悲鳴が聞こえた。
静寂を引き裂いて、ついで自らの喉すらも裂いてしまうのではないかという悲鳴だった。
ベットから転げ落ちそうになるほど驚いた風祭は勢いよく身を起してカーテンに包まれた周囲を見渡したが、何も見えなかった。
消灯をとうに終えた病室に、医師たちが複数人現れたのかドイツ語で早口に会話が交わされていく。
風祭も渡独してそろそろ一年が経つため簡単な言葉はそれなりにわかるし、日常会話は少しずつ習得できているが早口の会話にはまだ追いつけない。
その上医学用語などの専門用語などを交えて交わされる会話など到底わかるわけがなく、ただ息を殺すようにカーテン越しの様子を窺いながら過ごすしかなかった。
だが、隣のベッドの患者が細い声で何かを訴えていたようだが殆どが黙殺され、ただ「大丈夫、よくなるわ」と浴びせられている。
そのまま、何か薬を処方されたのだろうか。医師たちが病室から引き揚げてしっかりと扉を閉める気配が伝わってきた。
また、元の静寂を取り戻す頃に、風祭の目はすっかり冴えてしまい、ベッドに横たわりながら天井と隣のベッドを交互に見やった。
重い病気なのだろうか。検査入院の自分と並べられているから、感染などの恐れのあるものではないことはわかる。
天井を再び見つめなおしたとき、ゆっくり息をする音と痛みを堪えるような呻き声が風祭の耳に飛び込んできた。
それがあまりにも痛ましく、異国だということをすっかり失念し、思わず日本語が口から飛び出していた。
「あ、あの・・・大丈夫ですか?」
「Is there anybody here? ん・・・きみ、日本人?」
若い女の声だった。日本語を紡ぐ音があまりにも自然で思わず嬉しくなった風祭は尋ねていた。
「あなたも日本から?」
「えぇと・・・半分だけ。あぁ違う、なんだっけ。日本からは来てない。でも半分日本人」
カーテンを隔てた遠くから、律儀な答えが返ってくる。しかしながらその声はあまりにも覇気がなく、虚脱感にまみれていた。
「ごめんね、夜中に五月蠅くして・・・眠れなくさせて」
「わかります。僕も、そうでした。怪我した日の夢ばかり見て」
「今はよく眠れる?」
「ええ、まぁ」
「いいね。私全然ダメ・・・」
呟いた声は細く、泣いているようにも聞こえた。
「ね、あなた名前なんていうの?」
「風祭将。ショウ・カザマツリ」
「ショー? 素敵な名前ね。私、というの」
彼女も例にもれず、風祭の名前を褒めた。顔が見えていないと云うのに彼は照れ臭そうに髪を掻いて応じる。
「さん・・・って、日本語の名前ですか?」
「そうなのかな? グランマの名前を貰ったの。会ったことないけどね」
「そう・・・なん、ですか」
「ショーが気にすることじゃないわ。彼女は私が生まれるよりも前にもう亡くなってしまっているもの」
一瞬笑い声を上げたは、それに呼応して身体が痛むのかやや呻いた。
風祭は元気のない彼女を慰めたいと思ったが、「頑張れ」という言葉が上手く喉から出てこなかった。出かかった台詞を押しとどめたものがある。
重荷になりはしないか。どこからか聞こえる声が、心のどこかで深く突き刺さっていた。
なるべく感情を刺激しないように声を潜めつつ、二人は話をした。主に自分たちのことだ。
風祭はサッカーのことを話、友人たちとのことや、仲間のこと、そして怪我に至った話をした。今リハビリ中だとも。
「ショーはサッカーがすきなのね」
「うん。好きなことをするためなら、何を捨ててもいいって思ってた。でも違ったんだ・・・」
「何が?」
「大事なものがたくさんあって、その全部に支えられて僕は生きてるんだって、怪我をして初めてわかったんだ」
は自分の話を話すことはなかったが、温かく相槌を打って風祭の話に耳を傾け続けた。そうして、不意にやってきた眠気に瞼を下ろしかけたころ、が呟いた。
「ショー、朝起きても・・・私のベッドのカーテンの中を開けてはだめよ」
「なんでですか?」
「姿を見せたくないの」
怪我をしている姿や、弱っている姿を見せたくないと思うのは恐らく女性として当たり前のことなのかもしれない。
風祭は眠りかけている声で、ゆっくりと誓った。
「・・・わかりました。約束します」
検査入院は一日だけだったから、結果を聞いてリハビリの内容をどうするかを医師と相談するだけだった。
リハビリは少し運動量を増やしても良いということになって、また一ヶ月後の検診で経過をみることになった。
ハインツ・ミューラーという医師は老練ながら優秀な医師である。国内に留まらず他国からも彼を頼ってやってくる者もいるほどだ。
風祭も例外ではなく周囲から彼の活躍を聞きつけて渡独してきた一人である。国内外問わず誰しもに門戸を開いているミューラー医師は風祭のことも快く引き受けてくれた。
ベッドが隣だった彼女もそうなのだろうか。病室に荷物を取りに戻る傍ら、閉ざされたカーテンを見るが約束通り中に入ることはなかった。
だが、人の気配を察したのか、内側から細い問いかけが響いた。
「Is there anybody here?」
「僕です。将です。さん」
「ああ、ショーだったのね。結果はどうだった?」
「もう少ししたら、走れるみたいです」
「よかったね。私はたぶん、あと半年先までいるみたい」
「・・・そんなに、かかるんですか?」
「うん、治療してもといた仕事に復帰するにはもっとかかるみたい」
やはり風祭には「頑張って」という言葉が出てこなかった。
ぼんやりとかすんでいくような声を出すに縋るように風祭はカーテンを握りしめた。鼻の奥がつんとした。
きっと、消毒液の匂いだ。風祭は自分にそう言い聞かせて、喉に詰まった言葉を取り出した。
「先生が―・・・」
「ん?」
「先生たちが、きっとなんとかしてくれます。それに僕も、また一ヶ月後に検診があるんです。また来てもいいですか?」
カーテンの向こう側で、が微笑したように感じる。
風祭がその感覚を正しかったと感じるのは、小さな囁きのような笑い声とそれに伴う優しい返事だった。
「うん、話し相手になってくれると嬉しいな」
それから数か月が経ったが、相変わらずカーテンは閉ざされたままだった。
病室が同じになるということは一、二回あった程度だったが、が移動していることはなかったのでカーテン越しに会話をした。
なぜ彼女がここにいるのかということを聞けるわけもなく、ただ断片的に与えられる会話の情報を組み立てて勝手に想像するしかない。
「ショーは学生なのね」
「一応。でも現地の授業に追いつくのが大変で・・・」
「私、まともに学校行った記憶とかあまりないからなぁ・・・アドバイスできなくてごめんね」
ひとえに治療のための渡独とはいっても風祭の身分は学生である。
同じくドイツで暮らしている天城や彼の妹の助けもあって、ドイツ語はある程度理解することができているが学校の授業まではなかなか手が届かない。
日本人学校にも通い続ける手はあったが現地校との併用でなんとか授業をこなしている。
「えっと、さんは・・・何をしてる人なんですか?」
「あぁそっか言ってなかったっけ?」
「あ、はい。聞いてないです」
「私、スタントマンやってるの。映画のスタント、」
「それって、アクション映画とかの?」
「それもあるね」
風祭の知識の中では、なかなか訊かないカテゴライズの職業である。
映画のスタントマンといえば、男であるという認識が強い。そのために、こんな細い声をしている人がそうやって活躍していることが彼にはとても意外だった。
というより、自分のことを語りたがらないのかと思っていたから彼女があっさりと話をしてくれたことに彼は驚きを隠せないでいた。
それを女がスタントをしていることへの驚きととったのか、は少し笑って話してくれる。
「アクション女優とかはそれなりにいるけど、女性全員がスタントなしで撮影っていうのはすごく難しいからね。最近はCGが多いけど、それでもまだリアルに拘って撮影してくれる監督とかがいるから、私みたいなのが呼ばれるってわけなの」
「それで怪我を?」
「うん、そう。海に飛び込む時に波に飲まれてね、誰かが手放したサーフボードと接触しちゃって死にかけたの」
「でも、復帰するんですか?」
「簡単に誰もが出来ることじゃないもの。私に胸を張らせてくれた仕事だから、どんなことがあっても続けたい」
「さん・・・」
「ショーが教えてくれたんだよ。“大事なものがたくさんあって、その全部に支えられて僕は生きてるんだ”って言ってたでしょう。私にとって一つの映画はサッカーしてるショーのようなものなの。私自身が映画の中の欠かすことのできない一部だって思ったら凄く救われたわ」
カーテンの中から差し出された手は白く女優の代わりをしているだけあって細く美しかったが、所々に蚯蚓腫れのような傷や肉刺が出来ていた。
握手をしようと伸ばされたその手を掴むと、驚くほどの力で堅く握られる。
風のいたずらかカーテンが舞う。そしてその手の先、カーテンの隙間から見えた優しい顔が風祭に微笑んだ。
「ありがとう、ショー」
その次の定期検診で、風祭が病院を訪れた時。そこにの気配はなかった。
今まで使っていた病室のベッドも、今や新しい患者が使用しているのか閉ざされていたカーテンは開かれていた。
この間の再会の時に彼女はもう最後の会話だと知っていたのだろうか。別れを告げようとしての握手だったのだろうか。風祭にの意図はわからない。
古くからの友人が忽然と姿を消してしまったかのような感覚になり、検査中も少しぼんやりとしていた。
検診結果の通達が終わる頃、風祭にミューラー医師は預かりものだと言って思い出したようにスーツのポケットから折りたたまれた手紙を差し出してくれた。
風祭はそれを受け取りながら、差出人を確かめたが名前はなかった。だ。なぜだかそんな直感があった。
兄である功は風祭の様子を不思議がったが、病院で出会った友達だと言えば納得したように何も尋ねてくることはなかった。
結果を聞き届け、その帰り際兄の運転してくれる車の助手席で彼は手紙の封を切った。
急いで開ければ丁寧に折りたたまれた綺麗な便箋に英語で文字が載っていた。
言われてみれば、彼女は生粋の日本人というわけではなく、日本語で会話ができるという程度だと話していたことを思い出した。
兄に通訳を頼もうかと手紙を畳みかけた時、やはり自分の力で読むべきだと彼は手紙を見つめなおした。
良く見ると風祭にわかりやすいように簡単な単語を使ってくれている。
所々にある分からない単語は辞書を使わなければならないとは思ったが、風祭はしばらく、手紙から顔を上げることが出来ないでいた。
親愛なるショーへ
もしかしたら、ドイツ語の方が得意だったかもしれないと思いましたが、私がドイツ語が出来ないのでなるべく簡単な英語で手紙を書くことにしました。
でもどこまでが簡単なのかということがいまひとつ私にもよくわからないので、辞書を使って調べてください。
まず何も言わずにアメリカに帰ったことを許してください。
半年間の療養の筈だったのですが、思ったよりも早く治ったのでアメリカの病院で引き続きリハビリをすることになりました。
とにかく、私はとても元気です。もう海で怪我をした日の夢を見ることもなくなり、今再びトレーニングに励んでいます。
仕事を続けたら、死んでしまうかもしれないと思ったこともありましたが、映画とともに死ねると云うのならそれこそ本望だと気がつきました。
でもそれは好きなことと共に命を燃やし尽くしてやるという意味で、決して自殺願望などではないです。心配しないでね。
“神は、乗り越えられる人にしか試練を与えない”と言いますが、ショー、私は神よりあなたに救われました。
またいつかどこかで出会えることを祈っています。
P.S. できることなら、あなたのサッカーを見てから帰りたかった。
それからしばらくして、僕はさんを何度か見かけた。
大きなスクリーンの中で、字幕がドイツ語だったから話の内容が細部までは掴めなかったけれど、さんらしき横顔を見たと思う。いや、観たんだ。
ヒロインを演じた女優が、ビルから飛び降りるシーンの中で、画面を凝視していた僕には一瞬だけ視えた。
突破口となった窓ガラスを破り、トラックの上に落下するさんの横顔が、僕の網膜には確かにあの日の彼女に見えて、ただはっきりと刻みつけられたのだった。
それから他の映画にも出ていた。彼女は今度は、カーチェイスを楽しむ孤独なヴィランの身代わりだった。
落馬してしまう細身の騎手であったり、谷底へと落ちかける女優の身代わりもしていた。あるいは、見事な立ち回りもこなしていた。
どんなに肉体的に打ちのめされて、どんなに突き落とされようとも、彼女は多分孤高に立ち上がるのだろう。
あのほっそりとした身体に、誰よりも気高い魂を秘めながら・・・。
そして僕は―・・・。
「じゃ、着いたら一度店に寄ります。ええ、それじゃまた―・・・」
電話を切った兄がこちらを振り返るのを合図に、風祭は荷物に手をかけた。
完治に一年、リハビリに二年を有した月日は長くはなかったと言ったら嘘になる。周囲の成長に打ちのめされることもあった。
そのたびに、彼はあの手紙を思い出した。夢と共に命を燃やしつくす―・・・。その言葉を思い出すたび、サッカーへの情熱が何度でも甦る。
返事は書かなかった。否、書けなかったと云った方がいい。思えば彼女のファミリーネームすら知らなかったのだ。
だが、宛先のわからない相手は今もスクリーンの向こう側で命を燃やし続けている。
いつになるかはわからない。けれども、いつか、世界を相手に戦う夢を掴んだ時、追伸にあった彼女の言葉を叶えることができるだろうか。
「それじゃ、行こうか」
「うん」
荷物を肩に引っかけて、風祭は立ち上がった。
もう、右膝は痛まない。
20090927@原稿完成
ホイッスル!を愛する盟友たちに捧ぐ