつものことだが、サングラスをして、柔らかな金髪を流している彼に視線を合わせる。視線だけで頷く私に、彼は目の前の席に腰を下ろす。
私は椅子に腰を下ろす彼の洗練された仕草のひとつひとつを見つめながら、素直に驚いてみせた。


「どうしているの?」


私の声に彼は唇から笑い声を零しながらサングラスの奥の瞳を細める、まるでこの状況を楽しんでいるかのように。


「まがりなりにも私にだって君に会いに来る自由意思があるはずだが・・・。それとも、迷惑だったかな?」

「誰もそんな風に言ってないわ。わかってるんでしょう?」


拗ねたような口調の私の機嫌をとるようにして彼は腕を伸ばして私の頬に触れる。頷く合図だ。薄く飾った肌の上をすべらかに指先が伝い私の肌を愛撫する。その礼儀正しい仕草に我慢ならなくて私は悪戯に口元に触れる彼の指先を柔らかく噛んだ。


「まだ昼過ぎなんだが」


嗜めるように薄く笑い、彼は私の唇をなぞった。いつかと同じように、彼の指先にたっぷりとグロスが纏いつく。私の唇の上に乗っていたとは思えない赤さに否応なしに目を奪われながら問いかけた。


「だって今日はオフなんでしょう?」

「まぁそういうことになるがね、君こそどうかね? 相変わらず、友達に付き合って仕事というわけかい?」

「今日はオフよ」


頬杖をついて彼を見つめれば、考え抜いたような仕草の後にわざとらしく唇をほころばせる。


「なるほど、それは好都合だな」

「でしょう?」


彼は手持無沙汰に指先を弄るどころか、慣れた仕草でその赤い色を食む。女の白皙の肌の上に滑る赤い色は十分扇情的だけれど、彼の舌先に吸い込まれていくアンビバレンツな赤は私の背筋に官能すら植え付ける。なぜ彼という人を彩る赤はこんなにも私の心を離さないのだろう。慣れた仕草でテーブルの上にコインとチップを置きながら、彼は私の手を引いて囁いた。


「では少し、出かけるとしないか。お嬢さん」

「好きなだけ連れだしてよ」

「ご要望に沿うとしよう」


不埒な紳士のエスコートを受けながらホテルのエントランスを抜けて、私は彼の車の助手席に収まりながら、迷わず彼を引きつけるように身体を伸ばしてキスをする。私の心を一直線に向かわせる赤い布の持ち主は、運転の傍ら私に向かって優美に微笑む。なんて美しいのだろう。彼の魂のすみずみまでくまなく触れるように彼の頬に指を沿わせると、私の内側は彼のことで一杯になる。私は瞳を使って彼から与えられる惜しみない愛を受け取りながら、この先に待つであろうあらゆる期待に心が震える。
瞳にはいつの間にか甘い膜が張ったようになって、声に出すこともままならないこの濃密な感情に唇を震わせる。