食卓にはいつも、和やかな家族の姿があった。
この家族の姿だけは、どこに行っても揺るがないのだと、不安定な要素など万に一つもないのだと、幼い頃は信じてやまなかった。 けれども幼い少年が、年を重ねていくごとに、信頼だけでは覆い隠せない疑念が薄い皮膜を突き破るようにして生まれ、やがては―・・・


「ねぇ、父さん。母さん・・・僕って、何人なの?」

「日本人なの?」

「韓国人なの?」

「ねぇ・・・」


薄れゆく意識の水底で、不安定な声が響く。少年はただ自分が何者なのか、それだけを確かめたかった。 少年の目の前に佇む二つの影が、はたとしたように息を止め、困惑して目配せをするのを、彼はひどく不思議がった。答えは一つではないのか。
閉口する両親を前にして、何と声をかけるべきなのか手をこまねくように、少年は俯いた。そしてどこか客観的に、冷静に、そこで話をしているのは幼い自分なのだと気付いた時、男の意識は急に浮き上がった。 閉じていた重い瞼を開いて窓の外を見れば、カーテンの隙間から広がる空は鈍く濁っている。雨が降っていると気がつくまでそう時間はかからない。


「またあの夢、か・・・」


夢というよりも、あれは古い記憶だった。彼がまだ幼く、無知で、無邪気で、何も考えずに過ごしていた頃の無垢な記憶だった。
彼が自らに違和感を感じ始めたのは、小学生になった頃からだ。他者への距離感や物事に敏感になりはじめる頃に、彼は自分自身を取り巻く環境が少しばかり周囲と異質なものであると感じ取った。 二つの血、二つの国、二つの言葉。郭英士を取り巻く環境は決して普通とは言い難いが、それが不自然でなかったのはひとえに彼の両親の努力の賜物によるものだろう。 しかし、家庭という繭を出ると、一歩先ゆく世界の中で彼を取り巻く環境は決して良いものとは言い難い。 それは蝶から翅をむしるように容易く、人の心を簡単に濁していく。それ故に彼は毅然と立った。 他人につけ入れられる隙を与えないよう何にでも秀でた者であるようにひたすらに努力を惜しまなかった。故に彼は努力家でもあった。
それ故にか、人には見せまいとしてきた人生の薄暗い部分がふとした瞬間に堰を切ったように溢れだしてしまうことがあった。今日もそうなのだ。 時間を見つけて東京に帰省し、実家に帰ってきた晩にこんな夢を見るとはついていないと、彼は割り切ったように溜息をこぼした。
もうひと寝入りしようかとベッドに横になった時、視界の端で携帯電話が小さく揺れた。











 まっさらな夜だ。手入れの生き届いた森林の中でシンメトリーな佇まいを見せる建物はどこから見ても美しい。 暗闇の中に灯された小さな灯りを辿って、研究室まで足を運ぶとそこには熱心に室内の資料の整理をしている壮年の男と若い女の姿がある。 二人は親子ほどに年が離れていることは請け合いだが、熱心に何かを語らっている様は親子と云うよりも師弟だろう。 男の方が、入り口に佇んでいた背の高い影に気がついてややあってから手を挙げて応じた。


「ああ英士、来てくれたのか」

「来てくれたのか、じゃないでしょ。呼ばれたから来たんですよ、父さん。俺はともかく、彼女にまた迷惑をかけて―・・・」

「教授、また息子さん呼んだんですか・・・」


郭の父に向けた女の呆れたような笑顔はどこか気安いものだ。彼女はという。
東京にある私立大学に勤めている郭の父の受け持つゼミの生徒であり、家の方向が近いからと郭の母の手料理を御馳走になるという報酬に釣られ、 時たま資料の整理やレポートの回収作業やら、手の空いている時間で研究の手伝いなどをしている女子大生である。
そして同時に、郭がオフの時に父の頼みを断らない理由のひとつでもある。
郭の家には女の子供がいないから、彼の母はそれはもう喜んで手料理をふるまったり、時たま韓国料理を彼女に教えているらしい。 そんな風に、郭が広島でのサッカー生活に明け暮れている間にも、家族は家族でよろしくやっているようなのである。 そしては郭より三つか四つほど年下だが、郭の父をある程度御せるほどにどこか落ち着いている印象がある。 最初出会ったときは、整理整頓の手際の良さからとっくに大学を出ている助手なのではないかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。 確かに、よく検分すれば持ち物や服装などは非常に女子大生らしく華やかだ。しかしながら見た目とは裏腹に実直で誠実だ。 郭が手持無沙汰にポケットに入った車のキーを弄っていると、彼の父が軽く肩を叩きながら快活に笑う。


「いいじゃないか、折角実家に帰ってるのに若い奴が家にばっかりいてどうする」

「教授・・・」

「どうするって、骨休めしたいんだからさせてよ」

「そこで積極的に行かんから彼女がなかなかでき―・・・」

「・・・帰るよ。父さん、あ、ちゃんも」


当たり前のように郭が振り返ると、は驚いたように目を見開いた。


「え、いいんですか?」

「暗いし、父さんの手伝いまでさせられて大変だったろ?」

「いえ、いいんです。ゼミ生っていうのは大抵こんな感じですから」

「君の場合はちょっと特殊なんじゃないの?」


郭が苦笑を滲ませると、もかもしれない、と同意しながら仄かに笑う。
そうして帰り支度を澄ませながら、郭の父親が研究室の鍵を守衛さんに届けに行くということで、校門の近くで落ち合うということになった。 それに加えて、は閉館前の図書館に本を返しに行くという。それに付き合うために研究棟から図書館までの長いとも短いともいえない、郭にとってみればとるに足りない距離を歩きながら、 傍らに立つをちらりと見る。 暗がりの中にあって、その横顔がどんな表情をしているのか読み取れなかったが、顔立ちはほっそりとしていてどこか頼りない。 はっきりとした顔立ちではなく、集合写真を撮ったら間違いなく埋もれてしまうタイプの子だろう。 けれども真っすぐに前を見つめる視線には揺らぎがなく、ぶれることのない深い芯があるようでいて気高く、酷く相反した印象を受ける。
郭がそんなことを考えている間に、図書館の入り口が見え始め、は慌てたように鞄の中から数冊の本を取り出し返却ポストに押し込んでいく。 どう見ても纏めては入らないので返却日を確認しながら彼女は読みたい本を片手に抱きかかえ、片手で器用に作業をしている。


「急がなくてもいいよ」

「でも、待たせてしまいます」


の背を追いかけながら本を押し込むのを手伝う。


「いいんだって、父のことは待たせておけばいいよ。いつも扱き使われてるんだろ?」

「教授もそうですが、郭さんのことです」

「あぁ、俺のことも気にしなくていいよ」

「そうはいきませんって!」


むくれるを尻目に、彼女の言葉はさらりと流しながら郭は閉館の迫った図書館を顎で示した。


「借りるものは?」

「今日は学生証を持ってきてないんで、次に」

「そう、じゃあ行こうか」


駐車場へ向かう道を示しながら促すと、は大人しく隣に並ぶ。


「何て名前なの?」

「はい?」


沈黙をなんとかしたいという気持ちは全くなかったが、二人きりになることはごく稀なので聞いてみたかったのだ。 革張りの古びた表紙の本は、原文で書かれているために上手く読み取ることはできなかったこともある。


「いやごめん、今持ってる本のこと」

「ああ、チャンドラーです」

「チャンドラー? ああ、アメリカの作家の?」

「はい、好きな作家なんです。英語でも読んでみたいと思ったんですけど、ちょっと難しかったです」

「へぇ、読んだことないな。面白い?」

「もしよかったら、今度お貸ししますよ。線がいっぱい引いてあるのでよかったら、ですけど」

「じゃあお願いしようかな」


本を貸し借りする口実に、携帯電話を広げてアドレスのやりとりをする。こんな風に他人の見るものを見てみたいと思ったのは久しかった。 サッカーを口実にして近づくことも、近づかれることも多かっただけに、郭としてはこんなふうにサッカー選手としてではない自分と接してくれるはとても新鮮だった。 だが、の中ではお世話になっている教授の息子としか格がついていないのだ。それならせいぜいいいところで、おまけでサッカー選手だ。 の良いところは潔いところだった。知らないことは知らないと言い、興味のあることにしか目を向けない。 嫌いというカテゴリーがたとえあったとしても他人に曝け出すことはほとんどなく、知っている、知らない、興味がある、ない、ということしか表面上に出さないのだ。 だが、郭にはそれが時々空恐ろしくなる。なぜだか理由はわからない。だが、好きか嫌いか、はっきりと意思表示をすることは大事なはずだ。 誰かの望みに従うように、抱え込んでしまうことは息苦しくはならないのか。その境目がはっきりと確立している郭にしてみれば、違和感のあることだった。
まるで、自分自身の本質のようで、明確な境目のないことに息苦しくなってしまうのだ。


「今日送っていくついでに貸してよ。返す日は連絡する、それでいいかな?」

「え、あ、はい」


まさか今日と指定されるとは思っていなかったのだろう。は驚きに目を瞬かせるが次の瞬間には花が綻ぶような笑顔になる。


「きっと、気に入られると思いますよ」


 






 






手元に、チャンドラーの本が馴染むようになってきたのは七月も終わりの頃だ。
オフになった時に一度借りたものの、東京の実家に置き去りにしてしまったので、再び戻った時から読み始めたのだ。 所々に線や折り目がつけられている本は、最初は大学のテキストとして購入したものなのだろうか。実際のところは郭にはわからない。 だが、重要な項目への書き込み以外に、台詞のいくつかに薄く線が引かれていることが目にとまった。どうやら好きな台詞らしい。 興味深げに目を向けるさまは親友たちにはどこか懐かしく映ったらしく、再会の合間に手に取った際にくちばしを突っ込むようにして訊ねられた。


「久しぶりだな、本読んでる英士見るのなんてさ」

「うん。まともな読書なんて高校以来だしね」

「へぇ、なんでまた?」

「・・・口実づくりだよ」


ややあって答えた郭は自分自身が逆に驚いてしまったくらいだ。しかしながら、あまりに自然に湧いてきた言葉に尋ねた真田の方も目を丸くした。 見開いた目が元通りになった頃には、話の内容が整理できたのか。察しのいい真田はややあってから呟いた。


「明日は雨か? え、てか相手は?」

「年下。父さんのゼミの学生なんだけど・・・これがまた手強くて」

「ふぅん、」

「年下!? 英士が、なんで!?」


納得した風の真田とは裏腹に、掘り下げようとゲーム機から顔を上げたのは若菜だ。
若菜が捲し立てるのも無理はない。郭が今まで好んで付き合ってきたのは確かに年上だったり同い年の物静かな見た目の少女や女性が多かった。 いずれもサッカーが好きだったり、勉強が好きだったりとそれぞれだったが、同年代故に何かしら話の合うポイントはあった。だが、 自分が好んで相手に合わせようとしたりすることは恐らく殆どなかった。コーヒーの中のミルクをかき混ぜながら、郭は苦笑を滲ませて応じた。


「いや、意識したわけじゃないさ。たまたまだよ」

「まぁ、そうなんだろうけど・・・女子大生なんだろ? どうなのよ? 遊んでるんじゃないの?」

「さぁね。見た目はそれなりに華やかだけど中身はかなりまともだよ。俺のことを教授の息子としか思ってないくらいだし」

「ひえー、珍しいのもいるんだな」

「多分、父さんの大学の生徒はみんなそんな感じなんだよ。手に職な俺たちみたいなタイプよりもさ」


そう言ったところで郭は、自分自身の中ではっきりとした境界ができてしまったことに気がついた。 はたとしてコーヒーのマドラーを休めた郭に、今まで会話に参加する気配のなかった真田が口を開く。


「でも、英士を口実づくりのために動かす大物なんだろ」

「・・・まぁね」


それに続く親友の言葉はトドメのようにして郭の身体に浸透した。いつの間に、己の親友はこんなにも分析が上手くなったのか。郭はただ納得せざるをえなかった。 理屈じみた建前を剥がして、正面から向き合えば答えは真田の言葉通りだ。

― それってさ、好きってことだろ。