『なぁなぁ英士! 上手くいってるのか?』
この間話してた例の年下の―・・・電話口で響く、親友の声に受話器から軽く耳を放しながら、ややあって郭は応じた。
広島での試合後のタイミングを見計らってかけてきたのだろうか。相変わらずの小まめさに内心賞賛を送りたくなる。部屋について洗濯物などを洗濯機に放り込んだところで、その電話はかかってきた。
「結人、ちょっとは落ち着いたら?」
『だって気になるじゃん。どうなんだよ?』
「じゃあこっちも訊くけど、なんでそんなに訊きたがるかな・・・」
『俺ら三人の中で結婚してないの俺と英士だけだろ? 一馬はとっくに所帯持ちだし』
「まぁ、そうだけど」
『最近彼女すらいなかった英士が・・・だぜ? 気にならないわけないじゃん』
詮索が好きなわけではないが、周囲に何も言わなさすぎる郭のことを考えてか時折こうして捌け口をつくってくれるようにして若菜は電話をかけてくる。幼い頃は毎週のように会っていただけに、それが電話にとって代わっただけと言えばそうだが、若菜は相変わらずだ。
確かに彼の言葉の通り、親友三人の中でいち早く結婚をしたのは真田であった。結婚という二文字は真田にとっては少なからず選手としての活躍に良い方向に影響を与えているようで、彼の姿は安定してきたの一言に尽きる。そんなもう一人の友人の姿を若菜にも倣ってほしいとばかりに、郭は大げさに電話口で溜息を洩らしながらわざとらしく呟いた。
「一馬を見習って結人も早く結婚したら?」
『うわー! お前、俺が折角心配して電話かけてんのになんて台詞だよ』
「余計なお世話だよ。なにも、俺はそんなに急いでるわけじゃない」
『急いでなくても、逃がす気もないってわけですか』
核心を突いた若菜の言葉に、郭は笑みを深くする。彼の行動が読めるとは、さすが十数年来の友人だけある。
「ご名答」
『うわー・・・相手の子、マジ可哀想』
「さぁどうだろう。俺の方がいいようにされてる気はするけど」
『へぇ、いいようにねぇ』
受話器越しの籠もった低い声に、思わず鋭く切り込む。
「そこ、変に深読みしないでくれる?」
『じゃあどういうことなのか、そこんとこ詳しく!』
「いや別に、浮かれるようなことを言われただけだよ」
そこまで言ったところで、なるほど自分はあの時浮かれていたのかと英士は口にして初めて気がついた。
それからしばらく二人は試合結果やチームの進退、そしてこれからある代表の選出などの話をひとしきりしたところで、数十分に及ぶ長電話は切れた。携帯電話を放り投げ、しばらく放心したようにソファの上で天井を見上げていたが、ふと思い立ったように立ち上がり、カレンダーを見た。九月の初めに差し掛かった頃―・・・日差しが緩む頃に、彼女は大学の友人と広島に来ると言っていた。
国立競技場には、は何度か足を運んだことがあった。恐らくそれは、外苑前の近くに住んでいる友達の影響も手伝ってのことだ。しかしながら、プロの試合を見ると云うこと自体が初めてであるはそもそもスタジアムに足を踏み入れること自体が新鮮だった。一人では勝手がわからず不安だからと、サッカー系のサークルに所属している友人を誘って広島で観戦することになった。
どういう風の吹きまわしだと友人は驚いていたが、チケットが一枚余っていることとサッカーに行くこと自体が初めてだからよくわからないと言えばあっさりとついてきてくれると言ってくれた。彼女はが所属しているゼミの教授が郭の父であることも勿論知っているし、チケットを受け取ったのは教授からだろうと推測したのか詮索する気配はなかった。というよりも、広島に小旅行にでも行く気分でいるからか、彼女はそちらの方に舞い上がっている様子だったというべきだろう。
けれども何よりも、は目の前に広がる人だかりに驚いた。WBCの影響もあいまってサッカーは日本のスポーツの中でどうしても下火であるような気がしていたからだ。だが、そんなのは嘘だ。目の前にある約五万人もの人々の群れを見ては実感する。用意してもらった席が、ピッチから程よい距離感で本当によかったとは胸をなでおろす。初心者には、少し後ろくらいが丁度よいのだ。
二人とも、チームの熱狂的なサポーターというわけでもないわけだから、端の方で試合を観戦する姿勢に留まっているがそれにしてもこんなに凄いものなのか。は周囲を見渡しながらただその驚きを受け入れるしかなかった。
「あぁ、これ教授の息子さん出てるじゃん」
入場してくる選手の群れを見て気がついたのか、独りごとのように友人が言う。そんな彼女のブラウスの裾を引っ張りながらは問いかけた。
「ねぇ、郭さんって有名なの?」
「有名って・・・まぁ、いつも世代代表の常連だし、次の代表にも入るだろうって云われてるよ」
「そうなんだ」
観戦に集中し始めた友人とは裏腹に、はピッチを駆ける彼を、どこか捉えどころのない気持ちを抱えて見つめていた。
視線を合わせた時の不明瞭な感覚ではなく、いつか一緒に歩いた時に感じた読み切れない感情ではなく、新大久保での疎外感でもなく、何かもっと別のものだ。何も知らない自分がこの場にいることは、果たして正しいことなのだろうか。にはわからない。少なくとも、サッカーをしている郭のファンではないことは確かだ。多分、彼のファンの方が表面的な彼のことを自分よりももっとよく知っていることだろう。彼のことをもっと知りたいと、切り出したのは自分のはずなのに、どうしようもない矛盾点に埋もれて息がつまりそうなほどに胸が痛む。
― お世話になっている教授の息子と、父親の教え子というただそれだけの関係のはずなのに。
郭がアシストを決めたFWからのシュートがネットを揺らし、歓声でサポーターたちが湧く。たちが座っている席も例外ではなく、殆どの人間がスタンディングオベーション状態である。そんな中、「決まったね!」と明るく声を上げた友人がに笑みを向けた時、途端にぎょっとした様子で小さく声を上げた。
「、どうしたの? 大丈夫? どこか痛いの? 誰かの腕が当たった?」
しきりに心配してくれる友人の温かい声に首を振りながら。
「ううん、大丈夫。ちょっと目にゴミが入っただけ―・・・」
― どうしてこんなにも胸が痛むのか。