ある人は云った。
世の中は所詮嘘ばかりで、人々はみな見えざる仮面を被っているのだという。そんな絶望的なことを信じて生きていけるほどには達観してないつもりだった。かといって依存だらけで生きているほどに弱くもない。グラスの中に溜まるカクテルを無造作に傾けると、それはまるで天秤のように簡単に移ろいゆく。人の心もまるで一緒だ。なみなみと注がれる気持ちはいつの間にか溢れだし、グラスが傾き、愛とは容易く零れおちていく。あるいは薄まっていく。うわべだけの言葉を簡単に信じられないのは、きっと傾いていく心を誰よりも深く知っているからなのだ。なら、何を信じたいのか。何が欲しいのか。の答えはいつでも一つだ。
薄暗い店内に響いてくる洋楽は周囲の話し声すらかき消すようにして鼓膜に響く。おかげで、隣に腰を下ろした男の声も少ししか耳に入らない。けれども実際のところ、にとってはそれが都合が良かった。暴力的なまでに身体中を叩く音楽に身を委ねると、少量の酒とともに嫌なことはすべてフロアの片隅にでも葬り去れる。もちろん静かな雰囲気の方が何倍も好ましいが、今日のように人数合わせで呼ばれた合コンに顔を出すにはこの猥雑さは丁度よいのだ。享楽的な気配の中で、注文したカクテルを飲みながらはひとごこちついたように息を漏らした。
「大丈夫? 落ち着かない?」
「え? ああ、ごめんなさい。ちょっと・・・」
そのまま帰れたらどんなに良かっただろう。はトイレを口実にフロアを抜けながら、友人に小さく目配せをした。
帰りたい、というあからさまな視線に応じて、友人は人込みを泳ぐようにして掻き分けての傍までやってきてくれた。
「ごめん、私帰ってもいい?」
「やっぱ、のお眼鏡に叶う人がいなかったか・・・」
「いや・・・そういうんじゃないんだけど、」
「うん、わかってる。大丈夫? 一人で帰れる?」
「平気。誘ってくれてありがとう。また学校でね」
友人に軽く別れを告げて、はフロアを後にする。喧噪の中を振り返るが、そこには何一つ真新しいものはない。むしろ、ひどく錆びついていた。異性と会う機会でも増えれば、自然と自分が求めていたものを探り当てられるかもしれないと思っていただけに落胆は大きかった。何かと都合をつけて、食事や遠出に誘ってくれる人はいても、それは想像ほど輝かしいものではない。
現実と理想の境界には強く線が引かれているのだろうか。その線を突き崩すことはできないのか。足元に横たわる横断歩道の白く太い線をヒールの踵でなぞりながら、喪失感にも似た軽い落胆に渇いた喉を鳴らす。何に渇望しているのだろうか。信号はとっくに青に変わり、いつの間にか流れ始めた人の波に遅れて乗り込むと、道はいやでも続いていく。確かな足取りで歩き続けながらは愚にもつかないことを思う。道は確かに自分の後ろへと出来上がり、先へと続いていくのに、自分はどこに行こうとしているのだろうか。
「ちょっと、ちゃん!」
掴まれた腕の強引な感触に不快感を伴った汗が背筋を伝う。名前で呼ばないで!危険信号のように頭上のどこかで点滅する色には声が出なくなってしまう。
「帰るなんて聞いてないよ、メアド教えてよ」
「あの、わたし―・・・」
「今度食事に誘うからさ、ねっ、」
「ですから、ご縁があれば―・・・」
「ねぇ、」
が予防線を張ろうと声を上げようとしたのを遮って、自分のペースに巻き込むようにして話を続ける男にいい加減嫌気がさしたところで、タイミング良く怜悧な声が降る。その一瞬で、安堵を感じてしまうのはどうかしているとは声の主を見上げた。やはり、郭だ。
「盛り上がってるところ悪いんだけど、彼女、引いてるじゃない。その辺で放してあげたら?」
「え? 別に、引いてないよねっ?」
言葉で示すよりも先に、は男の手を払い郭の後ろに隠れるようにして離れる。これならば、相手にも十分に伝わるだろう。
相手を傷つけないようにしようと曖昧な態度がいけなかったということはにも十分にわかる。居た堪れなくなって俯くと、男はようやく気がついたようだった。酒が入っていたこともあいまって、いささか強引になっていたことは否めないだろうが、急に気持ちが萎えたのか怒りも露わにせず振り払われた腕を引っ込めた。
「そうでなくても、こんな往来で迷惑だよ。彼女がたとえ迷惑じゃなくとも周りが困ってる」
幸い、暗がりの中とあっては郭が一体何をしている人間なのか、男にはわからなかったろう。
しぶしぶと引き上げていく後姿を見送りながら、こそこんな往来に彼を引きずりこむような真似をしてしまったことを後悔した。人間はすれ違う人の顔など逐一見てはいないが万が一ということはいつだってある。郭の背から顔をのぞかせると、は囁くように口にした。
「助かりました。あの人、しつこくて・・・」
「そう。でも、君も君だよ、付け入られるような隙を与えるのがいけない」
諭すような口調は一見突き放しているかのように感じられるが、厭味ではなかった。
― この人は公正だ。
突然の啓示のようにはただ直感した。自分が、彼の前に立つと不思議と委縮してしまうのは、彼が打算や余分な感情抜きで人間関係を構築しているからに他ならないのだ。
「傷つけないように出てきたんです。でも結局、傷つけてしまった・・・」
「君は、明確なボーダーを張りたがらないよね。それは受け入れられることだと思うけど、時に凄く損をすると思うよ」
今日みたいにね、と添えて郭はの腕を引いた。足がもつれかかるのを堪えながら、足早に歩いていく彼に歩調を合わせる。
途中で振り返りながらぽつぽつと降る問いかけにはただ促されるがままに答えるしかない。怒っているのだろうか。
「夕飯は?」
「まだです。お酒は飲みましたけど・・・」
「お腹すいてる?」
「はい、空いてます!」
思わず力いっぱい答えてしまうに軽く笑って。
「じゃあ、ちょっと付き合って」
今まで目にした郭の姿とは違う、いつもの人当たりの良さそうな雰囲気からどこか凛とした影が濃くなる。引かれていく腕とは反対の腕でただ教科書やノートを詰め込んだバッグを引っかけながら、空いた指先は不安を抑え込むように胸元に握られている。
彼について、知らないことが多すぎる。
郭に連れてこられたのは新宿からいくつもの猥雑な路地を抜けて現れる新大久保の街並みだった。
途中、ホテル街に差し掛かった時にはひやりとしたが、そんなの動揺すら押しのけるように彼は街の中に入っていく。彼が選んだ適当な料理屋に腰を落ち着ける。壁を背にした席に座らせてくれると、メニューを示しながら訊いてくれる。
「何がいい? っていっても、韓国料理しかないけど・・・」
「なんでも大丈夫ですよ。あ、でも、なんでもが一番困るんですよね」
「いや、そう言ってくれるなら適当に頼むけど」
「じゃあ、そうしてください。私なんでも食べますから!」
がたまに、郭の母から料理を習っていることを知っているからだろうか。料理を好みを訊かれなかったことに薄く笑みがこぼれおちた。不思議な人だ。先ほどの酒の余韻もあいまってか、少し酔っていた。店員を呼んで、やり取りをしている郭は気のせいか、異国の言葉で話しているようにも聞こえる。最初はただ酔いがほんのりと回っているせいかとも思ったけれど、どうやら現実のことらしいと気がついたのは店員の返す言葉でだった。
新大久保は、韓国人街としても知られている。教授の奥さん―つまり、郭の母にあたる人だ―も、時折食材を買いに訪れると言っていた。そこに、彼がいることは何ら不思議ではないというのに、なんだか心に澱がたまったような居心地の悪さだった。がわかる韓国語といえば、挨拶やお礼など基本的な単語ばかりだ。どちらかと云えば、大学で研究に当たっている欧州系の言語や日本語の構造に強みがあるだけに、言語系統の学部に所属していながら言葉が通じないと感じることはひどく不自由に思えた。不自由というか、疎外感。
「今さ、疎外感を感じてたでしょ」
の心を読んだように巧みに郭は語りかける。唐突な言葉には頷くことも、首を振ることも叶わないままただ立ち尽くしたように呆然とするしかない。わざとだったとでもいうのだろうか。郭の真意が解せない。
「俺の、家族のことはもう知ってるよね」
「あ、はい」
「君は頭がいい人だから、俺がいちいち説明しなくても、わかると思う。その―・・・」
「日韓関係のことですよね」
声を出来るだけ小さくして、は郭に問いかけた。すると、すぐに帰ってくる肯定の返事。重く力を込めたような頷きに重石が乗ったような緊張感が籠もる。冗談を言いあったり、茶化す話題でないということくらいほろ酔い状態のにもわかる。彼は、今、何かとんでもなく重要なことをに告げようとしているのではないか。不安が現実になっていくような、二人の間が何かで覆われていくような錯覚を振り払うように、背筋を伸ばして彼のことを見つめると、先ほど感じ取ったように少し鋭い瞳の彼と視線がかちあう。
「俺は、どちらの国のこともおざなりにはしたくないんだ。どちらかをとるなんてできないと思ってた。もちろん、そのつもりで生きてきたけど、言葉が通じても、置き去りになっている気分になるんだよ。中立と云えば聞こえはいいけど、いつもどっちつかずなんだ。中学の時に、サッカーの試合で韓国に行ったことがあったんだ。俺は日本の代表として行ったけど、やっぱりあっちでいい顔はされなかったと思う。つまり、何が言いたかったかっていうと、明確にどこかで線を引かないと脆くなってしまうんだ。気持ちはいつもどちらにも向いているのに。あぁ、だめだな。どうしてもこの話題になると感情的になってしまって・・・俺が言いたいこと、伝わってる?」
郭が悩ましげに吐露して顔を上げた時、の瞳からはぽろぽろと涙が零れおちていた。ほっとしたように力が抜けてしまったのだろう。
自身、覚えのない感情の露出に狼狽しながら涙を拭うと、慌てたように腕を伸ばした郭から逃れて、咄嗟に俯いた。
「はい・・・。ごめんなさい、泣きたいわけじゃないんだけど、私たぶん酔ってるんです」
言い逃れのように呟いたの言葉に、郭は言葉を濁して応じた。
「いや、いいんだ。押し付けたいわけじゃないんだよ、ただ・・・」
「わかってます、郭さんは間違っていないと思います。誰にでも、はっきりと物を言えるのはそれは凄く勇気がいることだし、それが自然にできるあなたは偽りのない生き方をしてきた人だからだって、私にだってわかります」
そこまで、郭の言葉を遮って思いきり話したところでは気がついた。何を信じたいのか。何が欲しいのか。本当の言葉が欲しかったのだ。そして今目の前に、それすら簡単にくれる人がいるということに気がついた。理想と現実の境界が崩れていく。本を返してもらうことなどとうに忘れて、は目の前に佇む男を凝視した。あれ、おかしい―・・・郭さんが二人に見える。
思ったところで、の意識は途切れた。どうやら本当に、酔っぱらっていたらしい。
「ちゃん!?」