携帯電話が忌々しい音を立てている。
シーツに包まって惰眠を貪っていた俺は重い頭を無理矢理に起こしながら辺りを見まわした。期待した目覚めと違う。なんだか、酷く不快な気分だ。 久しく得られた休日の眠りを妨げられ、おまけに恋人は隣にいない上に、脱ぎ捨てられた服だけがあちこちに散らばっている。その上携帯電話の音は優雅じゃない。 苛立ちを散らすように髪を掻きまわしながらスーツのジャケットかズボン、どちらに携帯電話を入れたのかすっかり忘れたままだった事を思い出し、 のろのろとベッドから這い出ようと身体を丸めた俺の前に白い手が差し出される。その掌には見慣れた携帯電話。おや―・・・俺の思考はみるみるうちに潤いを取り戻す。
俺は顔を挙げて白い手の持ち主。愛すべき俺の恋人の姿を見つめた。


「おはよう、ダーリン。何処行ったかと思ったよ」


俺はきっと、蕩けかかったジェラートのような顔をしているに違いない。 そんな俺の頬にキスをくれながら、彼女は優しく微笑んでくれる。


「早く出てあげて、三分おきにずっと鳴ってるのよ」

「誰だろ、エリーゼ?」

「さぁ、」


心配そうな表情で肩を竦めながら、俺の恋人はベッドの上に腰を下ろす。毛布にくるまる彼女と戯れたいが、電話を取れと彼女の視線が訴えてくる。ちくしょう、電話め。 内心毒づいて電話を取りながら、できるだけ高い声を喉から絞り出して応じてやる。「We're sorry the number you have reached is not in service at this time. Please check the number―・・・」 言いかけた俺を制するように低い怒鳴り声が耳元で木霊する。『オイ、! 出てるのはわかってる!』


「・・・なんだよ千秋・・・俺寝てたんだけど」

『お前、またこんな時間まで寝てんのか。いい加減にしろ、』


千秋は午後一時まで寝ている俺を電話越しになじったが、俺は一向に意に介さなかった。 俺は奴のように朝七時に起きてわざわざ足首を痛めるであろう石畳の上をジョギングする趣味はない。 夜通し、テキーラやウォッカを混ぜたジャングルジュースを飲み、酔っ払い、懐古的な芸術の話に耽るような快楽主義の人種なのだ。 ところが、俺の不快感を増長させてくれるこの律儀な日本人は朝だと言うのに絶望的な声を出していて、俺を更にうんざりさせた。 こいつときたらいつも、絶望の種をどこからか見つけ出して不機嫌になっているのではないだろうか。相談をもちかけられるたびにそう思う。 胡乱気に髪を掻き上げながら呻くと、俺は奴の話に応じることにした。もう何こいつ、すげー面倒くさいんですけど。


「で? こんな朝早くから一体なんだよ」

『いや、実は・・・』


絶望的な声で言い淀む男にいい加減焦れる俺は溜息を零す。本当、面倒くせぇやつ。


「お前のことだからどうせ? のだめちゃんのこと?」

『・・・訊きたいことがあって、』


どうやら図星らしい。


「あっ、そういや聞いたよ聞いたよ! 楽屋で会ってもらえなかったんだってな」

『お前、なんで知って・・・』

「同じ事務所の人間なめんなよ。エリーゼからこっち筒抜けなんだよ」

『普通に考えておかしいだろ、なんで俺のプライベートのことまでお前に筒抜けになってんだ・・・!』


焦ったような声に俺は笑い声を零すしかない。相変わらず、いじりがいのある奴だ。


「さぁ? っていうか、なんでわざわざ電話? どうした? お前ら喧嘩中?」

『そんなこと、むしろ俺が知りたい』

「だよなぁ・・・」

『なぁ、弾けないって思ったことあるか?』


急にしおらしく訊いてくる千秋に悪戯心も起きるがそこを抑え込むようにカーテンの外に見える青空を仰ぎながら笑った。


「毎回だよー、だって俺仕事したくないもん」

『本当お前、じじぃとそっくり』

「おっ、光栄だなぁ・・・マエストロとそっくりなんて!」

『・・・褒めてないんだが』

「あ、そうだったのか? まぁいいや。で、のだめちゃん弾けないって? 引き込もっちゃったの?」

『いや・・・』


仕事が嫌になって逃げ出したくなるなんてことはどの職でも業界でもあることだろう。
好きなことをやっていると思われている俺たちだが、プロとして食っていく以上自分に課す課題も相当なものになるわけで、 それをこなした時の達成感や歓びに浸って暫く動けなくなる時がある。所謂一種のバーン・アウト症候群というやつだ。 まだ話題の動画を見ているわけではないが、新聞などの批評から見るに信じがたいほど華々しいデビューを飾った彼女は一発でスランプになってしまったということなのだろうか。 俺は他人だから憶測するに過ぎないわけだが・・・携帯を耳に押し当てながらぼんやりそんなことを考えていると、千秋はとんでもないことを言い出した。


『逃げたらしい、しかも消息不明』

「はぁ!?」


これには俺も驚くしかない。驚愕に眼を見張りながら、思わず恋人と眼があってしまう。 どうしたのかと問うてくる恋人の視線に後で話すと釈明しながら、俺は再び電話の相手に問いかけた。


「行方不明・・・随分重症だなそりゃ、」

『そうなのか!?』

「まぁでも時々あるんだよな・・・でものっけからはあんま聞かない。最初の数年は頑張れるもんじゃないの?」

『・・・だよな』


相当落ち込んだ低い声に、こいつがかなりまいっていることがわかる。
それもそうだろう、恋人に拒絶されて、なおかつ逃げられてって・・・お前、波乱万丈すぎるだろう。 壁にかかるカレンダーを見ながら、ついつい身体の中のお節介の虫が騒ぎだし、俺はこの面倒くさい友人に少しばかり付き合ってやろうかなと思いはじめる。


「なぁ、お前今どこで仕事してんの? パリ?」


ついうっかり、口から滑った。


『イタリアのヴィエラ先生のトコだけど・・・』

「お、好都合。動くなよ! 俺今からそっちまで行くから」

『はぁ!? お前・・・何言って、――』


Tue Tue Tue Tue Tue Tue


無理矢理電話を切り、床めがけて放り投げると俺は愛しい恋人に言い訳をしなくてはいけないらしかった。
どうしたものかと視線を彷徨わせると、彼女は俺に微笑する。


、どこかに行くの?」

「そういうことになった。ごめん、折角のオフなのに・・・」

「友達、大変なんでしょう? 行ってあげて、」

「っていってもなぁ・・・お前を置いて行くのはちょっと・・・」

「そう言ってくれるだけで十分。私は絵の勉強があるし、誘われても付き合えないわ」


苦笑を零す恋人に、俺はどうしようもなく申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。 だらしなくベッドに横たわりながら、天井を見上げて、低く呻いた。


「なんで俺、こんなお節介焼き・・・」

「そこがいいのよ。周りのこと放っておけないってあなたらしいわよ」


そんな風に彼女は言うが、あながち間違ってはいない。残念なことに、俺はとんでもないお節介焼きらしい。 恋人との情事よりも友情を取ってしまうなんて、我ながら良いやつ。―え、自分で言うなって? まぁとりあえず、俺は面倒くさい奴だと心底思いながらも、奴のことがそれほど嫌いではないのだ。







***








夕刻のカフェはバールへと姿を変える。
待ち合わせに指定されたそこにたどり着いた頃には空の色もすっかり落ち着いていて、俺は財布と携帯電話しか持たぬ手軽さで訪れていた。 殆どどころか完全に手ぶらな状態の俺はバールの隅で物思いに耽っている様子の日本人の姿を見つける。
いつもの威勢のいい姿からは想像もできないほどどこか生彩を欠いていて、なんだか元気がない様子だった。 本当、絶望の種をかき集めましたと言わんばかりの姿に俺は口元を引き攣らせた。 急に引き返したくなったが、もともとお節介の虫を騒がせたのは俺の方なのだ、こいつを召喚してしまった以上責任はとらなくてはなるまい。 ぼんやりとしているそいつの目の前で軽く手を振ってやると、奴は俺の存在に初めて気がついたようだった。


「・・・本当に来たんだな」

「まぁな、これでも約束はきっちり守る方なんでね」


注文を取りに来た可愛らしい金髪のバーテンにギムレットを頼みながら、俺はこの厄介な友人に向かい合った。


「で? 結局のところ何が原因なわけ。彼女お前と共演したいって結構前向きだったよな?」

「ん・・・まぁ、なんていうか、それもあるんだけどそうじゃないっていうか・・・」


日本語で、ぽつりぽつりと奴は話し始めた。
彼女が夢見ていたコンチェルトを別の奏者としたこと―・・・彼女には辛い展開だったのは間違いないが、そんなことは世の中よくある話だ。 彼女はそれをしっかり納得したうえで演奏を見に来てくれたという。
だが、その先が問題で―・・・。


「結婚してほしいって言われたんだ」

「え、お前が?」


突拍子もない展開に思わず笑い転げたくなったがどうやら笑い話ではないらしい。 それにしても、こんな面倒な奴と付き合っていこうなんてつくづく変わった彼女だ。運ばれてきたギムレットで舌先を湿らせながら、俺は問う。


「で、返事は?」

「いや、してないっていうか、流したっていうか」


思わずグラスを取り落としそうになって千秋を見た。俺の心底憐れむような表情に気が付き、奴は自分たちの音楽にまつわる経緯を話してくれた。 彼女とは日本の音大時代からの知り合いだとか、恋人になったのはパリに来てからの話しだとか。 女にまつわる記憶を話している奴の表情は、俺が知る限り音楽の話をしているのと同じくらいに生き生きとしている。 おやおや、なんだね。・・・やれ変態だと日々罵っていらっしゃる割には存外お前さんの方がぞっこんなんでござーせんかな?
俺は奴の話に耳を傾け、ただ相槌を打ちながら可愛いバーテンにまたギムレットのおかわりを申し込む。 二杯目のギムレットを喉の奥に流し込みながら、俺は呟いた。


「・・・流しちゃうのは・・・不味かったかもなぁ。焦っちゃったんじゃねぇの? 彼女」

「え?」

「お前が遠くなったと思ったからそんなこと言ったんだろ? んで、相手にされなかったと知ってやけくそデビューとか?」

「・・・」


思いのほかに思い当たる節がおありなのか、千秋は少し青い顔をする。 確かに話を聞いて察するに、この二人は互いの音楽を思いやってはいるが、互いの人生をもう少し尊重してやるべきだろう。
俺みたいなちゃらんぽらんな、どこの女の子とも寝てしまうような男にはついぞ縁のない話だが。


「たまには追いかけてみろよ」

「は?」

「今までずっと追いかけられてきたんだろ? のだめちゃんに。たまには逆も悪くないと思うけどな」

「逆って・・・俺にのだめを追いかけろって? キャラじゃねぇ」

「キャラじゃなくたってな、今更他の男に取られてはいそうですかって諦めつくのか?」


俺が問いかければこいつはすぐに無言になる。
沈黙を裂いてまで、わざわざもう一度問いかけてやる必要はないだろう。 俺はギムレットを飲み干すと、ポケットの中に手を突っ込みながら有り金の有無を確かめながらカウンターの上にチップと代金を置く。 千秋は俺の様子に少し驚いたように顔を上げる。俺は片手を上げながら応じた。今日くらいは奢ってやる。


「もう答えは出てるんだろ? 俺がわざわざ聞かなくたって、出来んだろ? ガキじゃあるまいし」

「・・・わかってる」

「結果が出たらまた電話しろよ」

「気が向いたらな」

「可愛くねぇ奴」


少しは元気になったらしい。俺はあいつの都合に合わせてやっただけだというのに、ありがとうの一つもなしか。
まぁ勝手にやったのは俺だから、文句の言いようもないわけだが・・・。 店を出ながら、完全に陽が落ちて落ちついた街を眺め石畳の道を歩き出す。歩きなれたアーケードを歩きながら、俺はまた厄介な友人のことを考える。 あいつはきっと上手くやるだろう。海外に来れないとあれだけ嘆いていて上手く行ったんだ。基本的に逆境には強いはずだ。 それに、一つの恋に異様なほどに執着するあいつを見ていると、なんだか長く続く関係も面白いような気がしてくる。 毎日愛する女の作る食事を平らげ、一緒にコーヒーを飲み、同じベッドで眠る。なんだか悪くない気もしてくる。 とりとめもなく、そんなことを考えていると、急に俺は自分の恋人が恋しくなり、押し慣れた番号に電話をかけた。 じゃあ賭けよう。彼女が電話に出て俺の誘いにYESと言ったら、俺は―・・・


「チャオ、なぁ・・・俺、急にジェラートが食べたくなったんだけどさ、一緒にどう?」



























件の面倒な友人からは音沙汰はあれから一切なく、俺の方も奴のことを考えている時間など毛頭ないままで、気付けば季節はヴァカンスを終えようとしていた。 俺の方と言えば相変わらずで、出かける先々で見かける可愛い女の子や良い女に目移りする事こそ少なくないが、 生憎と夏の終わりにリサイタルを控え、その練習に明け暮れる日々のおかげでそんなことに現を抜かしている暇はない。
だが勿論、変わったこともいくつかある。
俺の恋人の左手薬指には、美しいダイヤの指輪が輝いているし、俺としてはずっと続いていく恋も悪くないかもしれないと思いはじめている。 そして俺はそんな恋人―・・・もう婚約者だが―に見守られながら舞台に立つ。自然と背筋が伸びるほどにぴんと張り詰めた空気の中で、音楽だけには誠実な俺は、この場に敬意を表して一礼をする。 顔を上げて客席を見渡せば、ありがたいことに空席は一つも見当たらなかった。 先んじて贈っておいた二枚のチケットの席も、きっと埋まっていることだろう。既に、彼らが楽屋に来てくれるのが楽しみになってくる。
俺はピアノの前に腰を下ろしながら、数年間で築き上げてきたこの名に恥じぬよう息を殺して鍵盤の上に指を下ろす。 この場にいる総ての人間のために、そして幸福の訪れる二人のために、美しい音を奏でるために。












END