いつもの食卓に家族三人で机を囲みながらの食事だった。
もう二十三になる私は、大学を卒業して社会人になろうという年頃だ。実に久しぶりの実家の空気だ。実家は都内にあるというのにどちらかといえば武蔵野の都下だから、独り暮らしをするした方が格段に交通の便が良いのだ。確かに実家にいた方が家賃も払わなくていいし、料理も母につくってもらえるし、何よりお金がたまることで利点が目白押しだが、朝のラッシュが苦手な私には背に腹は代えられなかった。正直なところ、家を出たいと思うほどにそれほど実家の状況に不満はなかったりするからこうして土日は家に戻って食事をしている。
そんな日曜日の食卓のバックグラウンドミュージックとなっているテレビ画面の音声を、傍らにあったリモコンでじょじょに落としながら、私は箸を休めて他愛もない話に興じる父と母の会話の隙間を狙った。
「ね、あのさ・・・」
「ん?」
「どうしたのちゃん?」
母の声に曖昧に頷きながら背筋を伸ばして顔を上げる。私の態度に、両親は何事かと首を傾げたようだった。
「あのさ、今週の日曜日って皆家にいるよね?」
「出かける用事もないし、多分いるわよ。ねぇ? パパ」
「うん。そうだな」
カレンダーを見れば予定がないのは知っていた。予定がない日を狙ってこうして話をしているのだから。
一番今、切り出しにくい一言を半ばやけくそで唇に乗せた。
「あのさ、私紹介したい人がいるんだよね」
「ネクタイした?」
「ああ」
「免許証持った?」
「ああ」
「シートベルトは?」
「してる」
「ちゃんと革靴履いてる?」
「履いてる」
「お願いだから何があっても、何を言われても落ち着いてね!」
「むしろ・・・俺、が落ち着いた方がいいと思う」
「これが落ち着いていられますか!」
待ち合わせ場所から既に、調子を狂わされっぱなしの私は平馬が運転してくれる車の助手席に収まりながら再三彼に打ち合わせの確認をした。これから結婚することを報告しに私の両親に会いに行くと云うのに、上ずった声で緊張を隠せない私とは裏腹に当事者の一人であるはずの平馬はあくまで平然としている。この落ち着きっぷりとマイペースさでもって生きてきたことが挫折を挫折とも思わない所以なのか。はたまた感情を上手くコントロールできることが、日本代表に選ばれたりするには相応しい逸材だと云えるのか。
就職活動の面接よりも無駄に緊張するのは心配事がただ一つはっきりとしているだからだ。
「なぁ・・・お前の親父さんってそんなに過保護?」
隣でハンドルを握る平馬の何気ない一言に私は思い切り顔を歪めてやった。
「だってぇ、結婚目前の報告なんだよ?
付き合ってたんだぁ、これから結婚しちゃうんだよの堂々宣言なんだよ!?父さんに反対されるの目に見えてるんだもん。あーこの間のクリスマスに家に帰らなかったの絶対問い詰められるよー!」
「だから落ち着けって。てかクリスマスって俺の誕生日・・・」
「日本の認識は恋人と過ごす日でも、うちは家族でイエズス様の誕生日を祝うのが恒例なの!」
「お前ん家、確か仏教徒だろ」
相変わらず彼は寝ぼけたような口調で予想の斜め上のことを言う。
平馬よ、私はあの父親の娘をして二十数年が過ぎているんだぞ。これが落ち着いていられるものか。
「・・・落ち着いてたらさっさと平馬を紹介してるわよ」
「あ、そう。てかどんな人?」
「どんな人って・・・山口くんとスガくんを足して三で割って渋沢さんを掛けたみたいな・・・」
言っている私すらも、よくわからなくなってきた。三で割って掛けるって一体どんな特徴だろうか。
平馬にわかりやすいように表現の努力はしたつもりだったが、却って混乱させたらしい。
「うわーやりにくそう・・・てか想像つかねーし」
「やりにくそうとか言わないで、私のお父さんなんだから」
そしてお願いだから、上手くことが運びますようにと願わずにはいられない。
一人っ子の宿命か、うちの家族はかなり私に対しては過保護だ。大して可愛い容姿でもない私だが、一人娘は可愛いのかとにかく過保護なのだ。高校生まで私立の女子校だったこともあってか、門限は大学までざらにあったし、無断外泊なんてもってのほか。でも前もって連絡しているならいい、という不思議な家だ。そのせいで全然男慣れしてなくて―慣れてる自分なんて想像がつかないけれど・・・―
気がついたら平馬と付き合っていた。否、気がついたらという言い方はおかしいのだけれど、私の小学校の頃の友達が平馬と同じエスパルスに所属していたのがきっかけで、その縁だった。
紹介なんて聞こえはいいけど、平馬と知り合ったのはその友達の結婚式の二次会だし、私は正直ただ単に遊ばれてるだけだと思っていた。正直サッカーにそれほど興味はないし、彼にしてみれば遊び歩いていそうな華やかな女子大生にしか見えなかったろう。(実際女友達とくらいしか遊び歩いていなかったが)そんなこんなで東京と静岡の遠距離恋愛。彼が遠征で近くに寄るたびにデートをしたりドライブしたりで、もともと男の子とのお付き合いがそんなに得意な方ではない私は彼のペースに乗っているのが心地よかった。
遠距離だったからかもしれないけれど、付き合っている中での不満なんて言うのも特にない。会いたいなと思った時に側にいられないのは少し辛かったが思えば一人の方が長かったような私だから、会えないということが何かを揺らがせるわけではなかった。寄りかかるような関係でなかったことが上手くいった秘訣か。だが恋愛は上手くいっても結婚生活はどうなのだろうか。
きっと父はそこを突いてくるのだろう。サッカー選手が何年働けるのか、私に苦労はないのか。たとえ父が私の結婚に反対したとして、それはきっと娘を手放したくないとかそんな陳腐な理由ではないのだ。長年娘をやってきた私にはわかる。
その厳しさは、私への愛情の裏返しなのだということを。
***
実家の前に車を止めて「」と書かれた表札を睨みつける。
こんなに家に帰りたくないと思ったのは、中学の時に赤点をとって帰ってきてしまった日以来だ。赤点と結婚をはかりにかけるのはどうかと思い、少し反省の意味を込めて平馬の顔を見上げた。相変わらず涼しげだ。この日のために普段滅多に着ないスーツを新調させ、揃えて革靴も買い、ぼさぼさな髪も整えさせた。全ては第一印象だ。清潔感第一である。正直自分でもどうかと思ったが、平馬のインタビュー記事が載っている雑誌などをそれとなくリビングの雑誌のラックの中に忍ばせてみたり、目のつくところにわざと置いてみたりで自分でも見えない部分でほんのり努力をしたつもりだった。いわばサブリミナル効果。果たして功を奏すのか。
「うまくいくと思う?」
「なるように、なる」
不安だ。もっと何か言うことがあるのではなかろうか。“お前と俺なら大丈夫だ”とか“リラックスしていこうぜ”とか。
けれどどれもが平馬が言うと寒い台詞だと気がついて、というかむしろこれは山口くんの台詞だと気がついて。私は余計な妄想を振り払おうと頭を抱えた。緊張といっこうにおさらばできない私を置いて、さっさと平馬はインターホンを押してしまう。私は慌てて彼の腕に縋りついた。
「嘘、私心の準備まだなんですけど!」
「だから、なるように、なる」
「平馬のばかぁ」
「馬鹿っていうやつが馬鹿なんだぞ」
私が落ち着きを取り戻せないでいるうちに、扉が開いて母がひょっこり顔を出した。
「あらちゃん、早いのね。まぁその人?」
日本代表の横山平馬をあっさり“その人?”と形容してしまう母はやはり私の母である。彼女の場合、醒めているのとは違うけれど、なんというか基本的にジャンル違い。ミーハーだけれども、興味があるのはあくまでアイドルグループであったりとか。いわばミーハーのジャンルが違うのだ。
「あ、うん。その―・・・」
「どうも、横山です。ご挨拶に伺いました」
なんとか始めなければと言いかかった私を遮るように絶妙なタイミングで平馬が自己紹介する。あ、あれ?
「どうも、の母です。こんな所でごめんなさいね。上がってください」
「お構いなく」
「ほらちゃん。ぼっとしてないであなたも」
「あ、うん・・・」
あ、あれ?
何か変だ。変過ぎる。違和感に打ち勝てずに立ち尽くす私に母がすかさず部屋に招く。しっかり靴を揃えてスリッパに履き替えている平馬を見つめて母が微笑みながらこっそり私に耳打ちする。
「なんか、いい人そうね」
「う、うん。すごくいい人よ」
私が褒められたわけでもないのに思わず口元を緩めて応えてしまう。第一関門の母への印象は上々だが、第二関門にしてラスボスがお待ちかねのようなのだ。客間に通されながら上座を見ると、昔のドラマの花嫁の父のように私の父も例にもれずむっつりと黙りこんだままだ。早くも一触即発の雰囲気。その場の空気を察しているのかいないのか、まるで相殺するように傍らの平馬が頭を下げた。
「はじめまして、横山といいます。この度は―・・・」
「まぁかけなさい、も」
いつもの寝ぼけたような口調はどこへやら、テレビのインタビューの時のようにしっかりとした口調で話し始める平馬に父はすぐに席を勧めた。あれ?意外と好感触?
思わず一縷の希望を抱き始めた時、爆弾は降ってきた。
「横山くんと言ったね。とはいつ頃から?」
「大体二年前から、結婚を前提にお付き合いさせてもらっています」
「あぁそうなの。今学生? それとも社会人?」
あまりにもあっさりとした返答に危うく目を丸くしそうになった。平馬も少し驚いたのか拍子抜けしたように間があった。
「一応社会人です」
「何のお仕事をしてるの?」
「サッカー選手です。Jリーガーやってます」
日本代表もね。ひっそり心で付け足しておく。
「うん、そうか」
父の発する何気ない一言が、心に緊張を孕ませる。
ハラハラしながら二人のやり取りを見つめ、少し考え込んだような父が眉間に皺を寄せるのだ。それからしばらくして、何か糸をほどくような慎重さで平馬に向かって畳みかけた。
「それで、のことをちゃんと養っていけるのかい?」
「そのつもりです」
平馬は普段の様子はからっきしだけれど、自分の好きなことであるサッカーには自信を持っている。
むしろ私よりもずっとサッカーとの付き合いが長い分、誰よりも身を置いている世界の辛さや厳しさを知っているはずだった。そして、その世界にいる喜びも。だから私は不安になる。秤にかけるなんてことは万に一つもないけれど、彼が私を選ぶ決め手がどこにあるのか、私には殆どわからないのだ。そんな不安を見透かしたように、父は選びぬいた言葉を平馬に向かって投げていく。
「うん・・・うちのは就職活動の時に他のこと違って長く働ける職を選んだんだ。それにまだ駆け出しだ。だから、働いてから数年で結婚してしまうようなそこいらの女子大生たちとは少し意識が違うと思う。君はの生き方を―・・・」
「違うのお父さん」
父の言葉に、耐えきれずに唇を開いてしまう。
「?」
これには平馬も、驚いたふうにこちらを見ている。何が違うのか。そう問いたげに。私は固く握ったままだった指先を解いて、机の下にあった平馬の手を掴んだ。
「平馬はわかってるわ、私のやりたいことを承知の上で結婚したいって言ってくれたの。私こそ、仕事したり車運転するくらいしかできないし、サッカー選手としての彼のことをきっと支えきれない。でもね、この人、料理できるとか支えられるからとかじゃなくて、私がいいんだって言ってくれたの。だから結婚したいの」
その結婚を、皆から祝福されたいの。話をまとめるのは得意ではないから、とにかくこれでもかと思ったことを詰め込んだ。まるで欲しいものを前にして駄々をこねている子供だが、今はそんなことを気にしていられなかった。一人っ子にわがままはつきものだ。私は幼いころはいわば、おねだりのプロだった。今は上手に欲しいものを欲しいとなかなか口にできないけれど。私が駄々をこねてしまえば、父は断りきれないだろう。私は父を見た。父も私を見つめ返す。生ぬるい沈黙の中で、誰もそれを破ることはなかった。ただ平馬が、私が咄嗟に掴んだ手を勇気づけるように、優しく握り返してくれていた。
しばらく考え抜いたように黙りこくった後、父は僅かに笑みを浮かべるように口元を引きあげて立ち上がった。
「二人の好きにしなさい」
少し小さくなったように感じる父の背は書斎へと遠ざかっていく。これでいいのだろうか。お互い同じことを思ったようで拍子抜けしてしまう傍ら、私と平馬は顔を見合わせた。
あまりにもあっさりとした幕引きだった。
***
かくして無事に、結婚の報告というのは終わったのだが、帰り際に車に乗り込む前に母に呼びとめられてこっそりと耳打ちされた。
父は私がわざと出しておいた雑誌にそれとなく目を通していたらしく、平馬の存在は随分前から気付いていたらしい。サブリミナル効果を狙った根回しが効いたのかはわからないけれども、少なくとも結果としては上々だったといえる。それにしても父の態度はあまりにもあっさりとしすぎていて私の方が拍子抜けだ。あんなに緊張していたのに、緊張感を返せと思う。ふと、同じことを平馬にも常々思っていることに気がついて、思わぬ共通点に気がついたらあっと口元に手をあてていた。
「どうした?」
対向車や後続車に何かあったのかと彼は助手席から道路の状況を窺ってくれる。
違う、そうじゃない。今日で二度目だ。
「ううん、なんでもない・・・。なんか呆気なかったね」
「・・・いや、俺マジで緊張したし」
「嘘、全然動じてなかったじゃない。『なるようになる』とか言ってたし」
「一応なるようには、なったろ」
「まぁね」
平馬の言う通り、とにかくなるようにはなった。しかもかなり良い方に。
帰りは私がハンドルを握りながら、高井戸から首都高を駆けていく。その傍らで、スーツのネクタイを緩めながら窓越しに平馬は疲れた吐息をこぼす。
「でも俺・・・あの時に惚れ直したかも」
ぽつりとこぼされた言葉に危うくブレーキを踏みそうになる。慌ててステアリングを持ちなおしてアクセルを踏みながら、運転に集中する。なんださっきの爆弾は。惚れなおしたって言った?
え? 誰に? ・・・って私にか!
「ちょっと待って! さっきの何事?!」
「お前反応すんの遅い」
「運転に集中してるの」
「ほら前、次左行かないと恵比寿着かないぞ」
ウィンカー出せ、と顎で指示する平馬を尻目に、私は文句を垂れながら車線変更する。
地元ではないというのに、周囲をよく見ている。インターで降りて一般道の緩やかな道に差し掛かったところで私は隣に問いかけた。
「ねぇ、あの時って?」
「お前の親父さんにさ、啖呵切った時。惚れなおした」
何でもないように口にする平馬の言葉たちは心の中に緩やかに溶け込んでいく。
「私もやっぱり、平馬のこと好きだなぁ」
そう言って笑いかければ、信号が赤になる。右足でブレーキをかけたところで、平馬が助手席から身を乗り出して、私の髪を利き手で撫でて耳にかける。相変わらず表情が乗らない顔は一体何を考えているのか読めない。でも、そこがいいのだ。恋愛に不慣れな私は彼を相手におっかなびっくり恋をしていく。彼を相手に、乗り換えの効かない恋を貫くのだ。毎日が腹の探り合い?未知との遭遇?とりあえず、まるでギャンブル。それが私にとっての結婚だ。私が悟りを開いているところで、平馬の指先が私の輪郭をなぞるように滑る。
それが合図だったのか。お互いに身を乗り出して私たちは車の中で短いキスを繰り返した。
後ろの後続車から派手なクラクションが鳴らされるまでは。
END
20090929@原稿完成
ラブ
コメ目指して粉砕しました!