あいつは今頃、どうしているのだろうか。
他人から干渉されることは日常茶飯事だが、他人に干渉することなんて滅多にない俺にとって、唯一他意のない干渉を受けて心地よかった記憶がある。優しく手を繋いで、手入れの行き届いた芝生の上を一生懸命走った記憶や、慣れない手つきで一緒にケーキを食べた記憶なんてのが仄かに甘い影を落とす。さして重要なことなんて何一つないかのように思えるこの記憶の一部は、年を経るごとに厚塗りされていくようにして不思議な思いが降り積もっていく。何が重要なことなのかなんてことはさして気にする必要はないのだと、あの時の記憶は俺に鮮明に語りかけてくる。忘れてしまうことに怯える必要も、鮮明に記憶しようと努力する必要もないのだ。なぜなら、たとえそれを明確に思い出せなくとも存在し続けることに意味がある。その記憶とともに今も俺が生き続けているということが、きっとどんなに長い月日を過ごそうとも色褪せることはなく、俺の中で永遠に生き続けるということなのだ。それはつまり、俺が生き続けている限り、あいつのことを心のどこかで求め続けることも同然だった。あいつの―・・・のことを思い出そうとするのは名前を思い出すのと同じくらいするすると記憶が溢れ出る。邸の隣に併設された使用人用の宿舎で住み込みで働いていた父親と二人で暮らしていたこと、俺と年が近いというだけで俺と遊ばされたこと。一緒に庭を駆けた記憶、いたずらをした記憶、少し遠くまで出かけたせいで大人たちを困らせた記憶。どれもすぐに手にとれるほどに鮮明だ。年を経るごとに俺たちの距離は離れていき、顔を合わせて話すことも少なかった。俺の傍には常に誰かしら人間がいて、既に形ばかりの婚約者もいたために、人目を憚らずに語りかけられるほどの度胸は俺にはなかった。そしてあいつの傍には常に多忙という二文字があった。片親しかいない生活というのは俺には想像もできないが、俺が考えているほど甘くはないのだろう。そう、俺の中には一握りの甘さがあった。例え時間が掛ったとしても、あいつは離れていくことはなく、いつまでもここを離れないだろうという自信がどこかにあった。その自信が一体どこから来たものか今となっては疑わしいが、俺の中の根拠のない自身は見事に打ち砕かれた。使用人のうちのだれかが囁いた、高校を卒業すると同時にが留学するらしいという話からだった。独り立ちするためには必要なことかもしれないとも扉の外で話していたのを聞く。ただそれが、この場所を出ていずれは俺が知りもしない男と結婚して子供を産むということなのだと結びつくのに時間が掛った。俺はこんなにも枷に嵌められているというのに、は俺が考えているよりも自由だったのだ。そう、思えば手を引いてくれたのも、俺をこの場所から追い立てるようにして一緒に外に出てくれたのもいつだって年下のからだったのだ。
「坊ちゃま、お時間です」
恭しく扉を叩いて運転手が顔を覗かせる。時計を見上げれば確かに、父親の代理で出席する会議のために出かける時間には迫っていた。ソファから立ち上がると、運転手に咎める声を上げる。
「その坊ちゃまっての、やめろ。もうそんな年じゃねぇよ」
「失礼いたしました。どうもいけませんな、娘と遊んでいたのがついこの間のことのようで」
「そうか、」
ここの使用人たちは誰もが上手だ。上手だ、というよりも年の功というやつだろうか。媚び諂うやつというのは雇われても大抵すぐにいなくなる。俺と俺の親父、祖父と三代に渡って仕えてきたという大物もいるくらいだ、俺の親と上手くやってきて今に至る奴が曲者でないわけがない。使用人とは名ばかりで、俺たちは大きな家族のようなものだ。そのために住み込みの宿舎すらあるほどに、距離はほどよく保たれている。だがそれと同時に、今日はやたらと浮足立っているように感じるのは気のせいだろうか。今日は別に誰かの誕生日と被っているわけでもあるまいし、妙に邸内の空気が期待感に満ちている。理由を尋ねることに興味はなかったので、娘という単語から思わずのことを訊いてみる。
「なぁ、はどうしてる?」
「今日、留学先から帰ってくる予定なんですよ」
「迎えに行かなくていいのか?」
「あいつももう子供じゃありませんよ。若旦那様。私の仕事が最優先だということを、昔からよく心得ています」
「・・・そうか」
運転手に誘われて車内に潜り込めば、俺はもう既に手にした会議の内容よりも、その後の事までも同時進行で考え始めている。もう何の接点もないように思える俺達が、再び向き合うにはどうしたらいいのか。自由なあいつを、捕まえるにはどうしたらいいのか。
「けど、悪かったな」
「いえ。仕事ですから、私はこの仕事に誇りを持っているので、謝られては困ります」
そうやって人の良さそうな笑みを浮かべながら、運転手はいつものように運転席に腰を下ろし邸から会社までの道のりを走り始める。俺は自分の中の騒がしい気持ちに蓋をしながら、ぼんやりと窓の外を眺め遣る。芝生の引かれた広い庭が、朝日に輝いている。まるで、彼女が戻ってくることを心待ちにしているように。
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20090504@原稿完成