彼と私は一体何なのだろう。は時として深みに嵌っていくように考え込んでしまうことがある。
何気ない会話、ふとした会話から零れる穏やかな笑い声、何もしないで過ごす休日、手を繋ぎ、腕を組み、キス、セックス。この二年間のうちに何度となくした。 きっとそれは、恋人としての通過儀礼みたいなものだ。ならばきっと、私たちはきっと恋人なのだろう。 だが恋人という関係の定義とは果たして何なのか。それについては言葉に詰まる。
ドイツ語では恋人との関係性を何と顕わすのか、生憎は存知あげないが、英語でこんな言葉がある。 《24:トウェンティフォー・セヴン》―・・・安易な直訳だと二十四と七。一日に二十四時間、一週間に七日間、片時も離れずあなたといたい24・7。
つまりは片時も離れない存在という意味なのだとか。残念なことに、と彼―天城燎一はトウェンティフォー・セヴンの四分の一にも満たないかもしれない。 心を占める割合ももしかしたら同じくらいかもしれない。互いが互いの心に寄り添うようなロマンスの香りは薄い。 けれど、思わぬ瞬間に訪れるとびきり甘い時間だってある。普段感じるシガレットのようなほろ苦さとは裏腹に、の心を焼き尽くすようにそれは甘く優しい。 だから天城との関係を無為にすることができないでいるのかもしれない。
だが、今はとびきり強い酒を飲みほした後に、ついでにその酒瓶で頭を殴られたように痺れるような痛みがある。殴られた経験はにはないが、要はものの喩えだ。 地下鉄の手すりに寄りかかり、耳にあてた携帯電話を握った方とは別の手首に巻かれた時計の時刻を確かめながら、彼女は一人溜息を零す。 相手の声はノイズのためか掠れて、低く、隠しきれない不安と動揺を滲ませていた。


『悪い、約束なのにそっちに戻れなくて・・・』


彼の切り出した謝罪に謝らないでと言ったのは間違いなくの方であるはずなのに、いつの間にか零していた溜息に思わず苦笑するしかない。 天城の乗った飛行機が着陸するはずであった空港は、現在ストライキ中で封鎖されている。 クリスマス間近ゆえの交通機関の麻痺はよくあることだが、勤勉で実直だと名高いドイツで、ストライキが起きることは珍しい。 それゆえに、一旦別の国の空港での受け入れを余儀なくされた飛行機は現在パリにあるという。 仕方がないこととはいえ、突然かかってきた電話の内容には低く呻いた。


「いいの、燎一が気にすることじゃないもの。ストだなんて仕方ないよ。今フランスでしょ?』

『ああ、明日には戻れるんだが・・・』

「・・・」

『・・・』

「ねぇ、何か言って? いつもみたいに、そうか、とか。ああとかうんとか、適当な相槌でいいからさ―・・・」

『なぁ、俺といて辛くないか?』


突然の問いかけに、は言葉を呑みこめず詰まらせた。


「え? 何?」

『俺は同じ国にいられないし、いつも傍にいられてるわけじゃない。そんな男といて辛くないかって聞いてるんだ』


無意識のうちに視線を彷徨わせながら、は泣きたいような、笑いたいような、わけのわからない心地になり口元を情けなく緩めるしかない。


「わかんない。でも今は、凄く辛いよ」

『そうか・・・』

「ただ、私が、違うの・・・私の心の整理がつかないだけ、」

『うん、わかってる』


低くけれども力強い声が耳朶に染みる。仕方がないことだとはわかっていても、この日を心待ちにしていただけに憤りを隠せないでいる。 子供のような聞きわけのない感情を持て余したまま、は話を続けた。


「ごめんね、どうしようもないのわかってるのに、私すごく惨めな気分なの」

『それは・・・』

「ご飯作ってさ、シュトレンも作ったの。シャンパンもワインも買って、あとは燎一が来てくれるだけだったのに」

『・・・悪い、行けなくて』

「だから、あやまらなくていいってば、誰が悪いわけでもないんだけど、わかってるんだけど・・・」

『次に会ったら、俺に当たっていいから』

「ねぇ、疲れてるんでしょう? スト落ちつくまでホテルで休んでゆっくりして、」

『お前も、気をつけて帰れよ』


ご飯も、シャンパンも、シュトレンもあって完璧なのに、天城のいない部屋に帰ることが酷く虚しい。 「お休み」と離れがたい別れの言葉を耳に収めながら、は電話を切った。 玄関から一歩踏み出せば道の世界が待っているように、たまには小説のような展開が巻き起こる場合もある。 つい一か月前まではとびきりに甘かったのに、は熱くなった目頭を指先で押えながら俯いた。
ぼんやりとかすむブーツのつま先、先ほどまで耳元で聞こえた天城の声に、は待ち合わせ場所だった地下鉄のホームを見つめながら呟いた。「最悪だ」携帯電話を握りしめた手に力がこもる。 頼りない足取りで、来た道を引き返しながらアパルトマンへの道を辿り直す。 予定では、こんなはずではなかったというのに、酷い誤算だ。誤算以上、まさしく予想外の出来事である。 「タイミングよくストなんか起こしやがって」と彼女らしくなく汚い言葉で罵りながら、はアパルトマンの部屋の鍵をこじ開けた。そこで、行き場のない怒りは爆発した。
勢いよく扉を閉めながら―・・・クリスマス休暇で住人などいやしない―不機嫌を露わに鍋を引っ掴んで中身をシンクへひっくり返す。蛇口を捻って水を出しながら、はただ沈んでいく食材たちを見つめる。 時間をかけて作った罪もない食べ物たちは、哀れなほどに易々と捨てられて流されていく。まるで自分だ。酷く惨めな気分に浸り、自分を可哀想がっている。 蛇口をひねり水を止めて、鼻をぐずらせた。こんなことをしても、何かが解決するわけでもないのに、不毛であった。


「ふざけんな」


勢いづいて吠え、は財布とパスポート、仕事場にしている書斎にある薄型のノートパソコンを引っ張り出し、仕事の資料と共に小さな鞄に詰める。 勿論、シガレットケースも忘れない。簡易な着替えと共に荷造りを済ませ、部屋を飛び出す。


「クリスマスのない国に行ってやる」


完全に拗ねである。
アパルトマンの鍵を閉め、勢いよく石畳の階段を駆け下りながら、夜空を見上げて彼女は呟いた。


― ねぇ神様、これって何の仕打ちなんですか?


一ヶ月前は、本当にこんなはずではなかったというのに。







***








シーツの中に埋もれながら、戯れるように天城の髪に触れた後では名残惜しく指を離す。逃げるその指を彼が捕えてくる。 大きな掌に指先を包まれながら、は天城に尋ねた。尋ねる、というよりも単なる確認であった。


「ねぇ次って、日本代表の方の練習だったっけ?」

「ああ」

「すごいなぁ、頑張るね」

「とりあえずまた忙しくなりそうだ」


言葉とは裏腹に、口調はいつもよりも楽しげだ。楽しそうな彼に、まで嬉しくなる。「忙しくなるのはいいことよ」微笑みながら思わず返す。 否、口ではいくらでも言える。彼が喜んでいる姿に私まで嬉しくなると、あなたが活躍して、輝けば私も嬉しい。そんなことは簡単に言えるのだ。 だが、時々どうしようもないくらいに胸の内に渦巻くものがある。 勿論、サッカーに嫉妬するなんて万に一つもありはしないが、から天城を取り上げてしまう材料に他ならないこともたしかだ。 きっと、サッカーが女であったなら、世界中の誰をも魅了できる美女であるに違いない。 作家であるらしく、実にたくましい想像力であるが、存外間違ってはいない気もしてくるのだった。
そんな想像に頭を捻っているの表情がよほど面白かったのか、天城は堪え切れない様子で掠れた笑い声を漏らしながら頬にかかった彼女の髪を耳にかけなおす。


「なぁ、

「なに?」

「前に言ってたヴァイナハテンのことだけど、こっちに戻れそうなんだ」

「え、本当!?」


は思わず俯いていた顔を上げる。目が輝いているに違いない。
二人で、特別な休日を過ごすのは久しぶりだった。二人が会った記念日や、互いの誕生日すら、満足に一緒に過ごすことが出来ないことが多い。 勿論、にだってたまには普通の恋人らしいことをしてみたいという願望がないわけではない。
がそこまで喜ぶとは予想だにしていなかったのか、どこか気恥ずかしそうに口ごもりながら、天城はを誘いかけてくれる。


「ああ、だから二十四日でもよければ空いていないかと思ったんだが」

「空いてる、空いてなくても空けるわ。二十四日ね?」

「いいのか? 仕事は?」

「翻訳家なんて自由業みたいなものだもの。打ち合わせがあったら朝に回してもらうし、大丈夫」


弾んだ口調でがすぐさま携帯電話に予定を登録すれば、どこか安堵したように天城は頷いた。


「そうか、ならいいんだ」

「誰かと過ごすなんて久しぶり、今からすごく楽しみにしてる」

「ああ、俺もだ」


戯れるように、は天城の肩に指を滑らせながら微笑んだ。多分、あと一ヶ月しばらくドイツと日本に離れてしまう間は、この予定を支えに過ごせそうだった。 クリスマス。ドイツ語でヴァイナハテンは二十五日から年を跨いだ三日までを祝うのがドイツをはじめとするヨーロッパ圏の旧くからの慣わしである。 だが、日本人にとっては二十四日という日は特別な意味を持つ。天城はそんな意味を込めて、誘いかけてくれたのだろうか。
は緩む頬を天城の胸元に押し付けながら溜息を零す。彼の首筋を熱く湿らせるそれは、間違いなく幸せな吐息であった。








***








悪夢のヴァイナハテンから既に二週間近くが過ぎる。
既に新年を迎え、街は活気に満ちていた。結局のところ、はあの日から数日をスウェーデンにいる両親の元で過ごし、 ドイツに戻ってからというもの借りているアパルトマンには戻らず、出版社の用意してくれたホテルに缶詰めになりながら仕事と向き合っている。 中東か東南アジアにでも行かない限り結局のところ、クリスマスのない国に旅立つことは不可能であった。 それはただ拗ねている続きだと言ってしまえばそれまでだが、随分と長いいじけっぷりである。 いい大人が、クリスマス一日つぶれたくらいで何をやっているんだ、とある程度の良識を持っている人間ならば、の行動を責めたかもしれない。
けれどもにとっては、特別な日であったのだ。恋人は国を股にかけて活躍する押しも押されぬサッカー選手だ。 時間がないのも勿論だが、来年と今年は違う、今年の自分たちで、今年のヴァイナハテンを祝いたかったのだ。 まったく、物書きらしい言い訳だとは苦笑しながら、朝から数えてきっかり四本目のシガレットに火をつける。 細身の葉巻を唇に押し当てながら、はその細い煙の味わいを楽しんだ。 日本語の文がびっしりと埋まったパソコンと向かい合いながら、傍らには付箋がびっしりと埋め尽くされた英文の本がある。 怒りにまかせて仕事に没頭する姿はある意味壮観である。仕事をしていれば厭なこともすぐに忘れられる。 けれどふと現実に戻った時、心は大きな穴を穿たれたように急激に空虚になる。その繰り返しであった。 その悪循環を繰り返すことを知っていながら、細い眼鏡を押し上げながらはタイプに没頭していた。

携帯電話が鳴り響いたのはその時だ。着信を見ればイリオンとある。天城の妹だ。
確かに、彼女とはそれなりに連絡を取り合っているものの、電話をかけてくるのは珍しい。


「もしもし?」

『あ、よかった! 出てくれたのね。もしかしたら出てくれないんじゃないかって思ってた』


明るい声は間違いなくイリオンのものだ。早口のドイツ語で捲し立てられ、は眼鏡の奥の目を瞬かせた。


「え、なんで?」

『だって、お兄ちゃんたらうちに帰ってきてからしょげてるんだもの。この間問い詰めたらストのせいで会えなかったって聞いたの』

「・・・恥ずかしいなぁ、私が勝手に拗ねてるだけなのよ?」

『フランスから列車に乗っても会いに行けたわよ。解決できなかったのはお兄ちゃんのせい。だってお兄ちゃんが誘ったんでしょ? だからは悪くないわ!』

「どうだろう、私電話で、燎一に当たったわ。連絡もしてないし、悪いのは私の方よ」

『ねぇ、さえよければ、外で会えない?』

「え?」

『会って話したいの。だって、お兄ちゃん、と過ごした後はうちに連れてくるつもりだって言ってたもの』


本当は会えたのに、ほら、お兄ちゃんのせいでしょう。と電話越しに呟く悪戯っぽい声音には無意識のうちに力を入れていた口元を緩めて細く息を吐いた。 こんな時間をかけて拗ねているが恐らく一番厄介なことをしているというのに、彼女はは悪くないという。 このくだらない憤りの納めどころがわかった気がしては手元のパソコンのファイルを保存して電源を落とす。


「今暇なの。急なんだけど、そっちまで行ってもいい?」


の問いかけに、イリオンは嬉々として約束の時間と場所を告げてくれる。 二人で出掛ける時にいつも待ち合わせに使うカフェである。これから行けば待ち合わせには間に合うだろう。 は仕事中にだけかける眼鏡を外しながら頬に手を当てて長く息を吐きだした。 長く虚勢を張っていたためか、苦悩に満ちた疲れが少しずつ行き場を見つけて膿のように押し出されている気がしていた。
どれくらいの間、そうしていただろう。指先に挟んだシガレットが灰皿の上で鈍く光る。
シガレットを灰皿へと押し込み、トランクに詰めた服から着れそうなものを探し出さなければならないようだ。










「その荷物・・・出かけてたって本当だったんだ」


がホテルをチェックアウトして抱えてきた荷物の量に何の得心がいったのか、イリオンは神妙な顔だ。 カフェの席に向かい合って腰を下ろしながら、運ばれてきたコーヒーで舌を湿らせる。 健全な未成年の前で煙草を吸うのはよろしくないとの理性からの配慮とともに、ストレス故の喫煙癖を締め付ける。


「本当、今回のことは私が悪いの。というか事を大きくしちゃったのは私だから、私の責任なの」


の言い分に、イリオンはテーブルの上に肘をつきながら唇を尖らせた。


「絶対違う。もとはと言えばストが悪いんだもん」

「そうだったかもね、でも行き場がなくて・・・なんか爆発したの」


の唇から、苦い笑みがこぼれ落ちた。
仕方がないことだと押し切れなかったのは自分が子どもだったからだが、それを認めるには時間が必要だった。 多分、が当たり散らして、拗ねて籠もり切ったのは気持ちを整理するのに十分な時間だったのだ。やややりすぎた感は否めないが。


「お兄ちゃんの予定に合わせてくれてるのはの方だもの。だったら、たまにはわがまましたって赦されると思うけどなぁ」

「ううん、きっと呆れてる。私、燎一の気持ちなんてこれっぽっちも考えてなかった」


懺悔のようにうなだれては呟いた。とでもではないが、イリオンの顔が見られなかった。
イリオンは、机の上で握りしめたの手を優しく叩いて微笑んでくれる。


「ねぇ、さえ厭じゃなかったら、本人に聞いてみて?」


が顔を上げれば、イリオンは親指を通りの外に向けた。


「え?」


思わずその指先を辿り、テラス越しに道路を挟んだ路地で、手持無沙汰そうに立ち尽くす背の高い人影がある。 無意識に口元に指先あてながら、は呆然と呟いた。「う・・・嘘、なんで? え、え? なんでいるの!?」動揺を露わにしたの問いかけに、イリオンは笑うばかりだ。 紅茶のカップを両手で持ちながら、訳知り顔で教えてくれる。


「お兄ちゃん、まともな彼女ができるのがたぶんはじめてだから、どうしていいかわからなくて必死なんだと思う」

「はい?」

がお姉さんになってくれたらうれしいのになぁ」

「からかうのはよして」

「私だってもう大人よ!」


唇を尖らせるイリオンの頬を柔らかく押しながら、は大人という点については首を縦に振った。


「そうかもね、イリオンはもう待てる女だから、大人の女かもしれない」

「でしょう?」


イリオンは首を傾げると、立ち上がるに歩み寄り、勇気づけるように頬を合わせて健闘をたたえてくれる。
頬を合わせてそれに応えながら、は大きな荷物を手にしながら代金をテーブルに置く。


「ありがとう、イリオン。私行ってくる。悪いんだけど、頼んだキッシュ、食べてくれない?」


イリオンの返事も待たずに、は通りに向かって駆け出していく。
反対側の通りでしばらくの後に向かい合う二つの影を硝子越しに見守りながら、イリオンは小さく溜息をついた。


「本当、世話が焼けるんだから・・・」


携帯電話を開きながら、イリオンは東洋人の青年と映った待ち受け画面を指先で撫でる。 ふと、思いがけない鋭さで先ほどが言っていた待てる女という台詞を思い出した。その所為か自然と頬が熱くなり、彼女は細くはにかんだ。


「嫌だな、私も将に会いたくなっちゃったじゃない」

















<24・7:twenty-four seven>
I always thought when the right guy came along my bullshit would calm down and go away and the words would just fall out of my mouth because I would know he was the one.