「あら、。もう気は済んで?」
海辺の島の白い屋敷の中で、ふらりと立ち寄ってきたに驚くそぶりも見せずにセイラは彼女を迎えてくれた。そういう平静さが、今はひどくの心を安心させてくれる。相変わらず鍔の広い帽子と白いワンピースのよく似合う洗練された美しさだ。は、セイラと向き合うや否や、飲み物の到着も待たずに口火を切った。
「私、気がついたんです。最初からからっぽだった、大事なことに何も気がついてなかったんだって」
「そうかしら? あなたは気がついていたのでなくて、わざと気がついていないふりをしていただけよ」
「セイラさん、手遅れだと思いますか?」
「さぁ、どうかしら。あなたが思っているほど、事は深刻ではないと私は思うわ」
そう言ってセイラは穏やかに微笑んだ。まるで、出来の悪い妹を諭すような姉のような口調だ。彼女は備え付けの電話の受話器を取るとに受け取るように示す。それはに有無を言わせぬ気高い仕草だった。
「月から何度か、あなた宛てに電話が来ていたのよ」
「私に?」
「ええ、どこにいるのか私に何度も尋ねてきたわ。でも私は知らないからそうとしか応えられないじゃない?」
「そうですね」
「私はね、。自分に正直に生きるあなたを好ましく思っていてよ」
セイラはにメモをとったような紙の端を握らせて、部屋を後にしてしまう。広い部屋にぽつりと取り残されたは、掌の上にある小さな紙を広げその中身を見るや、弾かれたように顔を上げた。何かお礼を言いたくともセイラの姿はなく、ただ片手に握りしめた受話器だけがのことを見守っていた。暗にかけるように示された番号に躊躇いがちに番号通りのボタンに触れる。最後の番号を押し終えた後、は祈るように瞳を閉じた。
『はい、こちらフォン・ブラウン市の電話交換手です。おかけになられた電話番号はフォン・ブラウン市の私営診療所にお繋ぎいたしますがよろしいですか?』
「その番号でお願いします」
セイラに零したように、もう手遅れなのかもしれない。でも本当は、手遅れになるのを待っていたのかもしれない。そうすれば諦めもつくと心のどこかで甘んじていたのだ。きっと。地球に行けば何かが変わると行動したけれど、本当はそうではなかった。カミーユこそが、の欲しかった輝きだったのだ。こんなにも彼を愛したいと自らが切望していることに、はやっと気がついた。
彼の傍で生きる資格があるのか、今はただそれだけを知りたかった。
電話が鳴ったのは、朝の八時を過ぎたころだった。
大学時代に目をかけてもらい、お世話になっていた教授が経営していた診療所をほとんどもらい受ける形で手伝いながら、カミーユは医者としての日々を過ごしていた。市営の病院ではないために、激務が続くわけでもなく、ただ小児科医として堅実に仕事を続けているだけだった。目まぐるしく周囲が動く世界にもう一度身を置こうとは思っていなかっただけに今の仕事は彼に充足と安寧をもたらしている。休診日だというのにカルテの整理をしながら過ごしていた彼は、受話器をとりながらひどく気乗りしない声で返事をした。
「はい、ビダンです」
『カミーユ・ビダンさんですか?』
「はいそうです」
『地球からの長距離です。もう一度おかけしますので、一度電話を切ってお待ちください』
「わかりました」
返事をしながら、カミーユはゆっくりと受話器を置いた。見れば手が僅かに震えていた。あまり寝ていないためだろう。電話を受け取ったら、カルテの整理は途中でやめて眠ろうと彼は深く心に誓った。地球からわざわざ電話をかけてくる客人がいるのは珍しい。地球から自分に用があってかけてくれる相手に心当たりがなく、彼は考えにふけるように瞳を閉じた。次の電話がかかるのに、十五分ともしなかったが、どうやら眠ってしまっていたらしい。カミーユは閉じていた瞼を軽く押し上げると、再び受話器を取った。
『地球からおかけになった方が出られます。聞き取りにくかったら交換手までお知らせください』
「わかりました。お願いします」
砂嵐のような雑音が数秒したかと思うと、受話器からは懐かしくも愛おしい声が響き始めた。
『・・・カミーユ? 覚えてる? よ』
「忘れるわけないさ」
声が震えていないだろうか。カミーユは突然身体に奔った緊張感にネクタイを緩めシャツのボタンを一つこじあけた。
『どう、元気?』
「―・・・すごく疲れてるんだ。いや、いつも通りかも。君の方は?」
『寂しいの。あなたに会いたかったんだ』
「僕もだ。ずっと君に会いたかった」
『本当に?』
「本当さ、ファが教えてくれたセイラ・マスという人の所に何度か電話をしたんだ」
『聞いたわ。でも、探しには来てくれなかったわね』
「ごめん、どうしても外せない用が―・・・いや、違う。そうじゃないんだ。きっと、地球が怖かったんだ」
カミーユは自分自身が地球に臆する理由をに話したことはない。
けれども彼女は云わずとも悟っているだろう。香港で出会ったフォウのことだ。彼女との僅かな間の出来事は大切な記憶だが、守りたかったものが零れ落ちた苦い記憶でもある。そして、あれは未完成の恋だったのだ。こんな、息の仕方すら忘れてしまいそうな、溺れてしまいそうなほどに行き場のない感情を与えてくれたのはだけだ。
『カミーユ・・・傍に行ってもいい?』
「君は、地球がいいんじゃないのかい?」
『違ったの。地球に行けば手に入ると思ってたわ、でも違った。私が本当に欲しいと思っていたのは、あなただったんだよ。カミーユ』
「、僕も君が好きだ。フォン・ブラウンへのチケットを送るよ。来てくれるかい?」
『いいのよ、私が―・・・』
「僕に贈らせてくれ」
『わかったわ』
じゃあまた、とどちらともなく切られた電話の後、カミーユは椅子から立ち上がりハンガーにぶら下がっていたジャケットを取った。疲れ切っていた気分はいつの間にか晴れはじめた。空虚な部屋にはいつの間にか朝らしい明るい光が満ちて、コーヒーの匂いもいつもより数倍いい。否、もう空虚ではないのだ。彼女がそばに来てくれる。カミーユはコーヒーを一杯飲むと、すぐさま部屋を後にした。
逸る気持ちを抑えきれない。
フォン・ブラウンの空港にシャトルが到着したとき、航空券とパスポートを握りしめながらはゲートへ駆けだしていた。どれだけ待ったのだろう。どれだけ、自分たちはあるだけの時を使って考えたのだろうか。戦争をしていた時は、嵐のように過ぎ去っていく日々に流されまいと必死で生きていたというのに。けれどもそれだけ長く胸の内で膨れあがった気持ちはもはやどこにも逃げようとはしなかった。受話器越しに響いた穏やかなあの声。あれが幻ではなく、本当にカミーユのものなのかと受話器を置いたあとに何度も考えた。何度も考えながら日々を過ごす中で、チケットが届いた時、はカミーユがもう少年ではなく、一人の男になっているということを理解したのだ。
「、ここだ!」
ゲートを潜り抜ければ人だかりから少し離れた場所で手を上げてくれる男がいる。人ごみをかき分け、は一瞬立ち尽くした。あぁ、やはり彼だ。取り繕うように言葉に変えなくとも、そこには以前のようにの魂を焦がしてやまない輝きがあった。精悍な顔つきになってずっと背も伸びた彼は、に腕を差し伸べる。もう迷うことも、躊躇する必要もなかった。カミーユのもとに駆けだし、その腕の中にきつく抱かれながらは強く瞳を閉じた。身体が震えだしそうだった。ここが人が行き交う場所だということもすっかり忘れて二人は長い空白を埋めるように抱き合った。
「ずっとこうしていたかったんだ」
「私も、ここに帰りたかった」
お互いに語りたい旅を抱えたままで、ただ目の前にある愛を貪りつくすことしかできない。けれども今語るべきなのは、ここに至るまでに旅路のことではないことを二人はもう知っている。だって、これから時間はいくらでもあるのだ。
「僕はここにいる、どこにも行かない」
カミーユは、いつかが囁いてくれた言葉を口にしながら、彼女を甘やかすように緩やかな髪を撫でる。
は彼にしか聞こえないほどささやかな声で、甘くまるで誘うような媚態を唇に乗せる。
「もっと抱いて、私はあなたのものよ、カミーユ。―・・・どこからどこまでも!」