大きな屋敷の運転手をしている私の父は幼いころから私にいつも諭すようにして優しく囁いた。
自分に相応なものを見出して手にしなさいと、そして心が平穏であるように平凡な暮らしぶりの中にでも幸せは見つかるものだと。
決して高望みをしてはいけないのだと。父はずっと昔から、私の幼心に芽生えていた気持ちに気が付いていたのかもしれない。
知らないふりをしていながら、ずっと私を止めていたのだと今更ながらに思い知る。
確かに、私は幼い日に高望みな恋をしていた。でも実ったわけではない。私は一度だって、彼に振り向いてもらえることはなかったのだから。
それは無理もないことなのだろう。大きな屋敷の隣に併設された使用人たちの暮らす離れの庭から、私は小さな夜会があるたびに、ずっと輝く屋敷の中を見詰めていた。
そう、見つめているだけで、私は踏み出すことができなかったのだから、本当に今さらなことだわ。
彼がイギリスで暮らしていた幼いころは、二人で一緒に遊んだりもしたけれど、日本に戻ってきてお互い別々の環境に身を置くにつれて次第に関係は薄れていった。
でも、現実は夢を見ている私のような子供には厳しいもので、彼―跡部景吾という人は、もう婚約者を決めていて身内だけでお披露目の夜会をしていたのだ。
それでいいと父は言う。確かに、使用人の娘と主の息子が恋に落ちるなんてことは、ドラマの中でしかないことだわ。
でもそんな現実を知っていても、私は昔読んだ本の中のお姫様のように、いつか誰かに見出してもらえることを期待していた。
高望みの恋だとわかっていたのに、私はいつか振り向いてもらえるのではないかと信じてた。信じることがこれほど愚かだと思ったことはないほどにね。
たとえ片思いとはいっても、届かない場所へ彼が永遠に遠ざかるわけだから、私だってそれなりに傷つくもので、やっぱりそれなりに悲しんだ。
塞がれてしまった道を切り開く術を見つけられずにいた時に父は、私に留学を勧めてくれた。さっさと忘れてもっと広い場所を私に見せようとしてくれたのだろう。
うちは高い学費を払うような中学や高校に通っていたわけではないけれど赤貧というわけでもなかった。ごく普通の家庭だ。
だから留学の費用を払うのには何ら心配はいらないという。むしろ進学や就職口が見つからない場合を考えていた父は、屋敷で働くときのために海外の製菓学校で勉強したらいいのだと思っていたくらいだ。
けれども私はお屋敷で働くつもりはないから、純粋に勉強をしにあちらの学校へ進学することになった。お屋敷の旦那さまに父が少し相談をしたときに、彼は父の話を受けて手続きに力添えをしてくれた。
留学が決まったとき、私はこの場所を離れがたくて駄々を捏ねるようにして過ごしていたものだけど、ここにいるだけでは何も解決しないということを心のどこかで気づいていた。
そんなふうに、自分自身を納得させるようにして降り立ったパリは恋は苦しさだけではなく楽めるものだと私に教えてくれた。
そして、私の気持ちがいかに独りよがりで傲慢だったかということも。
相手の気持ちに期待をかけて、ただがむしゃらに思うドラマみたいな恋なんて、私にはもう必要なかった。
こんなに昔のことを引きずっているなんてあまりにもバカらしくて、自分でも笑ってしまうけれど、
あの屋敷の隣じゃない場所で身分の違いに身をひそめることなどなく、私がひとりでも安堵して暮らせる部屋で、私はやっと自分自身を見つけたのだと思った。
この気持ちは日本に帰っても濁ることはなさそうだし、薄れることもきっとないだろう。だって、鏡の前に立てば目の前には、楽しそうに微笑む私がいる。
あとはトランクを受け取って、パスポートにサインを貰い、あの無機質なゲートを潜れば私は日本に戻ってきたことになる。
そう、ついに戻ってきてしまった。たったそれだけのことなのに、不思議な感慨が心の淵をなみなみと揺らす。
またこの場所に戻ってくることができて、私はたぶん嬉しいのだろう。
この帰国を心待ちにしてくれていた父に電話をかけながら、小さく瞳を閉じる。重い音を立てて繋がった回線に懐かしい声が耳元で響く。
「あ、お父さん? 私・・・だけど、今空港についたの。駅には何時くらいにいったらいい?」
『お帰り。悪いんだが・・・その時間に旦那さまの会議が入っていてな・・・』
久しく沈み込んだ父の声に察しはついた、今にも黙り込んでしまいそうな父を激励するように囁いた。
「大丈夫よ。慣れてるから、そういえば・・・お屋敷のみんなは元気?」
『皆、お前に会いたがっていたよ』
「本当? 嬉しいな。お土産いっぱい買ったから、帰ったら開けてね」
『あぁ、楽しみにしてる。本当すまないな、迎えに行けなくて』
「いいの、仕事している方が大切よ。運転手がいないんじゃ、旦那さまも威厳が形無しでしょ?」
お仕事がんばって。と小さく続けながら電話を切ると、空港から帰る道のりを考えながら歩き出す。
どうせ駅までは電車で帰るつもりだったから、それほど大幅にプランが変更したわけではない。
それに、幼いころに亡くなったために母がいないうちの家庭では、父の仕事を最優先することがすでに暗黙の了解となっていた。
面倒を見てくれる人は、うちと同じようにお屋敷の隣の離れの合同宿舎みたいなところにいっぱいいたし、皆親切な人だったから父にとっては百人力だったことだろう。
そう、あそこのお屋敷に仕えている人たちはみんな仲が良い。それこそ家族みたいに。私の
短くなった髪に驚くだろうか、とか、お土産を気に入ってくれるだろうか、だとか。そんな他愛のないことを心の隅で想いながら、家路につく足取りは自分が予想していたよりも軽かった。
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20081012@原稿完成
続きます。