彼の話をしよう。
カミーユ・ビダン―・・・彼のことを最初に聞いたとき、私は同じ年頃の女の子がやってきたのかと思った。 今それを言ったら笑ってくれるだろうけれど、当時としては冗談では済まされないだろう。機嫌を損ね、暫くは口を閉ざしてくれるに違いない。 私が女でなかったら殴られたかもしれない。それほどまでに、彼は自分の名前の響きが女性的であることを嫌悪していた。 聞けば、女の名であるが故に男、というイレギュラーさが、幼少時には周囲の人間からの嘲りの対象でしかなかったのだという。 名前というのは不思議だ。つけられた時点で既に一つの容を形成してしまっているのだ。変えようのないもの。 とにかく当時の私は、その後目にしたカミーユの姿に唖然とした。腹立たしさを真っ向からぶつけていくその姿にいっそ潔ささえおぼえたほどだ。 そう、彼の魂の輝きは誰の目にも疑う余地のないほどに純粋な輝きを秘めていた。怒りに満ちてさえも、その光は輝きを失わない。 その怒りの根源を、彼は証を手に入れるためなのだと言った。何の証なの?私が問い返せば彼は言う。自分が男であることを証明する証なのだと。 確かに彼は少年だったから、男にしてはまだ未熟で、背もそれほど高くはなかったけれど、数年経てばそんな証は求めなくともすぐについてくるものだと私は思った。 口にしなかったのは、私がカミーユのその清廉さを、捻じ曲げたくないと思ったからだ。私が口にすればその輝きは失われてしまうものだと思ったのだ。 だからこそ、地球に降りてそして再び地上に舞い戻ってきた彼はあの研ぎ澄ました獣の牙のような感情を悉く抑え込んで、 後に私に穏やかに語ったのだ。自分の名前が好きだと。あまりにもあっさりとした答えに、私は驚かなければならなかった。 何がこんなにも彼を変えたのだろうか。何が彼をこんなにも突き動かすのだろうか。 私にはその答えはどこにも見えなかった。













「不思議ねぇ」


ふと、傍らから聞こえた声には視線を彷徨わせた。声の主はエマだったらしい。 宇宙空間を背にOSのプログラムを弄っている隣で彼女は飽きもせずに宇宙空間を眺めながらうっとりとため息を零している。 もしかして、独り言を拾ってしまったのだろうか。は首を傾げながら、彼女に返す。


「そうですか?」

「えぇ、どんな時間に見ても、ずぅっと真っ暗なんですもの」


どうやら語りかけだったらしい。ほっとしたのも束の間、返ってきた声にやはり首を傾げてしまう。 コロニーの民にとっての宇宙空間とは、それほど珍しいものでもない。 そう言ってしまえばそれまでだが、今少女のように夢中になって外を眺めているエマにそれを言うのはあまりにも無粋だ。 きらきらと輝く翠の視線は、銀河の織りなす濃紺の闇の中に注がれている。どうやらとてつもなく興味を抱いているらしいと云う事はわかった。 きっとここに壁や窓がなかったなら、彼女はその涯のない闇の中に手を伸ばしてしまうのではないかというほどに。 エマ中尉は星屑に心を吸い取られてしまうのではないか、と思い至りは小さく身震いした。そんなこと、あるはずがないのに一体自分は何を考えているのだろうか。


「そっか、エマさんは地球出身でしたっけ?」

「そうよ。宇宙に上がったのはこの年になってからが初めてだったの」

「あぁ、そうだったんですか」

「やっぱり、少しおかしいかしら?」

「いいえ、ちっとも!」


は笑みを浮かべて小さく首を振った。エマのことを少しも、おかしいとは思わなかった。 美しいものに人は目を奪われる。美しければ美しいほどに、目を逸らせず見るだけで胸が高鳴る。まるでそれは恋にも似ているのだ。 エマはやっとそこで宇宙から視線を剥がして、の隣に腰を下ろした。


「ねぇ、知っていて? 。遥か昔にね、宇宙に初めて上がった人間は“地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった”って言ったそうよ」

「へぇ、ロマンチックですね」

「そうでしょう?」

「いいなぁ、私はちゃんとした形で地球に行ってみたいです」

「この戦争が終わればすぐにも行けてよ」


エマは微笑んだ。普段の勤勉でいて実直な一面しか知らなかったは彼女の挙動に大いに驚いたが、その驚きもすぐに鎮火した。 方々から、彼女らの名前を呼ぶ声が聞こえはじめたからだ。どうやら休憩時間も終わりらしい。 パソコンを傍らにして立ちあがると、はエマを振り返った。まっすぐに廊下を進む彼女は先ほど宇宙のかなたを見つめていた視線の片鱗も持たない。 それを見て、不意に妙な安心感と戸惑いが綯い交ぜになった不思議な感情が心を満たす。試しに、自分も目の前に広がる濃紺の海を見つめてみた。


「・・・?」


不意に傍から響いた声には肩を震わせた。今度はカミーユだった。


「大丈夫か? ぼうっとしてたみたいだけど」

「あぁ、うん。平気よ。ごめん、誰か私のこと呼んでいた?」

「アストナージさんが連れて来いって」

「カミーユごめん、折角のオフなのに手間を―・・・」


言いかけた言葉は、急に押し付けられた胸板の上に掻き消えた。 驚きに声を上げる余裕もなく、ただ二人の間には情熱を堪えるような沈黙が流れはじめていた。


「なんだか、あの星の中に吸い込まれそうだった」

「そんなことないでしょ」


不安に満ちたような静かな声はの肌を優しく撫でていく。 あの時、エマに感じていた不安をまさにカミーユがに感じていたというのだろうか。


、いかないでくれ」


熱っぽく耳朶を叩く声は、愛していると告げるより雄弁に愛を語る。 ただ名前を呼ばれるよりも強く、明瞭に響く声はを容易く彼の腕の中に引き寄せてしまう。 どこでそんな声を覚えてきたの。あなたは誰が去ったことをそんなに気に病んでいるの。 の疑問はとどまることを知らなかった。何が自分をそんなに疑心暗鬼にさせるのかもわからない。


「どこにもいかないよ」


引き寄せられたら、答えてしまう言葉はただひとつだった。そしてその間にもは思う。 あの涯のない宙の闇から手を引いて私を引き戻してくれるのがカミーユだとするなら、エマさんのことは一体誰が引き戻すというのだろうか。と。 そして、その予感は現実となっていく。















艦首と違った意味で、格納庫は戦場だった。
油と煙に塗れた人々が、収容された機体を修復していく。時には、コックピットが砲弾に焼かれた機体を処理することもあった。 肉の焼ける匂いが籠ったコックピットを抉じ開けるのは、葬儀屋よりも酷い職業だと誰もが思っていたに違いない。 人の形を成さないただの肉の塊を焼けただれたコックピットから引き上げ、積み上げる。それはまとめて棺に詰められ宇宙の彼方へと葬られる。 何度その場に居合わせたことだろう。見ただけで眉根を寄せてしまい、その惨たらしい現場から目を逸らしたくなる。いつでも手が震えた。 従軍して、エゥーゴに所属することを決めたとき、はおそらく解っていなかったのだ。 ここが戦場と隣り合わせの場所だということが、の意識からは従軍当初完全なまでに欠落していた。 戦場と隣り合わせだと初めて実感したのは、Mk-Uを奪取するより遥か前、コロニーの毒ガスの調査に向かった時だ。 人が死ぬということの凄絶さの中で、は初めて戦争がどんなものかを知ったのだ。 だがその手の震えは、にまだまともなのだと教えてくれる。自分はまだ、正常な器官を持つ人間なのだと雄弁に語る。 そして、その手の震えが消えた時こそが、自分がこの場所を離れる時なのだと悟っていた。


「おい、!Mk-U入るぞ!」

「はい!」


アストナージの怒声に現実に引き戻された。反射的に声を張り上げながら、なぜラーディッシュに行ったはずのMk-Uが、とは疑念を抱いた。 そして機体を目の当たりにした時、はこの戦場が今までのどんなそれよりも熾烈で、過酷であるかを思い知った。 補助道具で吊りあげられて格納されたMk-Uは左半身が根こそぎもぎ取られたようにしてなくなっていた。 まるで、パイロットを守るだけに存在するかのようなその鉄の塊はそれでも尚パイロットの気性を示すかのように堂々たる風格でそこにあった。 まだ戦う気でいる。もはや誰にもそれを止められないことに気づいていた。 エゥーゴは人員の問題で副パイロットが存在しない。それ故に、この機体を駆る人物は一人だった。 キャットウォークから無重力地帯に軽やかに飛び上がりながら、は塗装の剥がれた機体のコックピットを開いた。


「エマ中尉、無事ですか?」

「ええ」


溜息のようにして零したエマはヘルメットの中で浅い呼吸を繰り返している。 一人では立ち上がれないのか、腕を引こうとしたの手を制して彼女は小さく首を振った。


「また出るから、ここで休むわ」

「それでは中尉・・・」

「コックピットにパイロットがいた方が、テストは楽でしょ?」

「それはそう、ですが・・・」


言葉を濁したの手がまた伸びてくるのを牽制するかのようにして彼女はヘルメット越しに微笑んだ。 いつものような、統制された穏やかなものではなく、どこか人の温度を拒絶するような笑みにの身体はそれ以上彼女に近づくことはなかった。 あぁ、もう彼女はあの星屑の中にいるのだとはなぜかわかってしまった。孤独と喪失を織り交ぜたようなあの涯のない光の中に彼女は腕を伸ばしている。


「わかりました。中尉はそこにいてください。補給と機体の修理を同時に行います」

「お願いするわね」

「任せてください」


機体の整備にとりかかろうと踵を返すようにしてコックピットを離れたが、やはりエマのことが気にかかり、後ろ髪を引かれる思いで振り返った。


「ラーディッシュがやられたんだと、」

「生き残ったのはエマ中尉だけだ」

「そっとしておいてやれ」


作業をしながらひっそりとかかる声に、は言葉もなく頷くことしかできないまま、ほどなくして機体は動けるレベルの範囲にまで修繕が完了した。 パイロットがエマでなかったらすぐにも射ち落とされてしまうことだろうが、彼女の力量なら動くにはこれで十分だという。 エマの状態ですら完全とは言えない今、均衡を保つためにはこれがちょうどいい選択なのだと。だがそんなことは詭弁だった。 完全さを求めてこれ以上整備に時間をかけるわけにはいかない。ここは戦場だ。次に来る機体に手が回らないということが第一だった。 再び戦場に向けて発とうとするMk-Uのコックピットへ向けて、はいつものように声をかけた。


「中尉、無事整いました。動けて70%です、いいですね!?」

「わかっていてよ、。ありがとう」


その声と頬笑みに、胸の奥が痛みを訴えは声を上げて泣きそうになった。 何に対しての礼だったのか、問いかける間もなく機体は宙を翔けていく。あぁ、なんて速い―・・・。 格納庫の一角からその機体の輝きを見たは沈みこむようにしてうずくまった。
手の震えが、止んでいた。













が手の震えを感じなくなった日の夜に、砲撃とモビルスーツの攻撃は止んだ。
長きにわたって続こうとする戦争の明確な終わりではないが、ひとつの戦いが幕を下ろしたことは確かだった。 暗い部屋の中、いつものようにラップトップを手にすることもなく、ただ空虚の中に身をゆだねた。 あの格納庫から送り出した殆どのパイロットたちはもう戻ってこなかった。 彼らはあの、涯のない宙の向こうにある星の瞬きの中に消えてしまったのだろうか。答えはなかった。 召集がかかっても、は部屋からでることはなかった。暫定的な指揮官となったブライトは、がこうして呆然と過ごしていることを見逃してくれた。 ありがたいことだったが、それはいずれは自らの力でこの喪失から立ち上がらなければならないということを暗に意味していた。 時折ドア越しに同業の整備士たちの慰めるような声がかかるが、は気のない返事しか返す言葉を持たなかった。 カミーユは、そんなの様子を人づてに聞いて、いつか自分が体験したフォウとの永遠の別れのこと思い出した。 悲しみを癒すのに時間が必要だとは思ったが、これ以上時間をかければただの抜け殻になってしまう。そう彼が思った矢先だった。


「カミーユ、」

「ブライト艦長」

「実は、月面都市のフォン・ブラウンで一旦補給を済ませようと思っている。到着まであと一週間は見込んでいるが、それまでに前線から離脱するかしないかの意思確認をにできないだろうか」


ブライトがそう言うのも無理はなかった。部屋にこもったままのメカニックなんて聞いたことがない。 このまま除隊するか、休養をとるか、前線を離れるか即刻決めるべきことであるのは確かだった。 その判断がブライトにできないわけではなかったが、彼は彼女の意思を尊重することで、彼女を本格的に本来の時間の流れに引き戻そうとしているのだろう。 きっとブライトは、彼女が前線を離れることを望んでいるに違いなかった。 そしてその引導を渡すのは、もうフォン・ブラウンへ降りることを決めているカミーユに白羽の矢が立ったというわけだろう。


「・・・聞いてみます」

「頼んだ。わかり次第報告をくれ」

「了解です」


通路の途中でブライトと別れたカミーユは、まっすぐにの部屋に向かう。相変わらず扉は閉ざされて開く気配を持たない。 ブザーを鳴らしながら、カミーユはその部屋の主の返答を待った。僕だ、カミーユだ、開けてくれないか。 声をかければ閉ざされた扉はすぐにも開いた。暗く静まり返った部屋の中に、蹲っている影がある。彼女はたいそう憔悴していた。


、起きている?」

「・・・ええ、起きてるわ」

「ひどいな・・・ちゃんと寝ているのか?」

「眠れないの、瞼の裏に光がちらついて」

「場所を変えた方がいい、僕の部屋に来る?」

「なんでもいいわ」

「じゃあ睡眠導入剤を貰ってくる。待てるかい?」


はこっくりと頷く。その緩慢な仕草をみとめるとカミーユはすぐにも踵を返して医務室へと足を運ぶ。
とりあえず、前後不覚の状態にある彼女にはプラッシーボ効果が一番効率のいい睡眠導入方法なのではないかということを医師と相談し、ビタミン剤を数錠カプセルに詰めてもらい受けた。 それを彼女の元に届けるべく、再び部屋に足を向ければ憔悴した影を追い払うようにして身を屈めた。 は自らを抱きしめてくれる優しい腕に身を委ねながら、憔悴の糸がほどけていくのを感じていた。


「睡眠薬だ。さぁ、飲んで」

「うん―・・・」


薬を受け取りながら、彼女は数錠口に含んで噛み砕いた。それから差し出した水を含んで身体の中に流し入れる。
暫くして落ち着いたのか、は泣きそうな表情でカミーユに問いかけた。


「カミーユあなた、どうしてそんなに優しいの?」


彼は表情をくしゃりと歪めて笑う。


「優しくなかったら、生きている資格がないんだ」