力強い筆致の絵だ。荒々しく、そしてみずみずしい生命力に満ちている。目の前にある広大なキャンパスに描かれた絵は今しにも駆けだしてきそうな迫力でもって、聴衆に迫るようにひたすらに指先から小さな種をまいている。画風は豪胆。その一言に尽きるが内容はどこか繊細で、見る者の心を知らぬうちにとらえている。
ボストンにある美術館に展示されたその作品は、フランスの画家ミレーによって描かれたものだ。ちょっとした休暇を利用してこの場所にやってきた小島有希は、その絵をどこか感慨深い面持ちで見つめていた。夢を追いかけるための拠点としてアメリカを選んだものの有希にとって、この年月は苦難と挫折の連続であった。挫けそうになるたび、有希はその絵の前に立った。ここに来ると、必ずといっていいほどに思い出すのは二人の友人の存在だ。一人は男。一人は女。一人は中学時代、そしてもう一人は高校時代の友人であった。中学時代において、前者である友人は有希に今の道を歩ませるに至る大切な言葉をくれた。奇しくもその友人は、夢を実現させるに至る道程を半ば絶たれるという憂き目に遭ったものの、今でも諦めずに歩み続けているという。不屈の人。今はドイツにいるのだろう、風祭将のことは挫折に追いやられても有希を突き動かす存在だ。
そしてもう一人、高校生活も半ばにおいて留学という形で単身渡米した有希にとって、高校時代とは普通の女子高生として日常を謳歌すると云うよりも、留学のために両親を説得する期間であったということは否めない。けれども、短くも共に過ごした一人の友人は有希にとって忘れ難い存在となっている。











01. Salut, enchantee!
 不思議と気の合う友人。それが、小島有希にとってのである。有希にとって、サッカーを離れた友人でもあった。
出席番号が近かったからというわけでも、最寄駅が近いというわけでも、ましてや同じ趣味を持っているというわけでもない。快活で常に人の輪の中心にいるような有希と、物静かに周囲を検分するような佇まいの。まさしく二人は正反対であったが、ありふれた放課後の図書室での出来事が二人のことを引き合わせた。毎週そうなのかはわからないが少なくとも有希が図書委員の仕事をしている時、大抵同じような刻限に現われるはいつも文庫本の棚から一冊、本を引きぬいて持ってくる。期限はきっかり一週間。しっかりと返され、そしてまた新たな本を借りるというサイクルを作り上げていた。
有希が知る限りの借りていく本は多岐にわたる。ドストエフスキー、トルストイ、三島由紀夫、コクトー、寺山修司、太宰治、ダンテ、ランボー・・・。作家の名前は諸国放浪といった体で、実にころころと移り変わる。世界史や日本史の文学史に名を連ねる文豪たちであることが多い。今日も例外なく、彼女は一冊の本を返し、そして新たに引き抜いて有希へと差し出す。


「手続き、お願いしてもいい?」

「うん」


日ごろから繰り返されるやりとりであったが、ついうっかりというべきか衝動的に有希は呟いていた。


「いっつも、難しい本読んでるよね」

「そう? サッカーのルールの方が難解だと思うけど」


独りごとにしては大きすぎる声を拾ったのは、紛れもなくだった。
恐らく、きょとんとした表情を浮かべていただろう有希に、は口元を上げて微笑んだ。淀みのないまっすぐな笑い方だ。
うっかり何と返していいのか迷い込んだところで、飲み込みかけた言葉が少しだけはみ出した。


「え、なんで知って、るの?」


― 私がサッカーやってるって・・・

有希が口を開きかけたところで、は鞄を持っていない方の手で有希が先ほどまで眺めていた雑誌を軽く指先で触れて示した。“週刊サッカーマガジン”―十五歳以下の日本代表に選ばれた友人の名も、巻末の小さな枠内に連なるようになって久しい雑誌名だ。


「だって、あんまり熱心に見てたから。好きなの? サッカー」

「あ、うん」

「私、あまりサッカーって見たことないんだけど、生で見るのとテレビじゃ、やっぱり違うよね」


開口一番の台詞が「どの選手が好きなの?」でなかったところが有希の気を惹き、突如として言いかかった言葉たちがするすると飛び出してくる。


「全然違うよ! ね、さんはスポーツとかしないの?」

「従兄が野球をしてるからよく観戦するんだけど、観戦専門なだけで私には体育が限界」

「勿体ないって、」

「無理無理、私運動音痴だもん」

「えー、残念・・・」


さざめくような笑い声。そこが、あまり人が近寄らない図書室であるというのをいいことにその日にも、二人はひとしきり話をした。
そうして、ふとしたことからクラスの中でもよく話をするようになり、有希はそんなをいつしか友人の一人として好ましく思うようになった。同じクラスでありながら、なかなか話す機会をもたなかった二人の友情は、小さく育まれていったのである。








02. Et il tourne follement

「へぇ、プロのサッカー選手。私そこんところがよくわからないんだけど、ドラフト制じゃないんでしょ?」

「うん。そういうのは、ないと思う」

「日本でやるの?」

「ううん、まずはアメリカで」


メディアで入団会見などが取り上げられるケースがごく稀であるからか、はプロの制度というものをよく知らないようだった。
確かに、有希こそ女子サッカーにおいてLリーグの存在は知ってはいても現在はどちらかというと下火にあり、プロには遠く及ばずアマチュアの匂いが強い。だから有希は、もっとレベルの高いプロとしての女子選手を育てる環境としてアメリカに行ってみたいと強く思うようになっていた。けれども、有希がアメリカに行きたいと願ったところですぐにどうにかなるわけではないということを現実として彼女は強く受け止めていた。兄をはじめ、両親の説得、受け入れ先との交渉などやることは山積みであった。肩に引っかけた鞄がやたらと重く感じられる。降りかかる重圧を押し切るかのように、有希はに尋ねた。近い将来、何になりたいのか、と。


「うん。一口で言うと大学に行って学者になりたい」

「また難しそうね・・・」


こういうところが、有希になんとなく不破大地を思い出させる。
は悪戯っぽく囁くような笑い声をあげながら、傍らに立つ有希に笑いかけた。


「そう言うと思った」

「ああ、ごめん。あたしが言いたいのは・・・」


有希の出し損ねた言葉を拾うのはの得意とするところだ。の選ぶ言葉は時折回りくどいことがある。それは、相手を傷つけないための彼女なりの気づかいだと有希はよく知っているつもりだった。


「旅をしながら、日本語を教えたいの。いろんな土地や国で、日本で生まれ育ってない人たちに」


それは日本人というアイデンティティーを持ちながらも、海外生活の長さゆえに母語の喪失を経験してしまった人たちにも適合するという。
がそれとなくほのめかした言葉達は、その中に実に多彩な意味を持っている。


「へぇ、そういう仕事ってあるんだ」

「じゃあ外国人の通訳の人ってどうやって日本語を理解するの?」

「あぁ、そうよね」


いろいろな土地や国で―・・・そう聞いた時、ふと有希はが借り出した沢山の本たちのことを思った。まさに諸国放浪といわんばかりの勢いで連なる書籍名や作家名に彼女の行動と理想が合致していく。夢を語りどこまでもそれを追いかけようとする姿に、有希はどこか風祭将の姿を重ねていく。彼女ならきっとできる。根拠もないのにそう信じている、否、信じたいと思っている自分がいる。


「大丈夫、ならできるよ」


全身全霊の祈りを込めた言葉は、力強く響いた。けれどもその言葉に、は呆れたようなそれでいて嬉しそうに確信を深めたような笑い方をする。


「最初に言っておくけど、私の仕事、有希もいないと務まらないからね」

「え?」

「だって、サッカー選手になって世界中を飛び回るんでしょ? 遠征するたびに、母国語の響きがあったら素敵だと思わない?」

「まぁ・・・そうだけど、」

「少しの挨拶でもいいの、その国の人を見かけた時に温かく声をかけられる。そういう世界になったら素敵だと思うんだ。私が種をまくから、有希はそれを確かめて見届けてほしい。遠征先でも、留学先でも、ね」


暗にそれは、一緒に夢を実現させよう。というからのエールであるように感じられて、有希は自然と肩の力を抜く。
肩に引っかけた鞄が、今度は軽く感じられた。


「じゃあ私は、まずは両親の説得から始めなきゃ」

「うん。でもまずは、過保護なお兄様から攻略した方がいいと思うけど・・・」


有希は目を丸くした。その手は思いつかなかったとばかりに。一方では、どこか得意げに微笑む。


「“将を射んと欲すればまず馬を射よ”ってね」

「なんか、ちょっとずれてる気がするけどまぁいいや、」


の助言のとおり、先に兄を説き伏せた。
昔のように、練習をねだるように振舞ってもまともな答えが返ってこないことは重々承知していた。いつもよりも鋭いまなざしを宿した有希を見、彼女の兄は人生のそして選手としての岐路ともいえる時期に妹が真剣に留学を考えているということを知った。意思の強さは一体誰に似たものなのかと兄は呆れながらも、両親の説得を手伝ってくれると言ってくれた。贔屓目で見ても、頼もしい兄だ。
顔が合いさえすれば両親を説得したものの、返答はいつも煮え切らない。どうしてなのか、わからない有希ではなかった。娘を渡米させることは、彼女の両親にとって荒野の中に一人娘を放り出すのと同義だった。勿論、彼女の両親はサッカーをすることに対して異論を唱えていたわけではない。環境の問題である。当時はまだ学校内での銃乱射事件のことが記憶に新しく、法的に銃の所持が許可されているような国に単身放り出すのを簡単に許すわけにはいかなかった。旅行とは違う。留学である。即ち、その国でしばらく暮らすと云うのだ。不安にならないわけがない。そんな時いつも有希は女である自分を呪った。自分が女でさえなかったら、自由にあのフィールドを駆け巡ることができるのに。
それ以前に、わざわざ両親を説き伏せてまで、留学する必要はない。なぜ女に生まれてきた。なぜだ。なぜだ。なぜだ―・・・。苦悩はやまない。












03. Non, je ne regrette rien

「ねぇ、考えてみたことある? もし、自分が自分でなかったらって」


謎かけのように有希がに問いかければ、彼女は読んでいた小説から顔を上げて有希を見た。手元には澁澤龍彦。澁澤―・・・渋沢、と聞くとなぜか武蔵森学園のゴールキーパーの彼が思い出される。サッカー馬鹿だ。有希の問いかけに、は珍しく思い悩んだように眉根を寄せて、知識をかき混ぜながら答えを探しているようだった。だが―・・・


「うん、ないね」


答えは至極あっさりとしていた。


「なんで?」


問いかけずにはいられない。


「だって、人生のたらればなんて考えたらきりがないし、今あるもので、やるしかないじゃない。頑張ったって時間は戻せない。そんなの不毛だよ。だったらその分、現実を思うように変えられるように努力すると思う」


なんとも現実的な、らしい答えだった。しかし、どこか腑に落ちないのか思いつめたような表情に有希に、は優しく畳みかけるように問う。芝居かかった口調が、どこか笑いを誘ってくれる。


「“わたしの人生ったら! ひどいもんだわ”って顔してるわよ」

「なによそれ」

「マレーネ・ディートリッヒ。そっくりじゃない、有希は知的だし忍耐強い」


古い映画にも精通していたは、有希のことを古めかしいドイツ(アメリカ)の女優になぞらえてそう呼んだ。礼儀に関しては十戒並みの厳しさを持つと云われた名女優に有希をなぞらえた本当の意味を彼女はまだ知ることはなく、いつも内心で首を傾げるばかりだった。
そしてそのたびに、はどこか透き通ったような表情をすることが、有希の心に焼き付いていた。










04. Au revoir

両親への説得が功を奏して有希は夢に向かう足がかりを掴んだ。もちろん、手放しでは喜べない状況であったのは確かだ。
両親はあちらでの学力の維持を条件に有希の渡米を許してくれた。あとは自分がどれだけモノにできるかどうかがかかっている。二年いや、三年前までは夢にまで見たような世界に今自分は片足を乗せようとしているのだと有希が気がついたとき、無性にそのことを伝えたくなった。高校二年の夏休みを目前にした出来事だった。登校日に顔を合わせた時、真っ先にそのことを伝えると、は自分のことのように喜んでくれた。


「本当に? やったね。これで思う存分、有希のサッカーができるね」


有希の手を力強く手を握りながら、は自分自身もオープンキャンパスである程度志望校を絞ったことを話してくれた。聞けば、の夢を叶えてくれるに至る大学は日本の中でも数少ない。日本語教師という制度は明確な国家資格がなく、殆どはボランティアであるとされている。しかし、ボランティアであろうとも質は一流であったりと内容を目にするまでは一概にその質を問えないことが問題視されていた。二人の抱える将来への問題は一緒だった。世間や周囲の認識が甘く、市民権を得ていない夢であった。その存在を軽視されていることが万人が正しい理解をすることを阻む。けれども今は、そんなことよりもただ喜びだけが有希の世界を支配しているのだ。それは誰の目で見ても明らかであった。
 


空港での別れの日には、中学時代からの友人の数人は勿論、高校のクラブでの友人が駆けつけてくれ、ささやかに別れを惜しむことになった。それほど人数は多くないものの、夢を追いかけることを応援してくれる人がいることで、有希の胸は誇らしさで満たされる。自分はこれから、胸を張って行けると確信を持てた。少し離れた場所でそのざわめきを検分するように佇んでいたは、いつものように穏やかな笑みで有希の背を押した。中学時代の友人にしてみれば、見かけない顔であるや高校のクラブのメンバーは少し距離をおいた場所に立っていたので、一通り話が終わった後、有希はに駆け寄った。
アメリカへと旅立てる喜びをかすかな余裕に変えて、有希はに告げた。


「私、ちょっと先に行ってが種をまく下見をしてくるわ」


そうすれば、は驚いたように目を見開き、そしてややあってから表情を崩す。


「じゃあ、私は有希の下見が終わった頃に旅立つよ」

「お互い頑張ろうね」


頷きあいながら健闘を讃えあったところで、は手にしていた小さなバッグから一冊の本を取り出す。それは図書館で借りていた本でもなければ、がいつも読んでいた小難しい内容の本でもない。恐らくは有希が初めて目にする本だった。ブックカバーに包まれていないそれは、少し古びていて長い間大切に読まれていたのか装丁は型崩れしておらず、誇り高いほどに美しい。
本にそんな言葉をつかうなんて、変なのだろうが、有希の目には紛れもなくそう映ったのだった。そしては、その本を有希へまっすぐに突き出した。


「これ、私からの餞別」

「何?」

「急に思いついたから、ちゃんと包めなかったんだけど・・・暇つぶしに読んで」

「わかった。大事にする」


《モロッコ-Morocco-》と書かれた小説はどうやら映画から小説を書き起こしたものであるらしかった。アメリカに行くのに、何故にモロッコを選んだのか。見えざる意図が絡んでいるなどとは知る由もなく。栞代わりに、絵葉書が一枚挟まれていることに気がつき、有希は手に取ろうとしたがそんな暇はなかった。荷物はとうに預けたが、搭乗時間が迫っていた。慌てて手荷物のショルダーバックに小説を詰め込み、有希は顔を上げた。新天地を見据えなければ。


「じゃあ、私行かなきゃ」


異口同音に激励の声が響く中で、やはりは写真から切り抜いたように静かにたたずんでいる。
それが、有希がの姿を見た最後のことだ。