05. Le plus souvent
最初は自信を持ってやっていけると確信していたものの、現実はそれほど甘くはない。むしろ、甘かったならば日本の学生の殆どがバイリンガルである。日本での成績が優秀なだけで現地のハイスクールの授業に追いつけるかと云えばそうではない。形態が違う。考え方が違う。形式が違う。全てのことが、最初に有希を戸惑わせた。ハイスクールの授業と並行して行われるESLと呼ばれる特別設置のクラスに放り込まれ、徹底的に英語漬けの日々と、クラブチームのサッカーの練習を両立するのは容易なことではなかった。
から手渡され、いずれしっかりと読もうとしていた本は、結局開かれる機会を得ず、本棚の隅で眠ったままだ。
時折、その存在を誇張するように佇んでいるのがわかり、ぱらぱらと頁をめくってはみるものの、勉強などに忙しくなかなか本を読む気にならない。もともと、本を読む習慣の少ない有希としては、なかなか手をつけることができなかったのだ。いうなれば食わず嫌いだった。だが、本に挟まっている栞がわりの絵葉書に気がつき、有希はそれを手に取った。“Le
semeur”とタイトルがつけられた絵は、どうやらアメリカではない国のものらしい。しかしながら、絵葉書の発行場所はなぜだかボストン美術館となっている。有希が今滞在しているのも、奇しくもボストンであった。
「Le semeur? なんだろ、イタリア語かな」
滞在先のホストはアメリカ人の独身女性で大学の教員をしており、博識だ。名をマリア。有希よりも後に家に戻ってきた彼女に絵葉書のことを聞けば、それはイタリア語ではなくフランス語だという。ユキは絵を鑑賞しないのかと聞かれて頷き、もともとそういうのは友人の方が得意なのだと云えば、なるほどバランスがとれていると豪快に笑われた。
「ユキ、この絵には、面白い逸話があるのよ。きっとそれを知らないとお友達は悲しむと思うわ」
「え? どういうこと?」
「このLe semeurは、日本にもあるの。どこだったかな・・・少なくともトーキョーじゃない場所ね」
「・・・」
思わず、有希は口元に手をやった。何か零れおちてしまいそうだった。小さかった絵は誰かが駆けだしているのかと思っていたがそうではない。片手に持った何かをもう片方の手で振りまく様な豪胆さがある。それが何なのかは確信を得ないが、恐らく―・・・。
「日本にいるお友達は、思い出してほしかったんじゃないかしら。辛くなったり、挫けそうになった時に、この絵を見て日本にも繋がってるって」
有希は絵葉書を見つめながら、やがて弾かれたように顔を上げた。
「本物って、見られるの?」
「もちろん、ここはボストンよ。本物があるわ」
次の日曜に、連れて行ってもらう約束をして有希は日本のことを思った。こんなわかりにくいメッセージを送ってくる、大切な友人のことを思った。それぞれに夢を追いかけようと誓った人が、よもやもう二重にもメッセージを送ってこようとは、有希は未だ気がつかなかった。
06. Le semeur
そして有希は、その絵の前に初めて立った。
力強い筆致の絵だ。陰影は少なくとも荒々しく、そしてみずみずしい生命力に満ちている。目の前にある広大なキャンパスに描かれた絵は今しにも駆けだしてきそうな迫力でもって、聴衆に迫るようにひたすらに指先から小さな種をまいている。そう、種をまいている。有希にとっての興味はその一つに尽きた。種だ―・・・この人は、種をまいている!画風は豪胆。その一言に尽きるが内容はどこか繊細で、見る者の心を知らぬうちにとらえていく。ボストンにある美術館に展示されたその作品は、フランスの画家ミレーによって描かれたものだ。同じものが山梨にある。英語のパンフレットには、確かにそう書かれていた。
そして、この絵のタイトルは《種をまく人》であるとも。は二重の意味を込めたのだろうか。
謎解きのようなからくりに、してやられたと有希は呟いた。もしかして、と彼女はステイ先に置いてきた小説のことを思った。モロッコとタイトルが書かれた小説は、確か古い映画から書き起こした小説であるはずだ。きっとは、自分が読むような本を有希が好まないことを知っていた。だから、敢えてのチョイスだと思っていたのだ。だが、添えられた絵葉書には大いなる意味が込められていることがわかった今、本にも何かあるのではないかと有希は思わずにはいられなかった。
― 急に思いついたから・・・
確か、そんなことを言っていた。ひとしきり絵を見た後、ステイ先にとって返し、本を読むことにした。何のメッセージが添えられているというのだろう。有希は読み始めようとしたところで、タイトルの前にある空白であるはずの頁に
の筆跡で書かれた数行の言葉を見つけた。
ひとつはこうだ。《あなたの最大の長所は忍耐強いこと。あなたの最大の目標は完璧をめざすこと》―・・・それが誰の言葉であるのか、有希にはわからない。
小説を読めば答えは出るのかと、有希は練習や勉強の合間にむさぼるように真剣にモロッコを読んだ。自分の意思によって自由に生きる女性像を描いたそれは、誰もが凛として立ち
、前を見据えて生きろとあまりにも雄弁に語る。男女の恋愛については自分に置き換えるとなんだか背中がむず痒くなるが、迷った時に読めということなのか。はたまた内容は関係ないのか。ふと、読み終わってからの翻訳者のあとがきの後ろの最後の頁の余白にもう一行手書きで・・・―《Non,
je ne regrette rien》意味こそわからないけれども、今度こそ理解する。フランス語だ。
アメリカには、日本語で調査できる資料がないことに気がつき、有希はマリアからパソコンを借り、インターネットで調べてみることにした。
まずはモロッコ。古い映画で絞って検索すれば、すぐにも発見した。マレーネ・ディートリッヒの―・・・かつてが有希のことを喩えたその女優が出演している映画のものであるということがわかった。二つ目のフランス語、これは「いいえ、私は何も後悔しない」という意味があるらしい。フランスの有名なシャンソンの歌詞だと云う。そのシャンソンを歌っているのはエディット・ピアフ。
フランスで国民的な人気を誇る歌手は敢えて例えるならば―・・・フランス版美空ひばりといったところか。
名前すら初めて聞いたこの二人が、国籍すら違うのに一体どんな共通点があったというのか。謎は増えるばかりだ。
「あらユキ、また謎解き?」
「うん。調べれば調べるほど、よくわかんなくて。でもヒントは出さないで! 絶対に自分で見つけてやるんだから」
「それは残念」
今度は
サッカーの練習の傍ら、家に帰ってくればパソコンにかじりつき調べるという日々を送っていたためか、いかにも面白そうにマリアは問う。どうやら彼女の中で、《種をまく人》のくだりはお気に入りのようで、顔も見たことのない海の向こう側にいるのことをたいそう好んでいてくれた。友人を手放しで褒められると云うのは有希にとっても嬉しく、誇らしげな気持ちになる。だが、暗号のようなメッセージを送ってくれるのはいかがなものか。
息巻いて言ってみたものの、正直ヒントなしには辛いところがある。だが何があろうともくじけないのが小島有希である。再びパソコンと睨めっこを始め、ピアフについて書かれた頁の中に面白い記事が一つあった。マレーネ・ディートリッヒは歌手としても活躍しており、有希が読んだモロッコの劇中でもマレーネの役どころは酒場の歌手であった。歌手―・・・エディット・ピアフとの共通点である。そして、マレーネはエディットのLa
Vie en roseを持ち歌の一つとして加えたと云われている。そして二人は、年が十五ほども離れていながら生涯にわたる親友であったと。そうか、そういうメッセージだったのか―・・・。有希はマウスに触れる手に無意識のうちに力を込めた。
そうしないと、震えだしてしまいそうだった。
「ばかね、わかりにくいのよ」
有希はパソコンの画面の前で、泣きそうなほどに目に涙をためながら、のことを優しく罵った。
07. Bien chance
単身渡米してから、もう七年ほど経つ。数年前にアメリカで悲願のプロ入りを果たし、気付けば有希は二十四になっていた。もうそんなになるのかと、有希はひそかにこぼした。
に帰国の連絡をしようと思ったが、あのメッセージの解読に成功した後となってはなんとなく気恥ずかしく、連絡がとれないでいた。
ひとまず
留学という名目を終えて一時帰国した十九の春に、に会いに行こうと思ったものの、連絡をとろうと試みれば彼女は家を出た後だと云われてしまった。の家族は電話をかけてきた主が有希だと知ると、の近況をそれとなく教えてくれた。
大学に入学するのと同時期にNGO団体に入り、休みがあればどこかで活動をしているらしいことも。連絡先を教えてくれようとしてくれたが手紙を出すほどの用もなく、むしろ顔が見たかった有希としては、結局伝言を伝えてもらっただけに留まり、
本人とは満足に連絡がとれないままでその帰国を終えてしまった。有希にとって、の姿は十七の秋で時を止めたままだ。今頃どうしているのだろうか。考えてはみたものの結局想像は想像でしかなく、あの頃の有希は自分のすべきことに集中するほかなかったのだった。だが、二十四になった有希には、に手紙を書く理由と用ができた。相変わらず忙しく飛び回っているらしいとは耳にするものの、こればかりはどうしてもと家の人にその用を託すために有希は手紙を書いた。のように頭を悩ませるような暗号も思いつかず、書くこともそう慣れたものではないが、有希は有希らしくただ思うがままに・・・書いた。
08.Le message
、私はあなたに手紙や、メールをしたいのだけれど、一体どこに送ったらいいのかわかりません。
一応、日本のあなたの実家に送ることにしました。内容についてはきっとご両親から耳にしていることでしょう。日本の、あなたのご両親に聞いても毎回居場所が違うので、そちらに送ってもまともにあなたに届かないのではないかと思います。電話も、インターネットも繋がっていない場所にも、行ったこともあるそうですね。どうやって連絡しろって言うんですか、衛星電話ですか!
でも、明確なつながりがなくとも、あなたは同じ地平に生きていて同じ空を見上げているのだと思います。そう信じています。そして、どこかに種をまいているのだとも。それはアメリカかもしれない、イギリスかもしれない、イタリアやドイツ、フランス
、スペイン、インド、メキシコ、ロシア、オーストラリア、中国、韓国、エジプト・・・挙げればきりがありません。どこかにあなたはいるのでしょう。あなたは私に昔語ってくれたように、今もどこかで、日本語を教えながら旅をするように生きているんだと私は信じています。
海の外の国々で、日本語の響きを聞くたびに私は思うでしょう。あなたや、あなたと志を同じくする人たちが、一生懸命に種をまいて、そして花を咲かせようとしているのだと。でも、たまには日本に帰ってきて、種をまいていないあなたの姿を見せてくれませんか。
たまには羽を休めて、世界がいまどうなっているかよりも、あなたが離れていた間どんなふうに生きていたのか、聞かせてほしい。
私はもうじき、結婚します。式には姿を見せてほしいのですが・・・。
小島有希
09. Et...C'est la vie
会場は盛装した男女で賑わっていた。
披露宴のような大層な雰囲気はなく、有希らしく肉親や親しい知人をほんの少し呼んだしめやかなものだ。けれども海外生活の長い有希は神前式のものではなく、表参道の華やかなチャペルで挙げることを希望し、相手もそれを望んでくれた。中学時代の友人である上條や後輩の桜井がブライズメイドをしてくれることになり、地方に散り散りとなった現役サッカー選手の面々も式に合わせて上京してくれるらしく、粛々と式の段取りは整っていた。ただ一つ気がかりだったのは手紙を出しても返事の一つもよこさないのことだ。やはり、NGOでの活動が忙しいのだろうか。マリッジブルーになる以前に、有希の心を引っ張っているのはそれだけだった。
「らしくなくてよ、小島有希!」
「せやで、もっとしゃんとせんと。ダンナが逃げてまうで」
上條や藤村の言葉はもっともだった。人生の晴れ舞台の一つともいえる結婚式で浮かない顔をすること自体があり得ない。けれども気になるのだ。気になってどうしようもないのだ。なんだこれ。よ、お前は私の
恋人なのかよ。と柄にもなく内心呟きながら有希は苛立ったように手袋に包まれた指を握りしめた。控えめなノックの音と共に中学時代の友人である風祭がひょいと姿を現した。記憶が正しければ受付をしていた彼に、すかさず藤村が。
「受付は?」
「いや、小島さんに会いたいって人が来てて・・・水野くんにバトンタッチ」
「なんや、タツボンで務まるんか?」
「森長くんもいるし、多分大丈夫だよ」
そう言って藤村から有希へ視線をずらすと、彼は躊躇いがちに自分の背後を示す。
「小島さん、高校の時のお友達来てるんだけど・・・」
「え、誰?」
有希が返すと、風祭の背からひょっこりと小さな顔が覗いた。
一瞬それが誰だかわからず有希はしばし息をのむように沈黙したが、やがて驚いたように声を上げた。
「!」
急いで椅子から立ち上がろうとした有希を上條が慌てて制して、は颯爽とやってきてくれる。
黒のレースをあしらった上品なシャンパンゴールドのドレスがなんとも彼女らしく、有希は久しく顔を合わせる高校時代の友人を見、
彼女との間で止まっていた時間が確かに動き出すのを感じていた。有希の側に寄るやいなや、はほっとしたように零した。
「久しぶり有希。あぁ、よかった、間に合った」
「あんた、今までどこにいたの?!」
これではまるで母親の台詞だが、その場にいた全員が有希との二人を見、ややきょとんとした面持ちで佇んでいる。
有希は逸る気持ちをそのまま乗せるようにしてまくしたてた。飛葉中のどこかの誰かさん顔負けで。
「連絡しようとしたらいつも日本にいないし、電話もメールもつながんないし、どっかでよろしくやってたみたいだし!わけのわかんない餞別くれるし・・・。調べようと思ったら日本語じゃないし、相談しようと思った時にいないし!
地球のどっかで死んだんじゃないかって本気で心配したんだから!」
「でも、手紙くれたでしょ? だから飛んできたわ」
そういうところが、腹立たしいほどにカッコイイのだ。有希は俯きながら、嬉しさで飛び出してくる笑みを堪えながら、恥ずかしさを押し隠すようにして尋ねた。
「、あの小説・・・見たよ。書いてくれたメッセージも読んだ」
「うん、」
「あれって、私たちがどこにいても親友だって、そう言いたかったんでしょ?」
「ばかね、やっとわかったの?」
は笑った。
「わかるわけないでしょ! いつも回りくどいんだよ」
「ごめんごめん。でも有希は気づいてくれるって信じてた」
「なにそれ」
拗ねたように口ずさみながら、やがて弾かれたように笑いだす。女というのはそういうものだ。
今まではらはらとした様子で二人のやりとりを見守っていた面々は、今度は顔を見合せながら驚いたように佇んだままだ。そんな周囲の反応を尻目に「だってさぁ―・・・」と
飄々と口にしながら、は満面の笑みを浮かべている。
「だって、有希は私のマレーネだからさ」
今度は負けじと、有希も返す。
「二度目はないわよ、エディット」
