「で、むらっときちゃったと・・・」
「もう、俺ってホントねーよ! なんだ俺! サイテーだよ!」
オリンピックに向けてのU-23の選考合宿の最中、自己嫌悪を露わに真田は髪をかきまわした。
久しく顔を合わせた親友とたまたま彼女の話になったところで、真田は近頃自身に纏いつくような靄についてを相談した。今までもしっかり異性として見てきたはずなのに、この間の案件でいきなり真田の中で彼女に対する意識に変革がもたらされたという顛末についてである。だいたい今まで何度キスやセックスを繰り返してきたか知れないと云うのに、今更のことである。本人たちでなんとかしてくれとばかりにテレビゲームに興じながら、聞く耳半分といった様子で親友である若菜が茶化すように笑った。
「いやー・・・まさか一馬が足フェチとは」
「そうじゃねぇっつーの」
剥きになろうにも気力が足りなかった。
「でも一馬、ちゃんだっけ? とにかく自分の彼女に『女だったんだ』は正直ねーよ」
「・・・反省してる」
「何なのマジで、お前一体どんな気持ちで付き合ってたわけ?」
「いや、フツーに、異性として・・・」
詰まったような返答に、若菜はゲームの電源を落としてまじまじと真田に向き合った。
「まぁ大変教科書通りだわな。お前んトコっていつ頃からだっけ? 高一? 高二だっけか?」
「多分、俺がナショナルの招集一回引っかからなかった時の後からだから・・・十七か八」
「引っかからなかったってU-16の時だろ? ってことは男女のお付き合い抜きにしても十六からの知り合いってこと? うわ、めんどくせー奴だなお前」
「悪かったな」
憮然とした表情は不機嫌そのものだが、声には力がなく、明らかに反省している。長い付き合いの友人として若菜は思う。不器用な真田なりに、何か思うところがあったのだろう。だがそれがベクトルの方向を間違えて言葉になってしまったのだと。
「お前さぁ、多分・・・高校の延長だったからそんな風に思っただけなんじゃねぇの?」
「え?」
「だってそうだろ? もう二十二だぜ?
その子が大学生なんだったらそろそろ就職なんだし、お前が突き放された気になってもおかしくねぇよ。働いてる俺たちとは違って社会に揉まれてねぇけど勉強してるだろうし、俺らよかよっぽど大人だろ」
「・・・そう、か」
若菜がくれた言葉たちをよく呑み込んだところで、真田が考え直してみればもうそんなになるのだ。
彼らはとうに車の免許も取っていたし、今は酒を飲んだりもしている。その気になれば親の許可なく結婚もできる。成人とはそういうものだった。高校を卒業後、サッカー選手として。ある意味において社会人として歩んできた真田は明確に大人になったという気持ちがしていなかった。あやふやだった気持ちがなぜだか急に収束していく。
「それにしても、十六の代表に選ばれなかった時、お前ホントに荒れてたよな。なんていうか、気持ち的に」
「・・・恥ずかしながら」
不意を突いたように発された若菜の言葉通り、あの頃の真田は抜き身の刃物のような状態だった。
真田と同世代のフォワード陣はずば抜けたセンスを持っている人間が多い。藤代、藤村、鳴海、天城、阿部。あの頃は戦線離脱をしていたが風祭もだ。阿部に関しては身体能力的な面ではもはや論外だろうと若菜は思うが、それも天に賦与された才というべきなのか。それ故にか、今までそれなりに上手くいっていたものが思うように回らなくなるのも時間の問題だった。まさに代表から落とされたのはそんな時だった。幼いころから技術はずば抜けているがメンタルが弱いと云われ続けたこともあってか、地域選抜には選ばれても代表にはということが真田には酷い痛手だったらしい。停滞したことに苛立っていたといってもいい。浮き沈みの激しい世界をまざまざと見せつけられたというべきか。いつかは見なければいけないものを、先に見せつけられたのはたまたま真田だった。いうなればそれだけだ。だが彼はそれだけで立ち止まるような人間ではなかった。現に真田はこの場所にいて、若菜たちと再び同じ場所に立っている。しかし、親友である若菜や郭ですら声をかけるに戸惑った時期に知り合いになったとは―・・・と、若菜は思わず尋ねていた。
「そんな時に会ったんだろ? そんな時に知り合って今まで仲良くやってるって、一体どんな子なわけ」
「どんな子―・・・って、。都内の理系の大学に通う女子大生。大学の専門は細胞の培養?
とかなんとか・・・難しくって俺もよくわかんねぇけど。趣味は読書と映画鑑賞で白黒とかの古い映画が好きでよく俺の家で見てる。特技は英語とか語学系。確かイギリスからの帰国子女だった。音楽はイギリスのロックが好きらしいけど、うるさいのから静かなのまで何でもあり。料理があんまり上手じゃない、というか下手くそ。そして鈍くさい」
真田がにまつわる情報を一通り並べたところで若菜を見ると、こちらは唖然としている。
「え、ごめん。俺の聞き間違いじゃなかったらそういうのって多分英士とか不破とかの彼女だよな?」
「はぁ? 人に聞いといてなんだその言い草は!」
「えー、だって一馬の彼女が理系とか英語とか想像できねぇし。細胞の培養とか明らか不破方面だろ。そしてインテリっつったら英士」
「まぁ確かに否定できない・・・ってお前俺になんつーことを!」
「でも、そういうこと彼女に言っちゃったんだろ? おあいこじゃん」
今度は真田が呆然とする番である。
再び自己嫌悪―・・・サッカー以外のちょっとした瞬間になるたびの無限ループ決定である。しかしながら、二十二になったということが意外にも真田の心に重くのしかかった。これから自分が、とどうなりたいのかということを真剣に考え始めなければならないようだった。元を辿れば若菜の言葉通り、高校の延長線上の感覚が今更に真田のことを戸惑わせたのだ。それは、仲の良かった親友三人がまさにばらばらのチームでプレイするに至ったことや、代表に選出されてもなかなか同じピッチでプレイできないこと。
そして、自分が代表に選ばれることがなかった十六の日を急に真田に思い起こさせた。
あの時ほど、真田を弱らせたことはなかった。
常に世代代表に名を連ねていた真田にとって、激しい苦痛を伴った出来事だった。期待から反れた手酷い裏切りだったといってもいい。怪我で戦線離脱を余儀なくされたわけでも、手を抜いたわけでもないはずだった。瞬間心によぎる。な ん で ―・・・。
出かかった言葉は吐き出される場所を知らず、喉の奥で引っかかったままだ。お前など使い物にならないのだと云われた方がどんなによかったか知れない。見知った者や親友たちが名前を呼ばれていく中で、ここではないどこかに置き去りにされた。見捨てられたのだ。そんな気分だった。浮かない顔どころか、この世の終わりのような顔をして家に戻ってきた真田を家族は出迎えてくれたが、電話で根回しのいい誰かさんからもう事情を聞いていたのか何も言うことはなかった。
勝気な姉ですら何も言うことはなく、ただ自分のことのように落胆していて悲痛な面持ちをしていたのだけはやけに鮮明に覚えている。こんな腫れものを扱うように振舞われるくらいならばいっそ残念会と称して茶化された方がどんなによかったか。真田家は変なところで気づかいが激しいのだ。けれども真田はサッカーの練習をやめようとはしなかった。クラブも今まで通りに通い、選抜の練習にも励んだ。
ただ、いつもよりも学校に行く日数が増えてまともに授業を受けるようになった。そんな時だ。真田の記憶が正しければあれは秋の日だった。職員室にサッカー絡みで授業に出席できない日を伝えに行き、教室に荷物を取りに戻りかける。その道すがら、透明な滴が窓の外を濡らしていくのがわかり、はっとして外を見た。雨が降り出していた。天気予報が嘘をつき、晴れから一転外はバケツをひっくり返したようなという表現がまさにしっくりと当てはまる豪雨だった。まるで台風でも来ているかのような。真田が教室に戻った時、たまたま残っていたのかが教室の窓を一つ一つ閉めながら窓の外を面白そうに眺めているのが目に入った。
「なんかあんのか?」
あまりに熱心な視線に、思わず口をついて出た言葉だった。の方は驚いたように目を見開くとやや間があってから首を振った。
「ううん、ただちょっと・・・ロンドンを思い出して。霧か雨って感じだったから」
「あっち、そんなに頻繁に降んのか」
「こんなに凄いのはないけど、そこそこね」
とぼけたような声音だが、心地よい。
真田はが、夏前にひょっこり姿を見せた帰国子女だと知っていても話しかけたことは一度もなかった。高校の活動はどちらかというと部活単位で、クラスでの活動は非常に淡白である。それ故にか、真田にとっては中学よりも幾分か過ごしやすい場所だといえた。そもそも真田は、中学の時から自身がそれほど印象が良くないことを自負していた。
自分の付き合いの悪さもそうだし、何より校内でのアピールポイントが薄い。皮肉屋であるし、割と頑固だ。告白されたことは何度かあるが、現実味がない上にサッカーとの天秤にかけると後者が圧倒的な勝利を収めて引き受けたことは一度もない。中学の中での噂を聞きつけてか、女子の中でもそれほど印象は良くないらしく、用があって話しかけてくる者の殆どが怖気づいたような雰囲気がある。そういうとき、目つきの悪さは生まれつきだと云いたくなる。
それにしたって、並べるといいところがあまりにもなさすぎる!と頭を抱えたくなったが今更気にするつもりもなかった。だからつまり、の反応は意外すぎたのだ。無理に会話を繋ぐ必要はなかったはずだが、真田は不思議とともう少し話がしたいと思っていた。イギリスから来た―・・・イギリスというと、サッカー馬鹿の彼に思いつくものは一つだった。
「なぁ、プレミアリーグって見たことあるか?」
「え。あぁ、サッカー? あるにはあるけど、ごめん、私サポーターじゃないし。サッカーよりもテニスが好きだったから」
「勿体ねぇな」
「って云われてもねぇ。真田くんはサッカーが好きなの?」
「あぁ、やってる。学校ではやらないけど、外のクラブチームで」
「上手なの?」
帰国子女らしい、真っすぐな問いかけだ。以前なら自信を持って云えたであろう言葉が、喉に引っかかって出てこなかった。
「いや、そうでもねーけど・・・」
は机から身を乗り出し真田に顔をぐっと近づけた。まるでキスでもしそうな距離感だが、真田は慌てて身を引いた。
その拍子に彼女は行儀悪くも机に腰を下ろしながら、核心を突いてくる。
「ふぅん。もしかして、スランプ?」
「何を根拠に・・・」
言い淀んだ真田の黒髪の下、小さくしわが刻まれた額を指先で悪戯に押しながら彼女は笑う。
「I can't get no satisfactionって目してる」
発音が、あまりにも淀みなく綺麗だった。そちらに気を取られすぎて真田は彼女が何を言ったのかわからず、目を点にした。
「は?」
「現状に満足してないんでしょ。授業受けてても皆と違ってどこか上の空だし・・・ああ、私の席って皆のことがよく見えるのね。うん、まぁ気になって・・・」
余計なこと言ってごめんね。とは机から降りて鞄を取る。外はまだ雨だった。
「ちょっ、待てよ」
真田は慌てての腕をつかんだ。細い腕だ。気まずい沈黙。果たして何から話すべきか、真田が悩み始めたところでは振り返った。
「ね、私この辺よく知らないの。もし真田くんさえよければ、案内してくれない?」
あまりに自然な誘い文句に真田は思わず呆気にとられながらも破顔し、額に手を宛てて頷いた。その潔さ、そしてそれを灯す淀みのない態度に真田は己の胸の内側が熱くなるのを感じていた。という人間に惹かれ始めていることを自覚した。その感情は愛と云うよりもどこか憧憬にも似て、真田の心の淵を仄温かに照らしはじめた。
その日は雨、幸運にか偶然にか練習はなかった。
「え、就職活動? しないけど?」
は学業の、真田は合宿を終えた後の一週間のオフの、合間を縫ってのデートだった。恵比寿にあるダイニングバーで、の口から飛び出した言葉に、真田は目を剥いた。
「は? え? だって結人の話じゃ三年って普通は就活すんだろ?」
「ん・・・結人くんが言ってるそれは文系の話だね」
「そう、なのか」
「理系は大抵大学院に行くから、見積もってもあと二年はかかるかなぁ・・・」
一瞬心によぎった結婚の二文字に真田は内心肩を落とすが、真田の落胆など知る由もなく。は運ばれてきた料理を貪りながら空腹を満たしている。こうして食事をしている姿を見るとまるっきり高校の頃と変わらないが、時折はっとするほど女らしい仕草をする。緩やかに巻かれた髪を耳にかけたり、落ち着いたアートの施された爪やヒールの靴、高校のころとはまるきり違うブラウスやカラフルなスカートを見るにつけても、それらを着こなす落ち着きや余裕が垣間見える。駅で待ち合わせた時もそうだった。彼女は随分と綺麗になった。贔屓目に見ていることを差し引いても、真田がそう認識するには十分すぎる要素だった。
は飲みかけのグラスに手を伸ばしたところで、真田の視線に気がついたのか手を止めた。
「ねぇ、なんか私変なこと言った?」
「あ、いや・・・」
「この間からなんか変だよ」
「変って?」
「“女だったんだな”とか言ったり、足触ったり、人のこといきなりジロジロ見たり」
「それじゃまるっきり俺が変態みたいだろ」
「事実を言っただけだよ」
そう言ってグラスを煽る。酒の力が手伝ってか、の口からはするすると言葉が溢れだす。
「ねぇ、何か特別不満があるんだったら言って、私・・・直すよ」
「別に何も不満はねぇよ。むしろ俺の気持ちっつーか覚悟の問題」
「覚悟?」
「後で話す」
真田の発言の意図が分からず、は控えめに首を傾げ、次に頷いた。いつの間にか平らげたのか、の前にあった殆どの料理の皿は空になっていた。食事もそこそこに店を出て、少し酔いかけたと二人で恵比寿の街を散策しながら、ぽつりぽつりと他愛もない話をする。代官山から出て電車に乗れば真田の実家のある野上ヶ丘はすぐだったが、二人はただ当てもなく歩いた。殆どの店のシャッターは閉まり、街が眠りだしているのに二人の足音だけが辺りにやけに鋭く響いた。
真田がふと傍らで歩くを見、その掌の小ささを確かめるように握りなおす。指先はほっそりとして真田の掌に添えるように触れる。
「なぁ、これからどうすんだ?」
「これからって?」
「色々あるだろ、例えば研究続けるとか、就職するとか」
「そうだねぇ、多分。院に行っても続けると思う。でも未来のことはわからないわ」
が手持無沙汰に小石を蹴った拍子に、ヒールの靴が脱げかかり路上に放り出される。
呆れたように真田がその靴を拾う。この間とはまた別の靴のようだが、やはり細身で壊れてしまいそうなほどに小さい。が受け取ろうとした靴をひょいと掲げて見せて、彼は悪戯っぽく笑った。
「返して一馬、自分で履くから・・・」
「いいから、座ってろ」
をガードレールに寄りかかるように座らせ、真田は膝をつくようにして身体を屈めた。
手にした小さな靴に、足が収まってしまうことがやはり不思議でならないのか、真田はほっそりとしたの脚に優しく触れて、靴を履かせる。も屈んで真田の肩を掴みながら、靴を履かせてくれる様子を窺う。王子というには少しぎこちない佇まいがいかにも彼らしく、は無意識に口元を綻ばせた。
「なんかお姫様になった気分」
「確かに、映画みたいだな」
真田がを見上げて笑みをこぼす。一呼吸置くような快い沈黙の中で真田がの耳に零れた髪をかける。がくすぐったそうに笑い声を漏らしながら、大人しく応じた。
「なぁ、」
「なぁに?」
「さえよかったら、その・・・結婚しないか?」
こぼれんばかりに目を開き、は戸惑ったように上ずった声を上げた。
「え、っと、それはつまり、」
「俺はサッカーを続けてくつもりでいる。多分、自分が納得いくまで続けると思う。この先ずっと、多分死ぬまで。だから結婚しても多分今までどおりだ。別にについてこいとかそういうこと言うつもりもねぇし、無理強いするつもりもねぇから。言っとくけど弱腰で言ってるわけじゃない。ただ俺のやりたいことのために、お前のやりたいことを犠牲にするのは間違ってるから、それだけは最初に言っておく」
いつになく饒舌な真田を黙らせるようには肩を掴んでいた手を緩めて腕を回す。
拗ねるような表情で、ぽつり、ぽつりと呟いた。
「私、料理出来ないよ」
「練習すりゃ上手くなるだろ」
「片づけは?」
「俺がする」
「サッカーに興味ないよ」
「だったら俺だけ見てろ」
「私なんかでいいの?」
「お前がいいんだよ」
その一言に、は泣き出しそうなほどに目を細めて涙を堪えるような声で囁く。
「私・・・一馬がついて来いって言うなら、どこにでもついて行くよ。海外に行った時の通訳くらいにしか役に立てないけど、それでもいいなら一馬は私のこと好きにしていいんだよ」
「じゃあ、俺と結婚してくれ」
「喜んで」