※以下は山田詠美先生の作品「前夜祭」のオマージュです。













親愛なるオスカー・ワイルドは、かつてこんなことを言っていた。
「男と女の間に友情はあり得ない。情熱、敵意、崇拝、恋愛はある。しかし友情はない」と。しかして、それは真実であるのか。答えは是とも非とも捉えられる。少なくとも私は非だ。
ワイルド、私はあなたのデカダンスで放蕩な精神に友愛の念を抱いているけれど、こればかりは解せないわ。




 「よっ、元気にしてるか」なんて言いながら、三上亮が私のマンションを訪ねてきたのはまさに私の結婚前夜。私の好きなモエ・エ・シャンドンを片手に私の部屋にあがりこんできた。そして私もそれを喜んで招き入れる。普通の女の子なら、こんな晩はお父さま、お母様との別れに胸を痛めたり、緊張して震えたり、もしくはいずれ訪れる初夜のことを考えて胸を熱くするのだろうけど、私は違った。新居へと越す準備も整い、あとは式を行うのみの私にとって片づけておくべきものがあと一つだけあった。そしてそれに付き合ってくれる三上の態度はまるで、送別会のような雰囲気だと私は思った。別に、これからもう彼に二度と会えないわけでも別れなくてはいけないわけでもないのだけど、彼と区切られた別の世界に行くための儀式をするような特別な気持ちだった。
あれ、私、ちゃんと結婚するってわかってるじゃない、なんて我ながら感心しちゃう。


「信じらんねぇよなぁ。お前が結婚するなんてよ」

「私だって結婚くらいするわよ」


引越しの準備をとうに終えた部屋は酷く殺風景だった。仕舞っていたシャンパンのグラスを引っ張り出しながら、私は三上の言葉を聞いた。


「お前、結婚するってどういうことかわかってんのか?」

「夫を持つってことでしょ」

「夫を持つってのはな、お前も人の妻になるってことなんだぜ」

「やだ三上、そんなことも知らなかったの?」

「お前なー、本当にわかってんのか?」


困惑した様子だった三上は利き手で頭の後ろを掻いた。
彼が不思議に思うわけもわかる。私は今結婚するにはあまりにも華やかな青春時代を送ってきたものだから無理もない。私と三上はよく似ていた。所謂同級生だった。単にそれは教室で顔を会わせるって言うんじゃなく、高校の授業をサボって華やかな街をうろついている時に、なぜかよくばったり出くわしてしまうような感じ。お互いに照れ笑いを浮かべて、けれど無言ですれ違う。しかもすれ違いざまに、この前と香水が違うじゃんなんてしっかり嗅ぎ分けてくるような男友達なのだ。
私たちは恋する回数が、多分人よりちょっぴり多くて、様々な人たちと結びつく手管はそれなりに心得ていて、誰も憎むことはできないような決着の付け方も身につけている。それが私たちだった。そんな無責任な人間の片方が、ひとりの男を選んで、終わりのない関係に足を踏み入れようとしているんだから、三上が私に一言言ってやろうとする気もよくわかる。彼とは恋人のようなややこしい関係になったことはないが、何度か寝たことはある。それゆえに、何もかもを知りつくした親友のようになってしまったのだ。シャンパンの栓を慣れた手つきで引き抜きながら三上は問いかけてくる。


「新婚旅行、どこ行くんだ?」

「ハワイよ」

「げっ! なんだぞれ、よくそんな陳腐なところに行けるな」

「いいじゃない、定番でしょ」


三上は少し酔った様子で笑った。どこか、嘆いているような様子だった。私はそんな三上を慰めるように隣に腰を下ろしながら、グラスに入ったシャンパンに口をつける。


「その男ってどんな奴なんだ?」

「普通の人よ」

「金持ちか?」

「ううん」

「顔がいいのか?」

「ううん」

「いいとこのぼっちゃんか?」

「全然」

「セックスが最高か?」

「まぁまぁよ」


私は総ての問いかけに、笑顔で首を振った。三上は私の導きだす一つ一つの答えを総合して絶句している。そんな様子に私は声を上げて笑う。残念ながら、相手の男は目に見えた何が秀でているというわけではない。私は唯一思いついたといっていい彼の特徴を彼に聞かせることにした。


「私の心を可愛がるのが上手い人なのよ」


それは私が恋をした時に使う常套句だった。今まで何度も聞かされてきた彼は疑念に満ちた様子で眉根を寄せた。


「恋してるってことか? 今まで何べんもしてきただろ」

「そうだったかもね」


これから訪れることへの期待感に満ちている私に諭すように彼は言う。


「束縛されるんだぞ?」

「されたいの」

「旦那のためにメシつくるのか?」

「作りたいの」

「明け方まで俺とか他の男と飲んだくれたり、ついでにセックスしたりが出来ねぇんだぞ?」

「もうしたくないもの」

「ひとりで一日中ベッドで本を読んだり出来ねぇぞ?」

「構わないわ」


私の言葉に、三上は急に頭を捻って考察に耽っているようだった。


「お前・・・もしかして、催眠術でもかけられたか?」

「多分そうかも」


三上は肩を揺らしてこけた。本当だ。私の夫となる人は私に魔法をかけたのだ。
私はもう何もいらない。甘い情事も、激しい恋も。そして親愛なる男友達も。私は今までの数々の悪事や幸福なふしだらと手を切って、あの人の花嫁になるのだ。そのことを決心するまでは、私の中であんなにも重要だった遊びの数々。それが急に遠ざかったような気持ちすらする。そうだ。私は三上に代弁者になってもらっているのだ。私が重要だとみなしていた遊びの数々と、今日こそ別れを言わなければならないのだろう。私が今日彼とこうして飲んで話をしているのは、過去と現在に線を引くためなのだ。私は過去の素晴らしい思い出をここに置いていく。そしてそれが出来たなら私はもう振り返るものなんて必要ないのだ。


「だからってお前、一人の男のものになるなんて似合わねえぞ」

「私ね、自分を愛してるからあなたや他の男のことを愛せたと思うわ。今すごく誇りに思うの。でもね、これからはきちんと他人のことも愛したいのよ」

「どういうことだよ。俺だってお前のこと・・・」


三上はわかりかねている様子で言葉を濁す。私は彼の肩にそっと寄りかかりながら囁いた。


「ううん、そうじゃないのよ。私も三上のこと大好きよ。それってなんとなくわかることじゃない?あ、この人私のこと好きでいてくれてるんだって。自分のことだから余計敏感にね。そういう予感とか確信があったから恋をしてこれた。でも、今回は違うのよ。そういう予感とか確信をまったく突き抜けたところに行くのよ」

「それって、お前の旦那がお前のこと愛してるのかどうかわからないってことか?」

「そうそう! それそれ」


頷いた私に、三上はまたも眉根を寄せる。


「何だそれ、」

「彼、私のことを愛してくれていると思うわ。でも、絶対にこの女だ!って直感はまだないと思う。それは私もだけどね」

「めちゃくちゃ不安定じゃねぇか」

「そうよ? でも一人の男を相手にずっと、乗り換えの利かない恋をするって思えばギャンブルみたいで最高にどきどきしない?」


虚を突かれたような表情の三上はやがて頬を緩めると、急に笑い出す。いつものような、勝気な笑みが彼の表情に宿るのがわかり、私はどこか誇らしい気分になる。けれども同時に、彼を結婚式に呼ぶことが出来ないのが、酷く残念でならない。けれど彼は、わざわざ私のウェディングドレス姿を冷やかしに来るような男ではないだろう。いいじゃないか。私は自分に言い聞かせる。
この前夜祭の相手に、彼は最高に相応しい相手なのだから。三上は笑いを含みながら、けれどそれでいてどこか物寂しげな視線を私に投げてよこす。


「やっぱお前には敵わねぇよ」

「ね、乾杯して。これからの私の賭けの勝利を願って。それから嘘でもいいからおめでとうって、言ってくれない?」


私がねだれば、彼は仕方がないとでもいうように、床に置かれたシャンパンの瓶を手にした。
本当は、お祝いのつもりで買ってきてくれたんだって私は気が付いている。こういう律儀なところがいかにも彼らしく、私は内心ひそかにこみ上げるものがある。空になったグラスにたちまち注がれる酒を片手に持ちながら、私たちはグラスを合わせる。爽やかに響くグラスと甘くとろけそうなアルコールの香りと音に酔いしれながら、彼は口元を引き上げた。


「おめでとう、お前やっぱ、最高にいい女だな」


彼から贈られる言葉といつくしむように触れられる指先から生まれる仕草に、私は泣き出したくなる。
ああ、これで私はもう大丈夫。過去からもう送られたのだ。結婚前の前夜祭に必要なものは上等なシャンパンと、少しの感傷。笑いだしたくなるような過去。そして、誰もがうらやむ最高の男友達だ。