エデンの東005>> I don't want any kind of love any more. It doesn't pay off. No future in it.


― 忘れて、

その言葉の真意を訊ねる間もなく、唐突に切られた電話を見つめたまま郭はただ呆然と立ち尽くした。もう一度電話をかけようと試みたが、何度かけても着信はおろか、留守番電話サービスにすら繋がる気配はなかった。電源を落としているのか、軽く舌打ちをすると携帯電話をソファに叩きつけて、落ち着きを取り戻すためにゆっくりと腰を下ろす。
冷静に考え始めようとする思考力を奪うほどに、あの五文字の言葉は郭の心を容易く抉る。


「・・・嘘だろ、何だそれ」


柄にもなく傷ついた風体で、郭は髪に手を差し入れてかきまわした。
今までそれなりに関係を持った相手もいたが別れの言葉がどんなふうに連なっても、あんなに淡々と受け流せたのに、まだ付き合ってすらいないのにこの体たらくは一体何だ。
冷静に整理して考えると出てくる言葉はただ一つだった。ソファに力なく横たわりながら白く光る電球に目を細め、やはり力なく笑った。


「あぁ、俺、振られたのか・・・」


 








 



 かくして、全てが振り出しに戻ってしまったわけだが、郭にとって幸いだったのが周囲に自分の色恋沙汰を話してこなかったことだった。何かあるたびに一喜一憂するなんてそれこそ彼らしくもなく。プロである郭は中高生とは違い、プレーに影響を出すわけでもなく、いつものような試合と練習に明け暮れる日々が戻ってきた。あんなに執着するように考えていた存在が忽然と姿を消してしまうと、手持無沙汰な日がないといったら嘘になる。けれど、なるべく考えないでいるために自主練に励み、疲れた体を引きずって泥のように眠るという日々が続いていった。確かに仕事に精度は出るし好きなことを続けられる分にしても、充足感は得られるが何かが足りない。
そう思い始めたころに、突然兆候が現れた。彼すらすっかり忘れていたことだったが、エナメルバッグのポケットから、読みかけの文庫本が一冊現れたのだ。返しそびれたチャンドラーの本だ。今更のように返しても仕方がないだろう。かといって捨てるのはあまりにも失礼だ。むしろそんなことをするのは人間としての品位が問われる。結局のところ、本に罪はないと思い、郭は続きを読むことを口実に、その本を傍らに置くことにした。読みかけのページに手を伸ばしかけたところで、その動作を遮るようにして携帯が鳴った。


「もしもし?」

『あぁ、英士。最近戻ってこないみたいだけど、忙しいのかい?』


自宅からの電話で何かと思えば、久しく父からの電話だった。


「まぁね。代表合宿なんかもあったし・・・」

『頑張ってるな。あまり、頑張りすぎるなよ』

「うん」

『あ、そうそう。毎年聞いてるけど、今年の二月はどうする? 行くかい?』


どこに、そう言わずとも何の事だか郭にはわかる。二月には必ず、両親は韓国へと足を運ぶ。郭にとってのもう一つのふるさとともいえる場所だ。二月―・・・韓国は日本とは違い、暦が旧暦での換算のために所謂“正月”を二月に迎えるのが慣わしだ。
中学生頃までは親に付き合って行き来をしたりしたが、高校生になってくれば足は遠のいた。親戚の中には日本に対して決して良いとは言い難い感情を持っている者もおり、罵声を浴びせられることもしばしばだったが、母方の従兄の両親が上手く仲を取り持ってくれることで、それなりにうまくやってきたはずだったが、従兄がスペインに行き、徴兵制によって徴兵されたりとめまぐるしく事情が変化する中で、訪韓する機会も減った。


「行こうかな」

『うん、わかった。チケットはこちらで手配するから・・・そうだ、パスポートの期限は?』


脇で母親が注意したのだろう。思い出したような問いかけに苦笑しながら応じる。


「あと五年分は心配ないと思うよ」

『なら安心だ。日付はいつもどおりだから、まぁ無理になったら早いうちに頼むよ』

「わかってる。じゃあ、また―・・・」


そうして電話は切れた。
部屋が再び沈黙に包まれた頃に、ふいに郭の耳に電話越しにが囁いた言葉が甦ってきた。

―・・・言ってましたよね、“いつもどっちつかず”だって。でも、そんなことないじゃないですか。
少なくとも、あなたの周りであなたのことを支えている人や、思っている人は、あなたのことをそんな風には考えてないはずです。
私だってそうです。だけど、郭さんの気持ちは違うんですか? 私は、あなたの中のどこにいるの?

あまりに鮮明な声は今しがた鼓膜に響いたかのようにして消えていく。けれどもあの言葉たちはすべて、郭がいつの日か言った一つの話に起因している。だから韓国には、無意識のうちに行かなければと思った。行ったとしても、あちら側に何が残っているのか今の郭にはわからない。けれども、矛盾点をなくすべく、丹念に証拠を探していくあの小説の主人公のように、何かしないうちには何も始まらないのだと気が付いていた。
の言葉は、あまりにも真っすぐに郭の心を突いていく。
 







 




二月の韓国は、氷点下の寒さで郭の家族を迎えてくれた。
母などは生まれ育った国に帰ってきたものだから慣れたものだが、父は寒さに耐えかねてじっとしたまま動かない。空港に迎えに来てくれた伯母や伯父たちとは再会を祝うように抱き合い、喜びをわかちあっているが、ふと伯母が郭に視線を投じ、驚いたように目を剥くと、一瞬にして笑顔になる。郭のもとに駆けより、すばやく荷物を奪いながら車のトランクに詰める、その声はどこか弾んでいて朗らかだ。


「英士、潤慶も帰ってるのよ」

「スペインから?」

「そうなの、さ、早く乗って。会いたがってたから」


予想外の収穫だとばかりに伯母が破顔してよろこぶ様は、従兄の笑い方にとてもよく似ていて不思議だった。やはり親子だと思う。伯母一家がこうして何気ない態度で郭の父や郭自身を迎え入れてくれることがこの国を訪れる時の何よりもの救いだった。二つ目の国、二つ目の故郷、二つ目の言葉。そして、いつかは決別しなければならない土地―・・・。
自分自身の居場所は日本だと、十年も前に郭は確信したはずなのに未だに見えない何かで心を縛る力を持っている不思議な場所だ。金浦空港からソウル市までの距離は昼間に到着した便からなら、一時間にも満たないほどの近距離さだ。窓から見える漢江の姿とそれに沿って走る道路の向きがいっそう異国としての存在を際立たせる。幾重にもかけられた橋を眺めながら過ごしたところで、江南にある郭の母の実家までの道のりはあまりにもあっけなく過ぎ去っていった。見覚えのある門構えの住宅の前で車が停まり、トランクの荷物を降ろしながら歩き始めたところで、郭は思わず立ち止った。


「ヨンサ!」


元気よく駆けてくる姿は幼いころから変わりない。李潤慶だった。


「久しぶりだね、カズマの結婚式以来?」

「もうそんなになる?」

「もう四年前だろ」

「あぁ、そっか・・・」


唐突に告げられた時の流れの速さに、郭はしばし呆然としたように口元に手をやった。しかしながら、そんな郭の様子とは裏腹に相変わらずの溌剌さで従兄は楽しそうに彼の腕を叩いた。


「ちょっと出かけよう、叔母さん、叔父さん! ちょっとヨンサ借りてくね!」

「どうぞー」


間延びした母の声は心地よい韓国語を刻む。学者である郭の父は、微笑しながら二人の様子を見送ってくれる。
従兄が運転すると躍起になって車に乗り込んだのはいいのだが、ここは日本ではないということを完璧に失念していた郭は従兄がエンジンをかけてハンドルを握った瞬間に車を降りたくなった。運転がとてつもなく荒いのだ。制止する声を上げる間もなくセダンは走りだした。コンパクトなシルエットの車はぐんぐん速度を上げて先ほど郭一家が通った道を逆走し、漢江沿いの高速道路をめがけて走りだす。江南からこれからどこに行こうとしているのか、聞く気はなかった。きっと気まぐれなドライブだろう。走りだした車の中、従兄は笑顔のまま声を張り上げて郭に言う。


「ねぇ、ヨンサ。僕、今度のワールドカップが終わったら移籍するかもしれない」

「へぇ。どこに?」

「イタリア! ついでに結婚もする」

「はぁ? 移籍は勝手にすればいいけど、結婚ってユン・・・そんな簡単に・・・」


伯父や伯母、そして祖父母はともかくとしてもそこから連なる親戚は黙ってはいないだろう。相手は、と問いかければ返ってくるのは深い笑みだけだ。その真意を測れないまま、困惑したような表情の郭を見、従兄は呟いた。


「うーん。なんかね、叔母さんの気持ちが、よくわかったよ」

「・・・日本人、なのか?」

「うん、でも正確に云うと半分。ヨンサと一緒だよ」

「そう、」

「彼女、通訳やってるんだ。かあっこいいんだよ!」


そう言って自慢気に笑う従兄が、郭は少し羨ましかった。彼ならばどんな逆境でも尻込みせずに突き進む。それどころか自分自身のチャンスを得て全てを上手い方向に変えていってしまうだろう。そういう力がある男だ。漢江沿いの砂地に降りて車を停め、その広大さを求めるように車を降りる。寒さを孕んだ冷気が頬を撫ぜていくのがわかった。


「ヨンサの彼女は?」

「俺の?」

「ユウトから聞いたよ。かわいい?」

「まぁね、かわいいよ。でもちょっと喧嘩中」


まだ彼女じゃないんだけど。しかも縁が切れかかっているんだけど。と言いかけたくなったがやめておいた。
弱みをこの従兄に握らせると後で何を言ってくるかわからない。郭にとってみれば年上の従兄への精一杯の強がりと云うやつだった。


「ふぅん」


返ってくる返事は存外そっけない。からかうネタがなくてつまらなくなったのだろうか。郭はよくわからなかった。だが、その距離感や温度は心地よい。しばし二人でゆっくりと流れていく漢江を眺める。夕陽が緩やかに入江の水際を照らし出し、郭の心を映し出すように水面が揺れた。


「そうだ、ヨンサ・・・」


不意に彼は、真剣な眼で郭のことを見つめた。この視線の意味を郭はよく知っている。好敵手の目だ。


「代表選出おめでとう」

「ユンも。活躍は聞いてる」

「ヨンサってば!」


鋭い表情を剥いで、従兄は今度こそ大きく笑った。あまりにも自然で、郭は気がつかなかったのだ。大切なものは、確かにある。“どっちつかず”なんて嘘だ―・・・。
まばゆく光を放つ西の空を見つめながら、郭は急に東の空の下にいるに会いたくなった。会いたくてたまらなかった。すぐにでも彼女を抱きしめて、謝って、首筋に鼻先を埋めたい。 自分がどれだけ彼女のことを好きなのか、愛しく思っているのか伝えたかった。(ああそうだ―・・・俺は彼女が好きなのだ)けれどもここに、彼女はいない。呆れるほどに空転する思考に負けて、額に手を宛てたまま力なくしゃがみこんだ彼の肩を、従兄は激励を込めて叩いた。


「ヨンサ、もう日本が恋しくなっちゃった? ついたばっかだよ!」

「ユンの運転が下手だから酔ったんだよ。帰りは俺が運転するから」


溜息をこぼしながら、精一杯強がったつもりで見上げれば、従兄は呆れたように笑った。
郭にしてみれば、「僕には全部お見通しなんだよ」といわんばかりの笑みが相変わらずで腹立たしい。けれどその腹立たしさも、大事だという気持ちがあってこそなのだ―・・・。きっと、郭の悩みのわけすらあっさりと見破っている。その証拠に、


「ちゃんと仲直りするんだよ」

「言われなくても」