それは全くの事故だった。
は実家のソファの上に寝そべりながら携帯電話を弄っていた。充電器を持ってきていない以上充電の量が少ない。何もしないと考えてしまうのは、やはり郭のことだ。
かけることの叶わない携帯番号を眺めたまま、その名前を小さく口ずさんでみる。けれども、返事はない。当たり前のことだ。
実家の飼い犬が構ってほしいとばかりに尻尾を振ってくるのでじゃれあう片手間に弄っていたら、ふとした拍子に指が滑り、通話ボタンを押してしまう。
ぎょっとしたのも束の間、心の準備もままならないというのに、電源を落とそうと指を伸ばしかけた時、電話はつながってしまった。
『もしもし?』
久しぶりに聞く声だった。彼の声に反応して、言葉は驚くほど簡単に喉から出てきた。
「あ、あの・・・私・・・ごめんなさい。今忙しいですか?」
『ううん、さっき練習が終わったところなんだ』
「そう、だったんですか」
『どうしたの?』
「あ、いや、この間試合を見せてもらったお礼、まだしてなかったって思って・・・」
タイミングを逃したのにいまさらだったが、は二週間ほど前に広島に行った際の礼を述べる。
久しぶりの会話に、気持ちに言葉が追いついていかない。言いたいことは山ほどあるのに、どこから切り出すべきかは迷っていた。
『いや、いいんだ。俺だって来てほしいと思ってたし』
「折角呼んでもらったのに、何の連絡もしなくてごめんなさい」
『こっちこそ、ちゃんと連絡できなかったから、でもどうしたの? 何かあった?』
さっきから、ごめんなさいばっかりだよ。と電話口で聞こえる優しい声には目の奥が熱を持ったように熱くなる。
はここ数週間で溜まっていた心の澱を吐き出すように努めて冷静になれるように淡々と話しはじめた。
けれども、早く伝えなきゃと焦るたびに、上手い言葉を見つけ出せない。
「郭さん。私、わからないことだらけなんです。自然な流れなのかも、不自然なのかも。どうしたいのかも、何もかも。私、多分郭さんがサッカーをしていることが今までリアルじゃなかった。最初に会ったのが、多分大学の中で教授の手伝いをしていた時だったから」
『・・・うん』
「私、あなたに会っている時、あなたの大切なものがきっと二の次なの。あなたのことをすごく魅力的な人だと思います。だって今まで知らなかったから・・・あなたのことも、あなたの大切なものも、大好きだって言えたらよかった。でも難しいんです。あなたがサッカーをしている時に思ったんです。私はあなたのファンにはなれないし、サポーターにもなれない。近くで支えることすらできないんです。あなたは私が思っていたよりずっと遠いところにいる。だめです。こんな私じゃ・・・
あなたの近くにはいられない」
感情的になっていつの間にか流れ落ちていく涙を力強く拭いながらははっきりと告げる。
郭の側にいるのはきっと、彼のことと彼のサッカーのことをもっと強く理解できる人でなくてはいけないのだとは思う。
自分のことで手いっぱいなにはそんな大役は務まらない。それには、支えるより、支えられたりするよりも、強く立って自由に生きたいのだ。
自分が考えていたよりも、わがままだったのだ。
『どうか自分のことを、そんなに卑下しないでほしい。俺は―・・・』
「・・・前に、郭さんが私に新大久保で言ったこと、覚えてますか?」
『俺も、そのことを言おうと思ってた。壁を作りたくてそんなことを言ったわけでも、チケットを贈ったわけでもないんだ』
「気持ちは十分にわかってるつもりなんです。でもそうじゃなくて、違うんです。言ってましたよね、“いつもどっちつかず”だって。
でも、そんなことないじゃないですか。少なくとも、あなたの周りであなたのことを支えている人や、思っている人は、あなたのことをそんな風には考えてないはずです。私だってそうです。だけど、郭さんの気持ちは違うんですか? 私は、あなたの中のどこにいるの?」
一気に言いきったところではとんでもないことを言ってしまったのではないかと冷静な自分を取り戻すように頬に手を充てる。本当に、どうしようもない。
の問いかけに、郭は息を詰まらせたのが電話越しでも伝わってきた。気まずい沈黙の後に、取り繕うような言葉を郭の口から聞きたくなくて、は思わず遮った。
『・・・俺は、』
「ごめんなさい。私、何が何だか―・・・すいません。もう、忘れて」
おざなりに言って切ってしまおうかと思った電話はタイミング悪く電池切れの合図を起こして切れた。
あまりに絶妙な間の悪さに、唇から渇いた笑い声がこぼれ落ちた。忘れてって捨て台詞で幕切れだなんて、どんな三流映画の台詞だ。
けれどさようならは言いたくなかった。だって郭に貸したままの小説の主人公はフランスの詩人の言葉をもじってこう言ったのだ。“To say Good bye is
to die a little.”だと。
今時誰も口にすることはないだろう。あまりにも呆気ない終幕に、はソファに沈み込んだ。あぁ、今度こそ終わったのだ。
Tシャツの下の肌は緊張がほどけたためかしっとりと汗ばんでいるのがわかった。
結局、あの小説って・・・続き貸してから、返してもらったんだっけ・・・―
結末を忘れた映画のように、しっかりと答えが思い出せない問いほど後味が悪く、厄介なものはなかった。